声に出し、共有しあう
東京法座の2日目午前中は、華光誌輪読法座にした。「全徳施名のこころ」を、順番に声にだして読んでもらい、味わいや感想、疑問点などを出してもらった。
京都では、2回に分けてやっているところを、1回でやるので、小見出し1章ずつではなく、2~3章ずつ読んで、分かち合うということにした。人数も多く、慣れていないこともあるのか、それとも、ご縁の新しい方が多いからか、または、おしとやかな控えめ方が東京支部には多いのか(若干名は唯徐)、座談・感想の分かち合いは、かなりおとなしめだった。積極的に皆さん全員の声を聞くことはできなかったのは、とても残念だが、それでも、地方から参加してくだった方が、自己のところ開いて発言してくださったり、若い娘さんが声に出して読まれた阿弥陀様の大悲のお心を、隣の母親が嗚咽しながら、聞いておられる姿が尊かった。
ただ発言は少なくても、今回、声に出して読み、そのことを共有しあうというだけでも、ある意味では、十分有り難いなーとも思った。もちろん、高齢の方もある、人前でなにかをするのが苦手という方もある、もしくは緊張で、読み間違いや詰まられたりすることもあったろう。一方で、声を詰まらせたり、嗚咽を押さえながら、読んでくださる方もあった。そのすべては、その人を通じて、声となって出された、つまり音読するという作業ひとつからでも、その方の理解度やご法の味わいが窺えるようで、貴重だった。
特に、ここは、阿弥陀仏のわたしにかけられた大悲心の塊を聴かせていただくのである。全ての徳を惜しげもなく南無阿弥陀仏という名に封じ込めて施そう、それ以外に、このわたしは救われるすべがなかったのである。そのために、どれほどのご苦労があったかは、実は、そのすべてを窺え知ることなど、凡夫に絶対にできるわけがない。全ての徳の、「全」などわかろうはずがない。しかし、その深く、広大で、温かいお心には触れることができるのである。その万分の一、劫分の一もわからないが、そのほんのほんのほんの一端の事実にふれ、そのおこころにほだされたおかげで、わたしの口からも、南無阿弥陀仏と名乗り出て下さるのである。
そして、そのことが、私の、皆さんの口を通じて、声となり、証明されていくのだ。
ほんらい届くはずのないような、石、瓦、礫のような、無機質で、冷たいこころにも、それが届くので、私の目からも涙となり、大悲のおこころが立ち上がってきてくださる。
それを、わたしが聴かせていただき、その喜びをまた声として発していくのである。
ここにも、連続無窮として休止さざるお働きがあるのである。
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