超世の悲願
華光誌輪読法座。10月も終わりだというのに、夏日近くまで気温があがった。日が差すところはかなり暑くて、半袖の人もいたぐらい。輪読にしては、わりとお参りが多くて、いつのまにか滋賀県率があがっていた。
巻頭言「なぜ私は生きるのか」と、聖教のこころ「大悲心の塊」を読む。未信の方やご縁の新しい人が多いので、最初、声が出づらいかった。どうしても、瑣末な言葉にひっかかってしまって、なかなかその心を聞く、受けとることは難しい。もちろん、きめこまやかに読んでいく、丁寧さならば必要だけれども、それには、まずその大意も掴んでおくこもと大切である。これは一般社会でも同じかもしれないが、言葉づらだけにすぐきまった反応してしまうと、大事を聞き損ねてしまいかねない。
仏法は、阿弥陀様の世を超えた願いをお聞かせに預かっていく教えだ。でも、ぼくたちの頭は、世間の枠組み、自分の経験の範囲、その自分の尺度でしかものは計れない。50歩100歩の人間同士でのやりとりでもそうだ。先を歩む人の高度な考えは、未熟な身に簡単に理解することなどできないのに、自分の目先の知恵で、大評論家のように批判さえしていく。ましてや、超世の悲願なんですからね。どうして、この世にドッブリとつかっている私ごときの狂った頭で理解できたり、計らえたり、わかったりするのだろうか。
でも、絶対に分かるはずだと、うぬぼれている。実感できると頑張っていく。自分がしっかり聞かねばと、カチカチになっていく。
だから、19願→20願→18願と、順番に転じていくのだと常識的な考えに囚われる。簡単に一足飛びにはいかないのだから、ご縁を重ね、聴聞をし、または宿善を積んで、仏道を歩んで行きせえすれば、いつかは18願に転入する日がくるだろう。もし仏道を歩まねば、その日は絶対にこないのだから、努力し、聞法精進していこう思考で、聴聞・聞法している。一見すると、この世の道理にそった常識的な考え方だ。
もしかすると、19願→20願は、自力なのだから、そんな自分の力を信じ、励み、実践していくと、いつかは到達でくるかもしれない。もろちん、それは今生か、次々の生かはわからないがね。しかしである。20願→18願は、果たしてこの自力の方向、発想は通用するのだろうか。むしろ、19願から20願、そして18願と常識的に自分の自力の頭で計らっているうちは、絶対に18願・弘願の世界には到達することはありえないといっていい。絶対に、自力の延長、19願から20願の先に、他力の18願はないのである。自力をやりつくさねば、他力に達するなどという常識的な聴き方では到達できないのである。いわば、私の腐った頭で、またはこの虚仮不実の身や心では、絶対にはからいきることのできない、大悲の大願のお働きによら、願力、他力の一方的なお働きでなければ、達することのできない広大無辺の世界があるのだ。それは、19願→20願 18願←とでも顕すように、他力世界は、私、衆生の方向からではなく、仏様の方向から、一方的に廻向されてくる世界なのである。それは、自力を離れて、他力に帰す以外、つまりは「転」入する以外には、実現することのない広大な本願海であり、摂取不捨のお働きだといっていい。真如に背反し、狂ったように闇から闇へと流転し続ける逃げる私を、どこどごまでも追い掛け続けて、かならずおさめとり、一度おさめとったら、二度と逃すないどそいうお働き、その生きた力そのものを、阿弥陀と名ずけられたのである。阿弥陀様のお心を聞くということは、その生きたお働きに遇い、摂め取られたことにほかならない。不思議にも、虚仮不実の身が、功徳のうしおで満ち満ちるのである。
こう話すと、求道中の方も、「なるほど」と頷かれる。しかし、その次ぎにはだいたいこんな感想や質問がでる。「摂め取られたいう実感があるんですね。私にはいくら話を聞いても、頭だけで、その実感がないから、私はまだダメだ」と。やれやれ。
でも、もっと上手もいる。「救われるのが如来様からの一方的な働きならば、私は聞いても聞かなくても同じじゃないですか。それにただ待っているだけなら、無気力な信心になりませんか」と。もうトンチンカンもここもまでくると国宝級だね。
まったく、お目当ての地獄一定の私がお留守になっている。そして、ただうぬぼれ、ご本願を疑(はからい)ているだけなのにね。
私ひとりを、この私ひとりをですよ、お目あてにされた南無阿弥陀仏さまに出会えば、すべてが即に分かることなんですがね。それしかないねー。
(ゆうこが、大学で村上速水先生の本を借りてきた。なかなか面白かったが、三願転入を図解されていたのを、少し参考にさせてもらった)
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