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葬儀

 婦人会の役員さんだった、古参同人の葬儀。

 皆さんと勤行した葬儀も厳粛に営まれ、また初七日の最後に遺族全員での故人への分かち合いも、想像以上に温かい雰囲気(K先生ありがとう。これとてもいいです)に包まれて、ぼくもとても晴れやかな気持ちで帰宅の途についた。葬儀社の担当の方まで、「私も家が浄土真宗なんですが、その聖典(日常聖典)は販売されていますか」と言われたので、皆さんのために持参していた日常聖典を差し上げたら、たいへん喜ばれ、そのことでも、少し話もできた。

 皆さんで、しっかりお念仏称えてもらえたこと、また正信偈、阿弥陀経を一緒に、かなり大きな声での勤行されたこと。家族葬なので、外部の列席がないのも、慌ただしくなく、それでいて、99歳のご生涯ということで、親族だけでも30名の列席で、寂しくもなくという感じ。

Img_7404 葬儀の後は、宇治の斎場へ。

 まさに、「朝(あした)には紅顔ありて夕(ゆうべ)には、白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ちふたつの眼たちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて、嘆きかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふも中々をろかなり」の言葉が、身にしみる。

 でも、これは、無常を詠嘆しているだけではない。

 「されば、人間のはかなき事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀佛をふかくたのみまいらせて、念佛申すべきものなり」

 いつも申しているとおり、ここひとつが肝要なれど、なかなかここに焦点を当てて聞く人はない。ここの味わいは以下の記事を参照してください。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-4b57.html

 当然、儀礼としては、いい雰囲気だったが、聞法という点ではどうだったか…。最後に、喪主の方が、「ほんとうにありがとうございました。とても温かな葬儀で、たいへん感銘しました。きっと母も、天国で喜んでいるでしょう」の一言。

 ああ、3度もご法話しても、こんなもんなんです。とても、真剣に、喜んで聞いてくださっていたけれど、これは、極楽や浄土と、天国との単なる用語(言葉)だけの問題ではない。そう考えると、聞法の焦点が定まるなんて、とても、とても、とてもたいへんなこと。それにしても、最初は、まず人間関係を作ることからしか始まらない。それが重なり、積もり、手を代え品を代え、不思議にも、後生の一大事に焦点があたり、自分こそが問題になる聴聞に切り替わるなんてね……。不思議としかいいようないですね。そして、この末世に、そこひとつに焦点を当てて、聴聞させてもらう仲間がいるなんて、なんと有り難いことでしょうか。

 まあ、焦らずにいくしかないでしょうね。

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コメント

先生、お葬式のお話すごく有り難いです。南無阿弥陀仏。仏青大会ありがとうございました!!

投稿: きょうこ | 2009年10月15日 (木) 15:09

きょうこさん>ぼくも、仏青大会の懇親会(二次会)でお話できたことが、よかったです。
 そうですね。ぼくも、だんだんと葬儀に関する気持ちが変わってきました。葬式仏教、葬式仏教ととすぐに揶揄しますが、そう簡単には否定できない面もあるなーと思います。それでも、経済的にも、その様式や儀礼にしても、本来の信心のありようを揺さぶったり、非真宗的な落とし穴も多数あるのは事実です。最終的には、伝道者(僧侶)の態度が問われますが、なかなかこれは難しいです。でも、今年のことで、ぼくなりに、華光の中でも、何か出来そうな気がしてきて、いまは積極的な気持ちがしています。

投稿: かりもん | 2009年10月15日 (木) 17:01

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