教行寺での布教
1年ぶりの教行寺。久しぶりにK先生に会えるのが楽しみ、募る話もある。あらかじめ、「ゆっくり飲みながら語り合いましょう」と連絡をいれておいた。ちょうど大河ドラマの総集編みたいなものだなーと思いながら、あれもこれもと、昨年9月以来のこの1年間のことを話す。彼とは、年齢も近いことだけてなく、心を許して何でも話せる稀有なおとひりで、ぼくたちの夫婦の恩人でもある。まる3年間以上、華光会とはご無沙汰なので、さまざまな話題がある。別々の話題のようで、どこかでつながっていたり、あるところに帰っていったりで、すべてプロセスなんやなーと妙に納得した。ネットやMLも不参加なので、逆に新鮮なところから的確なご指摘をいただけて有り難かった。
それにしても、職住一体で、仕事とプライベートの区別がつけられ ず、しかも隣近所の地域と密接につながっているお寺という仕事も、外部からは窺いしれないたいへんさがあると感じた。それはぼくも同じことなのだが、まだ華光の場合は、布教・教化活動の理想と、同人が求める現実がある程度一致しているので、その点は恵まれている。一般の寺院の場合、ご門徒がお寺に求めていることや先祖代々の伝統や因習と、信仰のある、心ある僧侶がほんとうに伝え活動したいこととの間に、深い溝があるといっていい。もちろん、先祖や親から伝えられたことだけを、可もなく不可もなく、伝統として継承していくことを第一に、ただその伝統を掲げることこそが役割だという単純な方ならば、そこになんの葛藤も生まれないだううが、伝道者としての熱意や理想に燃えると、生活や維持のための現実とが一致しなくなる。そのために、真面目に教化活動をしようとされる方ほど、現状の寺院制度に対する悩みは深いといっていい。ましてや、それを専業にされている場合は、なおさらであろうなー。
このお寺の格式については、以前触れたが、本堂の余間には、まだこんなものがまだ残っているのですからね。
別に遊びにいったわけではなくて、もちろん布教。ご法話は、2座あったが、昼は、「後生の一大事を心にかけて聞く」という、なにを求めるのか、どう聴くのかという話を、「余命1ケ月ならあなたはなにをする?」や「いのちの大切さ」というアンケート結果をまじえながらお伝えした。夜は、全徳施名のこころで、特に、三毒に覆われた貧苦のわたくしを救うために、自らのいのちを捨てられた阿弥陀様の大慈悲心 の尊さを、さまざま例話をまじえながら讃嘆させてもらった。
皆さん、熱心に聞いてくださったし、京都からもいつもの法座の常連さんがお参りくださったこともあって、車中も賑やかだった。できれば、檀家さんからも一言感想やた質疑でもいいので、声がでればいいのですが…。そこは難しいです。
お世話になりました。
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