『ちゃんと伝える』
映画のファーストディー。『ちゃんと伝える』を観た。ちらっと予告編をみた時、映画らしくないタイトルが目に留まる。他にメーンテーマがあって、サブタイトルになるような感じ。監督が、鬼才といっていい園子温だったのも気になる。
映画の中でも、父と子の間で、夫と妻の間で、そして婚約中の恋人同士の間で、つまり身近な人の間で、たびたびこの「ちゃんと伝えるよ」というセリフが繰り返されていくのだ。
言葉にせずとも、いつかこの気持ちに気付いてほしい、察してほしいというのが、身近な家族に対する日本人のコミニケーションの特色でもある。だから、仲間うちでのKYというのも、ある種、日本的なもので、空気、つまり雰囲気を「察しろよ」というメッセージが生まれる。言葉にせずとも、「察してほしい」「気付いてほしい」のは、幼子が言葉でなく、泣いたり、グズッたり、身体の不調を訴えたり、さまざまな無言の態度で、母親の愛情を獲得しようとする姿である。得体のしれない身体感覚につつまれたとき、抽象的な言語に正確にのせて表明するには、まだ未熟すぎるのだ。その甘えが、大人になっても続くことが多い。しっかりと言葉にのせて、身近な大切な人に、自分の大切な思いや気持ちを、ちゃんと伝えることは、自分を伝えることでもある。だから、伝え方のテクニックとか技法の問題ではないのだ。
我慢し抑圧しすぎたがために、過剰になり攻撃的なメッーセージになって、自己嫌悪に陥ったり、それが嫌で回避や沈黙になったりもする。しかし、沈黙していたら、相手とのトラブルにならないと勘違いしがちだが、実は、「黙っている」のもコミニケーションツールとしては強力な武器で、往々にして、まったく意図せぬメッセージが相手に伝わり、知らず知らずに関係を悪化せさることも多々あるのだ。
黙って察してくれと甘えるのでも、察してもらえないからと苛立ち、感情的になるのでも、また閉じ籠もって回避するのでも、もちろん相手の人格を攻撃するのでもなく、ほんとうに自分の居所を、誠実に、きっちりと伝えることは、身近な人であるほど、実は難しい。
ほんとうは日常生活の、平凡な毎日にこそ、その努力は必要なのだが、ときとして、非日常的な災難や、生老病死の苦しみに接したとき、「当たり前」と思っていた関係が、実は、「有り難い」ものであったと知ることもあるのだ。
東三河(豊橋、豊川、そして蒲郡あたり)のタウン誌を編集をする、ごく平凡なサラリーマン。まだ20代後半。結婚を意識する高校時代の同級生の彼女がいる。高校教師の父と、母の3人暮らし。父は、地元では有名な熱血漢のサッカー部の監督で、彼も同じ高校だった。家では厳格な父であり、学校では鬼監督であり、先生という、少し特殊な高校時代を過ごす以外は、どこにでもあるごく平凡な家庭だ。両親とは同居中でも、いまでは、ゆっくり言葉を交わすこともなくなっている。
そんな生活が、父が倒れた日を境に一変する。悪性のガンで闘病中の父を、仕事の合間を縫って見舞うことが、彼の日課となった。ところがである。彼自身の身にも、予期せぬ事態が襲ってくる。
監督自身が語るように、これは、難病ものや余命ものというカテゴリーの映画ではない。治療場面も、闘病場面も一切登場しないのだ。両隣の女性は、大泣きしていたが、お涙頂戴的な安っぽい場面は少なく、ごく平凡に穏やかに進行していくのがいい。しかも、ときに、フラッシュ・バック的に時間軸を前後しながら、微妙に立ち位置(カメラ)の視点を代えて、それぞれの気持ちが明らかになる手法がとられる。命は、空蝉(蝉の抜け殻)のようにはかないからこそ、いま、いまの、ご縁のところで、恐れずに、ちゃんと伝えあっていく。そして、近しい関係であるからこそ、誠実にその約束を果たしていこうとする。人は、失うことでしか、その真価を知ることはできないのかもしれないなー。
苦言をひとつ。所詮、映画は虚構である。ありえないことはそれでいいのだけれど、しかし、本筋がフィクションであるからこそ、細部にリアリティーが必要だ。空きだらけの病室、親戚の列席しない葬儀、特に葬儀の場面は、もっとディテールにリアリティーが欲しかった。
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