同人・同行と共に
東京講演会のコメントに返答を書いているうちに、華光では、わかり易くする時には、会員(同人会員との並記もある)と使うこともあるが、普通は、東京同人とか、○○同行、「華光同人の××です」というように、同人、同行という表現を普通に使っているなと、あらためて確認させてもらった。確かに、ただの会員とか、支部だけだと、どことなく味気ないものね。
もちろん、これは昔からの真宗の習わしではあるが、言葉が、実態に伴って生きているところは、もう少なくなっているんじゃないのか。
一般でも使う「同人」はもちろん、「同行」だって、別に浄土真宗の専売特許ではない。
ネットで「同行」を調べると、
1、連れ立って行くこと。また、その人。「どうこう」。
2、連れ立って神仏に参詣する人々。
3、心を同じくしてともに仏道を修める人々。真宗ではその信者をいう。禅宗では「どうあん」というなどと、『大辞泉』にあった。
「同人」とは、同じ志(こころざし)をもつ人、つまり同士ということになる。
真宗的にいうと、同じ凡夫同士、同じ念仏に生きる同士ということになる。
顔かたちも、性格も、生まれも、年齢も、時に好き嫌いも異なるお互いが、心を同じくして、念仏の白道を歩み、連れ立って往生極楽の道を共にしようという仲間ということになる。
後生の一大事は、ひとりひとりのしのぎである。独生、独死、独去、独来、どこまでもひとりで聞く教えだ。でも同時に、それは、同行、知識に育まれ、導かれて法を共に求める教えでもあるのだ。
その信心の衆生を、「わが善き親友(しんぬ)」だと釈尊はおっしゃった。もちろん、それは真実信心の衆生を指しているわけだが、もう少しその精神を拡大すると、その仏道を歩もうとするもの、仏道を求めるそのひとりひとりが、いとおしく尊い存在として尊重されてくるのである。
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