福井聞法旅行(2)~信心の合理化か、溝さらえか~
企画当初はどうなるのか心配し、参加者も少なくやきもきしたが、皆さんのおかげで、ご法にたっぷりと触れさせてもらえた3日間となった。もちろん、順調なことばかりでなく、ハプニングもあったけれど、それでも安心して聞法することができたのは、お世話方や新潟・北陸支部の皆さんのおかげだ。快適に過ごせるように、細々としたご配慮をいただいことをうれしく思った。
ご法話でも触れたが、私がこの世に生を受ける前から、目に見えない種々のおかげ、お育て、お護りが十重二十重に手厚くあるおかげで、いまの私があり、そして聞法をさせてもらえるご縁があるけわけ。私を照らし、育んでくださる。そして、照らし、護ってくださっていく。もうこの照育のお働きだけを知らされても、もう十分に頭がさがるし、念仏申さずにはおれない。特に、「信心ほしい」、いや「立派な信心ほしい」、いいえ「クッキリ、ハッキリした安心、確信がほしい」方には、わが身の「ほしい、ほしい」だけでなく、そこまでお育ていただいて、ご縁の尊さ、目に見えないご苦労の数々に目を向けて、しっかり聴いてほしい。
でも、そこをもう一歩出ないとね。いわゆる「宿善を捨てる」ところ。そのお育てはなんのためなのかを聴かないと、ただご縁をを喜ぶだけ、不思議な体験を喜ぶだけ、ただお念仏を喜ぶだけの縁他力の信心に留まってしまう可能性がある。
つまりは、限りないお慈悲を、体験のところで限りあるお慈悲にしてしまう。だって、私の限りある頭でとらえるには、どこかで枠をつけないと納まらないからね。だから、ほとりのない法水を、自分の小さな器に收めて満足していく。そして、ご法縁にあうたびに、「信心を合理化」(『親指のふし』248ページ)していく。つまり
「如来様は、喜んで来いとは、はっきりせよともおっしゃっていない。泥凡夫の心に、喜べるようを心があるものか。仏法を求めようという心の、カケラもないそのままを見込んだうえで、助けにャおかんという仏様が、仏様のほうから手を下げてくださっていのか、お念仏のお救いではないか…」と。これは、具合がいいよね。「そうまで仏様がおっゃるなら、私が救わずに誰が救われるか」と、またドッカと腰をおろすわけです。
あれ! このセリフ、いつものあなたの決まり文句じゃないのかー。
しかし、よく注意して下さいよ。これは、人が言ってくれたもの、つまり説教に安心しただけにすぎんのです。
うーん。皆さん、大丈夫か。
ここが聞法の要点。華光の華光たる所以。いくらでも、有り難い心境にはなれますよ。それなりの境地ぐらいなら、簡単に与えることもできる。でも、ここを厳しく破ってくださるのが、真の知識じゃないですかね。
だから、「後生の一大事」をいまに取り詰めよとおっしゃる。そこのところで、どう聴くのかですよ。
結局、最後の全体会での話題はここのところで、説く方はお話をしている。でも、聴くほうは、ドッカと腰をおろしたところで聴いているか、少し詰めていかれると「信心崩れました」などと、寝ぼけたことをいうことになる。握っているから崩れる。崩れたんじゃない。最初から、崩れてるんですよ、私の信心なんか! ガタガタの、ボロボロ。それが、絶対に救われない、地獄一定の姿じゃないですか。もう「地獄行きの実感が足らない」なんて言ってられない。凡夫の私は、そこでしか喜べないし、そこでしか勝負できない。それで、人ごとじゃないぞ、いまに一大事を取り詰めよと、厳しくご教化があるんです。
…「疑ったらいかん」と、臭いものにフタうしているが、そもそも、自分のはからいというもの。真にまかせきっているのなら、素っ裸になれましょう。ご教化もほかし、喜びもほかし、念仏もほかし、聞いたとか、ありがとうなったのも全部ほかしてしまって、「サァ、出かけていかんならん」となって、出て来るものがほんものです。そこが「信心のみぞさらえ」というものでしょう。「あの体験があるから」という、それもほかしてみたら、どうですか。持ち物があると、通るところも通れませんよ。(略) 素っ裸になって救われるというのが、念仏の教えです。持ち物作りに身をやつし、喜びの厚化粧をしていると、当座は華やかですがね…。
照育も、照護も、実は、この自力のこころが死ぬ、照「破」の一念のためにあるけわですよ。いくら「よかった、よかった」とご縁を喜び、感激しても、一遍死んだことがないと、目が覚めることがなれば、みんな夢幻の世界じゃないですかね。
その意味でも、新潟・北陸支部の皆さんは、ご縁の新しい方が多いので、皆さん、燃えておれらる。燃えておられるということは、「鉄は熱いうちに撃て」。この機にこそ、聞いたも、分かったも、体験があるも、ハッキリするもすべて捨てて、素っ裸の自分でこ聴聞いただきけるチャンスだというわけだなー。
「信心のみぞさら」と称しながら、「信心の合理化」をしている人か多いかもしれないなーと。
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