身で聴く~竹内敏晴氏の訃報~
竹内敏晴氏の訃報を新聞で見て、1週間ほどたった。
何度かチャンスを逃して、一度もWSに参加することはなかったが、ぼくには、若いころ読んだ論文集での金子大栄師に対する批判が、いまも印象に残っている。(以下敬称略)
竹内が反応したのは、金子の『四十八願講義』の一説、第三十三願の「触光柔軟の願」ついての解説だと思うのだが、「仏に一番近しいはすの自他共に認める近代の碩学」である金子が無意識のうちに陥っている、近代の二元的理解を痛烈に批判てしいるのである。少し引用する。
「仏教学者の金子大栄氏は、大無量寿経におけるいわゆる弥陀の四十八願の講義において、世に「触光柔軟の願」と呼ばれる第三十三願中の「我が光明を蒙りて其の身に触れん物」という文言に、首をかしげている。なぜ心に触れると言わずに「身」に触れる、といわれたのかわからない、というわけである。私流に乱暴に言ってしまえば、光を浴び、光に触れるのは「身」にきまっているのではないか、ということになるが、金子氏の疑念は、仏のことばに含まれるというか、むしろその根底をなす身心一如のイメージを、実はまったく体得していないということを示すことになるだろう。近代主義というよりほかない姿勢であって、身心二元、精神優位の姿勢には「身」など目に入ってこないのである。
実のところは、「身」と呼ぼうが「心」と名付けようが、一向にかまうことはないのである。意識に上がらぬ領域を含めての、全存在のことなのだから。だが、金子氏のしきりに説く柔軟「心」などという実体が、「身」を離れてどこに浮遊しているのだろう。
たとえば能「道成寺」のあの凄まじい乱拍子の、身じろぎもせぬかと見える「体」の、わずかに爪先だけがほとばしるようにう閃くあのさまは、まさに「からだ」の身もだえがそこに屹立しているので情念の現れなばはいうヤワな解釈は許しはせぬ。そしてたとえば、「通小町」の「葵の上」の最後には、仏の光を浴びた晴れやかな「からだ」が現れる。「シテ」の、世界とのふれ方、存在の仕方がすべてが変わってしまったのだ。どこに「こころ」の変化だの「教え」の受容だののまぎれこむ余地があろうか」(人間性心理学研究8号)
という鮮やかな指摘である。
「こころの時代」との表現が好んで使われる昨今だか、その「こころ」とは、まったく曖昧なものだ。物質(もの)にたい対応する時の精神性も、また体(肉体)に対応する意識を指したり、頭(知性・理性)に対応しするだろう情動や感情なども、すべてを「こころ」とひとつで括っている。結局、はっきりした定義も分からないまま、それでも「こころ」と聞いただけで、もう分かったような気持ちになって、すぐに「こころの○○」と肯定的理解をしていくのである。もちろん、「宗教=こころの問題」というのも、まったくナンセンスなのだが、これは、真宗における信心ということばにも当てはまり、信心を単なる「こころの問題」、信じる-信じないというレベルで取られていては、まったく本質には届かない。それこそ、こころして聞き分けねばらない要点であることが、この文言からもはっきりくみ取れる。
歎異抄の第二章は、信心に不審がおこり「身命をかへりみずして」尋ねてきた門弟たちを前に、聖人が、余すこともなく自らの領解を吐露され告白される場面では、
「自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が」
「いずれの行も及びがたき身なれば」
そして、「愚身の信心においてはかくのごとし」と「身」をかけて述べておられる。もらろん、ここでの「身」とは、「さるべき業縁の催さば、いかなる振る舞いもすべき」身そのものなのであって、心がけや意志でどうにかなるものではなく、もう全人格、全存在そのもの、いのちの流れそのものだといっていい。そこには、自分の意志や気持ちで、または教義を理解して、「信じている」とか「信じていない」(それがいくら強固で、確固となる信念であったとしてもだ)レベルに留まるのなら、偽りの信心といっていい。その愚かさを破るものは、実は、この「身」のところにこそ飛び込んでくださっている南無阿弥陀仏を、その身で一杯で聞く以外にはないのである。
いいかえれば、ほんとうに金子は、この「身」で真宗念仏を聴いているのかという指摘であって、現状の真宗門徒のほとんどに当てはまる、きわめて本質的な信心の隘路なのである。修行のない真宗では、伝統を継承することが情動的に有り難いと感じ、聴聞が予定調和の知的理解に留まって、身に響くことがないのである。真宗からみれば門外漢だと指摘されるであろう竹内に軍配をあげよう。
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コメント
竹内敏晴さんの名前をみてビックリでした。
30年ほど前ですかね、故人のボイストレの様子を書いた本を読んで、声と身についての内容に大変なショックと感銘を受けたのを思い出しました。以来、WSに挑戦しようと思いながら、思いだけでおわってしまいましたけど、関心が切れたことはありませんでした。
かりえもんさんとは視点が違うでしょうけど、私にはすごい人でしたね。
竹内敏晴さんの著書 もう一度読んでみたくなりました。ありがとうございます。
投稿: saisho | 2009年9月16日 (水) 07:56
不謹慎かも知れませんが、
「だけど心なんてお天気で変わるのさ……」
流行歌の一節が思い浮かびました。
投稿: はらほろひれはれ | 2009年9月16日 (水) 08:27
>光を浴び、光に触れるのは「身」にきまっているのではないか
うぅん!! まさしく!!
この身を貫いた事実に出あってしまったんですもん。
照育、摂取のお徳ばかり言って、照破のお徳を誰も言わないんですよ!
我が心コロコロほど、あてにならないものはないので、心境の変化が獲信なら簡単でお粗末な話だと思います。(違う意味でそれも難しいでしょうが…)
他と変わりようのないこの身一つを光明によって照らしだされると、ほんとうに変わりようのない我が身があることを、まざまざと知らされます。
>信心を単なる「こころの問題」、信じる-信じないというレベルで取られていては、まったく本質には届かない。それこそ、こころして聞き分けねばらない要点であることが、この文言からもはっきりくみ取れる。
ほんっとうに、すごいことを教えてもらっています。
僕自身もお伝えする仕事をする者として、何を要としてお話するのか、心の安心にとどまることなかれですね?
saishoさんの言われる「声と身」の本の題名は何ですか?光明と名号に繋がる気がして、すごく関心があります。
投稿: 楽邦 | 2009年9月16日 (水) 14:42
saishoさん、少し前の堀田先生の時といい、関心がリンクすることありますね。
>視点が違うでしょうけど、私にはすごい人でしたね。
これだけでは、どのあたりが違うのかわかりませんが、ぼくもボディーワークや身体感覚に関心があります。「からだ」「ことば」そして「体験過程」です。
はらほろひれはれさん、ようこそ。
>「だけど心なんてお天気で変わるのさ……」
まさに、感情というか、情感は天気次第でコロコロです。ちょうど、週末には、まさしく「こころの天気」のワークを体験してきました。でも、ここでのこころの定義はハッキリしている。まだことばにならないが、すでにからだが気付いている身体感覚=フェルト・センスに焦点をあてる作業ですからね。ここでの言い方に沿うと、「身心の天気」ということになりますかね。かなり面白かった。
楽邦さん、いいところでレスくれます。ぼく的には、ビンゴ!という感じ。力作なのに、反応がないとガッカリすることありますからね。皆さんの理解はともかく、ぼくには大切なところです。
そうですね、saishoさんの本が気になります。
ぼくが読んだ竹内先生のものでは、
1)『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社新書)
2)『ことばが襞かれるとき』(思想の科学社)
3)『からだ、演劇、教育』(岩波新書)あたりですが,まあ、普通なら、1)じゃないかなーと。
あと、彼のものじゃないけれど
4)『「からだ」とことばのレッスン入門』(三好哲司・春秋社)が、実践的でとてもわかりやすかったです。ワークでも活用てしいます。
同じ演出家つながりなら、
5)『発声と身体のレッスン』(鴻上尚史・白水社)が面白かった。
ぼくは、野口晴哉氏、野口三千三氏、そして片山洋次郎氏と、どうもからだに注目されている方のものが好きですね。それが、いまの、自力整体や呼吸法、そして発声法の実践にとつながっているんだと思います。そして、まさにフォーカシングがそうです。
でも、光明と名号の関係にはつながったことはなかったです。
投稿: かりもん | 2009年9月17日 (木) 00:50
かりもんさんと楽邦さんへ
多分『ことばが襞かれるとき』ともう一冊くらいは読んでいた思いますが、あまりにも前なので内容も忘れています。覚えているのは読んで興奮したことですが、それでもかすかに……
声にほんとうのその人の声があること、生きた声は相手に命中し、しかも響く力がある、こんなことだったと思います。私の身体はほんとうには生きていないんだと思った記憶が少し、今でもあまり変わりありませんけど・・・
身体感覚に心が向かう、一緒かもしれませんね。でも、法を聞く姿勢とリンクする視点はなかったですね。訃報記念(?)にamazonで故人の最新の著書を注文しました。
投稿: saisho | 2009年9月17日 (木) 10:17
saishoさん、ありがとうございます。たぶん、1)・2)あたりがポプュラーなんでしょうね。
触発されて一言。
一般に、身体感覚というと、なにか特殊なように思われるけれども、実は、体験過程をキーワードにして、実は、カウンセリングもミニカンも、フォーカシングにしても、ことばのコンテンツ(内容)よりも、その身体的な感触に触れたことばの手触り、西光先生のことばを借りるならその「響き」を聴くことであり、そのことばが、わたしの身を通して響くところを聴くわけですからね。まあ最初のうちのカウンセリングの実践なんかだと、ことばばかりを追い掛けてしまって、分かった気になっていますが、こころを制御して、「思い」やら「考え」などの頭で作ったもの語って、持ち替えているのをいくら追い掛けても、お互いグルグル周りをするだけで、まったくシフト(スッキリして開けた感じが)がない。厄介なのは、それが自分のほんとうの気持ちだと固執しているところですよ。
聞法と同じ。みんな言うでしょう。「頭ではわかりますが、胸が承知しません」とか、「教えは理解できますが、どうも腑に落ちません」とかね。この腑に落ちるときが、こころ(フェルトセンス)が、ビッタリそのもののもことばになって立ち上がったときだと思います。ここをね、うまく伝えて実践してもらえれば、もっともっと、傷つかす、無駄なエネルギーを使って聞法していけるはずなんですが…。なかなか実践するとなると難しいですね。もう20年もこんなこと考えてるんですね。まだまた力不足です。
投稿: かりもん | 2009年9月18日 (金) 00:57
かりもんさんへ
ありがとうございました。とても参考になりました。なかなか言葉が参考になっても実際は難しいですけど絶えずそのこと( ̄▽ ̄)を意識して、心がけていこうと思います。
投稿: saisho | 2009年9月18日 (金) 15:10
このところ、仏教関係では松原泰道先生(『大法輪』今月号の菅野日彰先生の連載「日蓮聖人のことば」のなかでの、師が松原先生に捧げられた御文が心に沁みました)、金岡秀友先生など、わたしが御著書などを通して個人的に色々と教えを頂いた先生方の訃報が相次ぎ、世の流れ、無常を嚙み締めています。
聞法旅行御世話になります。宜しく御願申し上げます。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年9月18日 (金) 18:11
縄文ボーイさん、こちらこそ、よろしく。楽しみです。
そうですね。金岡秀友師、松原泰道師と、相次いでお亡くなりになりまたしたね。南無の会の松原師は、101歳だったんじゃないかなーと。ある種、現代の仏教界をリードされていた方々だったですね。
投稿: かりもん | 2009年9月18日 (金) 21:17