仏様と向き合う
週末、ぼくは、輪読法座と、生駒市での大阪支部法座と続いた。
ある方の「仏様と向き合へ」という話題を巡っていろいろと話がでた。
確かに、よく「仏様と向き合いなさい」といわれるが、言葉は簡単に理解できるので、「ハイ」と返事はするものの、言われたことを実践しようとすると、実は、なにも分かっていないことに気付く。
第一、「仏様と向き合う」といわれても、その仏様がわからない。まさか、言葉どうりに、仏壇の前に座りじっと眺めることではないのだろう。「経典のどこにそんな言葉ありますか?」なんて、根拠を求めたって意味はない。
これは、実際に法を求めた求道者、実践者が、その自らの廻心の歩みを通して発することのできる、真理のことばなのである。
そこで、「仏様と向き合う」ことは、実は「ほんとうの自分自身と向き合うことだよ」と言われると、「えー?」と混乱されていく。どうして、私=仏様なの? もちろん、そんな単純な図式では、これは腑に落ちる話ではない。
でも、いつも自分とは対面している、どんなものかが分かっている。それはたやすいことだと思っているのだが、実は、分かっていると錯覚しているだけで、ほんとうに自分では自分自身のことなどなにも分かっていないのではないか。第一、自分の力で自分はわかるはずがないのだ。
つまり、真実そのものの仏様の前に立ってみて、初めてほんとうの自分、仏様に照らされた仏様がみそなわしてくださっている、もしくは仏様が願いをかけねばならなかった、迷いの姿が、ありありと映し出され、立ち上がって来るといっていいのだ。
その「仏様と向き合う」といっても、リアルに仏様をイメージすこることでも、声なき声が聞こえてくることでもない。それは、わたしのまわりにおられる、わたしの前を歩まれる善友、善知識の法の言葉を手がかりに、いままで一度も問題にしたことのない、いままで避け続けてきた、もしくは一度も死んだことのない自分自身が、ありありと照らされ、映し出されていくことなのだといってもいい。
かなり横道に逸れるが、法座の車中で、河合隼雄先生の『カウンセリングの実際』という本を読んでいたら、こんな項目があった。
カウンセリングは「なまぬるい」ということに批判に対する先生の反論である。それによると、相手のいうことを「フン、フン」と聞いてるだけでなまぬるい、やはりもっと叱ったり、必要ならば体罰をまじえるぐらい教育することが大切なのだということに反論されている。そんな方は、カウンセリングの実態を知らないというのである。ある問題をクライエントが発言する。それに対して「ハイ」とカウンセラーに相槌をうたれ、まっすぐに向き合われると、次ぎの言葉を求めて、自分自身に向き合っていかねばならなくなるというのである。内的に、クライエントは自分で掘り下げた事実に、自分で直面していかねばならなくなるのだ。それは一般的な体罰のような外的な厳しさではなく、内的な厳しさといってもいい。
つまり、自身をありのままに映し出すカウンセラーと向き合うことで、触れたくない、避けていたい自己と正面から向きあわねばならなくなる、もしくは、その未知なる自己探求の旅をご一緒しましょうということであろうか。でも、それが嫌なので、しばし避けたり、はぐらかせたり、誤魔化したり、または冗舌であっても、単に外的な話題や他人のことをトッピックス的に話すだけでは、まったく自己の真実には触れることはなく、カウンセラー側も、それに同調して安心を与える、なまぬるいカウンセリングになることは反省してくもはならない…。
つまりは、傾聴という姿勢を前にする時、なんでも話せるという安心感がもたらすと同時に、常に「それで、あなたは?」という厳しい問いかけも暗に含まれているといっていい。だから、そんな場面を、避けたい。反発したり、誤魔化したり、時に批判したり、沈黙したい。座談で自己が問われ、詰まったり、取り繕ったり、または心境や症状に触れるだけで終わったり、「どうしたら」の方法論を求めるだけだったり、「決意表明」で終わるだけなのに、そんな自分の気持ちや頭の中だけでグルグルやっているもち替えの作業を、ぼくたちは、真剣な聞法とか求道といっているのだけであって、ほんとうに聴いたことがないといっていいのだ。つまり、これまで一度も、いまの、ほんとうの自分に触れながら、聴くということはなかったのであるなら、いますぐに、間違ったところに力をいれる愚をやめて、いま一度、自らの聞法姿勢を問いかけていけばいい。そして、ほんとうの自分と向きあってみればいいのだ。
聞法は、聖教や根拠を覚えることでも、教えを頭で理解して整理することでもない。
ただ、善友、善知識の言葉を手がかりに、自らが仏樣と向き合っていくのである。
どう仏様は、私に呼びかけてくださっているのか。
仏様は、どうしてこいと、この私に言ってくださっているのか。
仏様に呼びかけられている私とは、いったいどんな者なのか。
そこで、私はどうしたいのかと…。
これは、わかる、わからんという世界ではない。
まさに、いま、ここの自分自身で聴く以外にはない世界だ。
だから、恐れることなく、仏様に向き合って聴かせてもらいましょうとお勧めされるである。ならば、そのお勧めに従うだけではないのか。
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コメント
このまま「巻頭言」に載せてよいほど的確なおさとしでした。ありがとうございます。
投稿: Moz@評論家mode | 2009年9月28日 (月) 09:46
>仏様は、どうしてこいと、この私に言ってくださっているのか。
なんまんだぶつ
なんまんだぶつ
なんまんだぶつ
私事で恐縮です。いま、強烈な片頭痛で、左耳の上あたりがキンキンしています。首や肩の筋肉の凝り、モニターの見過ぎによる眼精疲労、嚙み合わせ不全によるあごの緊張……カラダのアンバランスによる極度の緊張性頭痛だとわかったつもりなのですが、とにかく痛い(T^T)。「ひょっとしてくも膜下の前兆?」とかいう馬鹿な考えも頭をかすめます。私、迷いだらけや。
でも、先生のおすすめは、ホンマにありがたい。
なんまんだぶつ
なんまんだぶつ
なんまんだぶつ
ホンマに痛いもんは痛い。(T^T)
ホンマにありがたいもんはありがたい。(^.^)
失礼しました。東京の御法座を心待ちにしております。
投稿: はらほろひれはれ | 2009年9月28日 (月) 20:21
Mozさん>福井ではお世話になりました。そうですね、巻頭言用にまとめてみてもいいかれもしれませんね。
はらほろひれはれさん>お大事にしてください。
ほんとに「痛いものは痛い」しかないのが凡夫ですよね。でも、そにこ「有り難いものは有り難い」とそのままいただけるようになった不思議を感じます。
先日のWSで、たとえば「親と向き合う」という体験をして、何かと向き合うことは、その人やものに直面するのではなく、結局、自分自身と向き合うことにほからないという、当たり前のことをあらためて感じました。その究極が、「仏様と向き合う」ことなんでしょうね。そう言われても、すぐに外に眺めてあれこれ並べるだけでは、そのお心は届かないですものね。
投稿: かりもん | 2009年9月29日 (火) 00:30