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九州・広島支部法座(2)

 参加者は、ぼく達を含めて28名。広島だけでもこれぐらいは集まるので、合同にしてはけっして多くなかったが、講師が2名に、大会などでご法話をお願いする先生が2名、司会役も充実していて、なかなか豪華な顔ぶれとなった。

 悟朗先生が2度、ぼくが1度法話を担当した。分級座談の時間も2度あったが、一言でいうと、「あっという間にすぎた」という印象だ。

 まず、悟朗先生が例の「大命(だいみょう)まさに終わられんとして、悔懼(けく)こもごも至る…」(大命将終…)の大経のご讃題から、「後生の一大事」をテーマに、NHKテレビの「こころの時代」に出演時の、自身の若き日の求道の歩みを具体的にお話された。

Img_7186  いつもお聞かせに預かっている内容だが、ぼくでも、「ああ、そうだなー」と思うことがある。皆さんの中でも、ご聴聞2、3回目の方から、「たとえこの病気(結核)が治らなくても、仏法を聞き開かせてもらうのだ」という話に、「あ、そういうことか」と、しっかりと反応してくださってことがうれしかった。普通の宗教は、今生の幸せを求める。病気が治る、貧乏が克服される、人間関係がうまくいく。要は、この世の中で、自分の思い通りがかなって、幸せになる道である。でも、真宗は違う。たとえ、病気が治っても、金持ちになっても、うまく世渡りできても、必ず死んでいかねばならない。しかも、自分のやってきたことの結果を、ほかならぬ自分が受けていく、自業自得の世界である。そこに焦点が当たって来ると、聞き方が変わってくるはずである。

 ところで、どうして私の命なのに、「大命」なのか。大行、大信と、浄土真宗では、大は、他力を現す言葉である。つまり、仏様からいただいた命ということになる。いや、仏様の命をいただているのである。2日目のぼくの法話は、その「いのち」ということがテーマ。
 数日前に発表された、「いのちの大切さについて」という、なんとも思考停止で、お粗末なアンケート調査と、先進国の私達が食べている食べ物を追い掛けた驚愕の事実が浮き彫りになる、映画『キングコーン』(穀物の王様であるコーンという意味)の話題を中心に、「自分」のいのちに執着し、他のいのちを粗末にしながらも、「いのちは大切」と疑わない迷いの姿と、その迷いの私のいのちめがけて、無量寿のいのちが、惜しげもなく注がれている姿を、具体的にお話させてもらった。結局、仏法は、一切衆生が落ちる地獄を説くのでも、みんなを救う阿弥陀様が説かれるのでもない。そんな大雑把な、他所事の話ではないのだ。いま、いま、このわたしが落ちていくのか、それとも救われていくのかの一大事なのである。つまりは、「親鸞一人」、「わたし一人」のところで、いまここの、具体的わたしの姿を通してお聞かせに預からないかぎり、どんな有り難い話も、まったく空しいおとぎ話で終わるのだ。この「いのちの大切さ」のアンケートや、『キングコーン』については、また詳しく触れていこう。

 最後は、悟朗先生が、18願のこころを通して、南無と阿弥陀仏の六字のこころを、五願開示と一願建立の説示を通して、懇ろにお説きくださった。しかし、如何せん、迷い泥凡夫である。あまりのレベルの高さに、かなりの方が休息タイムをとられ、法話後は、リフレッシュされていたようだ。まあ、難しい法話にも、こんな癒し効果があるのかなと。

Img_7193  まあともかく、全体会で感じたことは、今回は、心境はさまざまな方が参加された。ほんとうに、聞法初心者もおられる。それどころか、聞法ということすら踏み出しておられない方もおられた。でも、そんな方でも、「ここは安心して自分でおれる場所です。ほとんど寝ています」(実際、いつも一番前で、法話の最中は、寝ておられる)と、正直に、自分のところを話して下さった。また、今生事と、後生の一大事が、まったく峻別されていない、「おかげ」の延長で聞いておられる方もある。そうかと思うと、聞法の大事は分かっていても、「もっと頑張ったら、集中したら」と、堂々と聞法の方法論に終始して、自力を募られておらられる方もある。

 一方で、涙ながらに遇い難い善知識に出会い、聞き難い仏法を聞いた喜びを語ってくださる方もあったし、ほんとうにいきいき、うれしいそうに、お念仏の心を話された方もあって、それもまた尊かった。

 でも、信-未信、ベテラン-初心、それぞれが、自分のところを、ありのままに話してくれているなーという感じを強くもった。ここが、まず大切なところじゃないのかなー。分からないことを分かったふりをするより、みんなに合わせて背伸びするより、「分からんことは分からん」「眠いことは眠い」と、正直に、自分の心境を語っていく。もっとも、いくらありのままといっても、いつもいつもいつも、「寝てました」だけでは、ちょっとつまならないのだけどね。そこはそれ如来様の調熟(お育て)の光明のお働きがある。ご縁をいただくことで、わが身に、大きなお徳をいただくのであるから、きっと、一歩出る世界、そこを破ってご聴聞のレールに乗り、この大法を喜ぶ身にさせていただくのであろう。

 その意味でも、わたし一人と、わが身に引き寄せて聞かせていただくほかはない。ところが、せっかく尊いご聴聞をいただき、我が身ひとりに届けてくださっているのに、わたしは、いつもキョロキョロと、他人が気になる。あの人はどう聞いているかの、この人はどうかと、自分をお留守に人の喜び(信心)ばかりを気にしたり、あの人の目に私はどう映っているか、先生に理解してもらっているかと、やはり他人の目を気にしているばかりで、どちらにしても、如来様の大悲の心はいつもスルーしていくのである。

 まあ、そんなこんなで、あっという間に法座はすぎていった。

 でも、今回は、これで終わりではない。もうひとつのお楽しみ。広島組を中心に、博多まで戻り、しゃぶしゃぶ「あり多」での会食があるのだ。人によっては、ここがメーンの人もあったりしてなー。(つづく)

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