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2009年9月の22件の記事

東京公開講演会

 今週は、東京公開講演会あります。

 もう3回目ですが、一昨年も、昨年も、想像以上にすばらしい出会いがありました。何十年ぶりに華光に復活された方、講演会なので勇気をだして出席された方、親や親戚のお誘いに応えてくださった方もありました。その後もなんらかの形で、ご縁がつながっていることがうれしいですね。

 一昨年の講演で出会い、昨年のお世話役になってくださった方がありましたが、今年も、昨年の講演会が初のご縁だった方が、もう今回の法座のメーンのお世話役を引き受けてくださいます。出世街道まっしぐらなのか、貧乏くじを引かれたのか…。まあ、人のためでも、華光のためにやるんでもないんですからね。お世話役もご縁なら、出会いもご縁のひとつ。そういうご縁を通じて、わが身が、ご法に帰ってこなければ、華々しくてもこれは空しいですから…。

045868e4686d8f03cf4c882fc5f05222  講演会といっても、相変わらずで特別な話をすることはできないので、普段どおりで…。もしかすると、またUSENからお話がくるかもしれませんので、表現等に配慮することは必要でしょうが…。支部法座の教案(華光誌68-3号ご持参ください)は考えていますが、講演会は明日にでも少し組み立てましょう。

 その後も引き続き東京支部法座。頼もしい助っ人も数名おられて楽しみです。東京は、縁の新しい方が多いだけに、ぜひ、もう一歩出て求めてもらいたいと思う方がおられるので、そのあたりにも、きめ細かくアプローチしていけたらと思います。その意味では、後の法座も楽しみ。ぼくも、張り切りたいですね。

東京公開講演会

 日時:10月3日(土)昼1時30分~4時30分
 
(終了後、懇談や質疑にも応じられます)

 会場:全林野会館(文京区大塚3丁目28-7)6階

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/10/tokyokokai2009-10.htm

☆東京支部法座

 日時:3日(土)夜7時~9時30分
     4日(日)朝9時30分~4時30分

 会場:全林野会館7階 広間 

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/10/tokyo2009-10.htm

(追記)

ちなみに、4日(日)は、

☆華光会館で、「聖典講座

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/10/seiten2009-10.htm

☆金沢で、「北陸支部法座

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/10/hokuriku2009-10.htm

それぞれ開催されますので、東京が遠いという方は、お近くへどうぞ。

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教行寺での布教

Img_7299  1年ぶりの教行寺。久しぶりにK先生に会えるのが楽しみ、募る話もある。あらかじめ、「ゆっくり飲みながら語り合いましょう」と連絡をいれておいた。ちょうど大河ドラマの総集編みたいなものだなーと思いながら、あれもこれもと、昨年9月以来のこの1年間のことを話す。彼とは、年齢も近いことだけてなく、心を許して何でも話せる稀有なおとひりで、ぼくたちの夫婦の恩人でもある。まる3年間以上、華光会とはご無沙汰なので、さまざまな話題がある。別々の話題のようで、どこかでつながっていたり、あるところに帰っていったりで、すべてプロセスなんやなーと妙に納得した。ネットやMLも不参加なので、逆に新鮮なところから的確なご指摘をいただけて有り難かった。

 それにしても、職住一体で、仕事とプライベートの区別がつけられImg_7315 ず、しかも隣近所の地域と密接につながっているお寺という仕事も、外部からは窺いしれないたいへんさがあると感じた。それはぼくも同じことなのだが、まだ華光の場合は、布教・教化活動の理想と、同人が求める現実がある程度一致しているので、その点は恵まれている。一般の寺院の場合、ご門徒がお寺に求めていることや先祖代々の伝統や因習と、信仰のある、心ある僧侶がほんとうに伝え活動したいこととの間に、深い溝があるといっていい。もちろん、先祖や親から伝えられたことだけを、可もなく不可もなく、伝統として継承していくことを第一に、ただその伝統を掲げることこそが役割だという単純な方ならば、そこになんの葛藤も生まれないだううが、伝道者としての熱意や理想に燃えると、生活や維持のための現実とが一致しなくなる。そのために、真面目に教化活動をしようとされる方ほど、現状の寺院制度に対する悩みは深いといっていい。ましてや、それを専業にされている場合は、なおさらであろうなー。

Img_7314  このお寺の格式については、以前触れたが、本堂の余間には、まだこんなものがまだ残っているのですからね。

 別に遊びにいったわけではなくて、もちろん布教。ご法話は、2座あったが、昼は、「後生の一大事を心にかけて聞く」という、なにを求めるのか、どう聴くのかという話を、「余命1ケ月ならあなたはなにをする?」や「いのちの大切さ」というアンケート結果をまじえながらお伝えした。夜は、全徳施名のこころで、特に、三毒に覆われた貧苦のわたくしを救うために、自らのいのちを捨てられた阿弥陀様の大慈悲心Img_7323_2 の尊さを、さまざま例話をまじえながら讃嘆させてもらった。

 皆さん、熱心に聞いてくださったし、京都からもいつもの法座の常連さんがお参りくださったこともあって、車中も賑やかだった。できれば、檀家さんからも一言感想やた質疑でもいいので、声がでればいいのですが…。そこは難しいです。

 お世話になりました。

1年前の記事は↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-7469.html

2年前の記事は↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_f82f.html

3年前の記事は↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_d2c3.html

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仏様と向き合う

 週末、ぼくは、輪読法座と、生駒市での大阪支部法座と続いた。

 ある方の「仏様と向き合へ」という話題を巡っていろいろと話がでた。

 確かに、よく「仏様と向き合いなさい」といわれるが、言葉は簡単に理解できるので、「ハイ」と返事はするものの、言われたことを実践しようとすると、実は、なにも分かっていないことに気付く。

 第一、「仏様と向き合う」といわれても、その仏様がわからない。まさか、言葉どうりに、仏壇の前に座りじっと眺めることではないのだろう。「経典のどこにそんな言葉ありますか?」なんて、根拠を求めたって意味はない。

 これは、実際に法を求めた求道者、実践者が、その自らの廻心の歩みを通して発することのできる、真理のことばなのである。

 そこで、「仏様と向き合う」ことは、実は「ほんとうの自分自身と向き合うことだよ」と言われると、「えー?」と混乱されていく。どうして、私=仏様なの? もちろん、そんな単純な図式では、これは腑に落ちる話ではない。

 でも、いつも自分とは対面している、どんなものかが分かっている。それはたやすいことだと思っているのだが、実は、分かっていると錯覚しているだけで、ほんとうに自分では自分自身のことなどなにも分かっていないのではないか。第一、自分の力で自分はわかるはずがないのだ。

 つまり、真実そのものの仏様の前に立ってみて、初めてほんとうの自分、仏様に照らされた仏様がみそなわしてくださっている、もしくは仏様が願いをかけねばならなかった、迷いの姿が、ありありと映し出され、立ち上がって来るといっていいのだ。

 その「仏様と向き合う」といっても、リアルに仏様をイメージすこることでも、声なき声が聞こえてくることでもない。それは、わたしのまわりにおられる、わたしの前を歩まれる善友、善知識の法の言葉を手がかりに、いままで一度も問題にしたことのない、いままで避け続けてきた、もしくは一度も死んだことのない自分自身が、ありありと照らされ、映し出されていくことなのだといってもいい。

 かなり横道に逸れるが、法座の車中で、河合隼雄先生の『カウンセリングの実際』という本を読んでいたら、こんな項目があった。

 カウンセリングは「なまぬるい」ということに批判に対する先生の反論である。それによると、相手のいうことを「フン、フン」と聞いてるだけでなまぬるい、やはりもっと叱ったり、必要ならば体罰をまじえるぐらい教育することが大切なのだということに反論されている。そんな方は、カウンセリングの実態を知らないというのである。ある問題をクライエントが発言する。それに対して「ハイ」とカウンセラーに相槌をうたれ、まっすぐに向き合われると、次ぎの言葉を求めて、自分自身に向き合っていかねばならなくなるというのである。内的に、クライエントは自分で掘り下げた事実に、自分で直面していかねばならなくなるのだ。それは一般的な体罰のような外的な厳しさではなく、内的な厳しさといってもいい。

 つまり、自身をありのままに映し出すカウンセラーと向き合うことで、触れたくない、避けていたい自己と正面から向きあわねばならなくなる、もしくは、その未知なる自己探求の旅をご一緒しましょうということであろうか。でも、それが嫌なので、しばし避けたり、はぐらかせたり、誤魔化したり、または冗舌であっても、単に外的な話題や他人のことをトッピックス的に話すだけでは、まったく自己の真実には触れることはなく、カウンセラー側も、それに同調して安心を与える、なまぬるいカウンセリングになることは反省してくもはならない…。

 つまりは、傾聴という姿勢を前にする時、なんでも話せるという安心感がもたらすと同時に、常に「それで、あなたは?」という厳しい問いかけも暗に含まれているといっていい。だから、そんな場面を、避けたい。反発したり、誤魔化したり、時に批判したり、沈黙したい。座談で自己が問われ、詰まったり、取り繕ったり、または心境や症状に触れるだけで終わったり、「どうしたら」の方法論を求めるだけだったり、「決意表明」で終わるだけなのに、そんな自分の気持ちや頭の中だけでグルグルやっているもち替えの作業を、ぼくたちは、真剣な聞法とか求道といっているのだけであって、ほんとうに聴いたことがないといっていいのだ。つまり、これまで一度も、いまの、ほんとうの自分に触れながら、聴くということはなかったのであるなら、いますぐに、間違ったところに力をいれる愚をやめて、いま一度、自らの聞法姿勢を問いかけていけばいい。そして、ほんとうの自分と向きあってみればいいのだ。

 聞法は、聖教や根拠を覚えることでも、教えを頭で理解して整理することでもない。

 ただ、善友、善知識の言葉を手がかりに、自らが仏樣と向き合っていくのである。

 どう仏様は、私に呼びかけてくださっているのか。
 仏様は、どうしてこいと、この私に言ってくださっているのか。
 仏様に呼びかけられている私とは、いったいどんな者なのか。
 そこで、私はどうしたいのかと…。

 これは、わかる、わからんという世界ではない。
 まさに、いま、ここの自分自身で聴く以外にはない世界だ。

 だから、恐れることなく、仏様に向き合って聴かせてもらいましょうとお勧めされるである。ならば、そのお勧めに従うだけではないのか。

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  用件で三条方面に出たついでに、CDショップに立ち寄る。最近観た『キャデラック・レコード』の音楽がよかったので、ブルース・ロック系のチェス・レコードのオリジナルのサントラや、映画ではビヨンセが感動的に熱演し、実は天童よしみに輪をかけて個性的なお姿のエタ・ジェイムズなど、これまでご縁うすいのあたりを手に入れたが、聴くのが楽しみ。

Img_7293  すぐ近くに三条寺町のギャリーでの書作の個展を見学させてもらった。自力整体で知り合った、同じ高校の先輩でもある。うーん、いいですね。書という表現も、ただの書体や素材だけでなく、墨、紙、額、そして展示方法などで、いろいろと変化し、面白さがあるものだなー。

 いつか、ぼくも、こんな表現手段をもちいることがあるだろうか。可能性を秘めつつも、まだその意味では、十分発揮していない分野だ。逆に言うと、そこに表現手段としての伸びしろがあるわけだから、これは楽しみでもある。人間は、可能性のある遺伝子を極々わずか数パーセントしか使い切られいまま、この世とお別れするらしいが、たとえ迷いの世とはいえ、いまいただいたもの、その可能性を出来る限り発揮させていきたいものですね。

 パンフレットと一緒に、作品の素材になっている句集も購入した。親しみのある書はともかく、短歌や詩という形の自己表現にあると、まったくもって疎い。でもそれは、まだまだ書き込む余白が多くあるという意味なのだから、そう考えるとけっこう楽しみになってくる。

 「隕石の 中に淡雪 眠りたる」

 「耳と耳 すり合わせて聞く 冬の雷」 

 「春雷に わたくし一人の 釈迦となる」 (『隕石抄』より)

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『ミーシャ』と『幸せはシャンソニア劇場から』

 本日は、気分転換の日。夕方のミーテングまでは、OFFにした。

 京都シネマへ映画を2本。

Mishawolf_01  『ミーシャ/ホロコーストと白い狼』は、ナチス占領下のベルギーで、時代に翻弄され、愛する両親との再会のみを願って、あまりにも過酷な3000マイルもの旅を続ける一人のユダヤ人少女のサバイバル・ロードムービィーだ。小さなからだに、身ひとつで、ただユダヤ人に生まれたことだけで受けねばらない過酷な差別と弾圧を、ただ戦争の残虐さという時代にだけに転嫁して終わることは出来ない、人間のもつ残酷さと、同時に人間性の温かさ、強さも感じた。それにしても、最後の字幕。あまりにも哀れだ。

 Chansonia_01もう一本は、『幸せはシャンソニア劇場から』。こちらは、まだ戦争前の、左翼政権時代のフランスが舞台。全編、品のいいユー モアと、ペーソス、そして人情味ある温かさが滲み出る流れているフランスの上質なエンター・テインメント作品。あの『コーラス』(サントラも愛聴してます)のスタッフ、キャストが勢ぞろいし、さらにヒットのおかげでお金もかけられるのか豪華なセット、下町の劇場の雰囲気も、またその芸や歌も良質で、これは安心して観れる万人向けの作品。父と子の情愛に、もちろん、恋もあり、男同士の友情や団結ありで、しかも単純な予定調和のハッピー・エンドかと思えば、ラスト付近は起伏にとんだ展開となって、温かな余韻を残した終わり方も悪くなかった。

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今週もいろいろあります

 華光誌が終わり、福井での聞法旅行が過ぎて、今週はゆっくりしたいところですが、そうも行きません。わりと少人数の集いですが、盛り沢山あります。

1)華光誌輪読法座:9月26日(土)昼1時30分~5時

 会場:華光会館

 内容:華光誌誌上法話、「全徳施名のこころ」の輪読で、いよいよ佳境に入ってきました。ぼくもお世話しています。だいたい15名ぐらいまので少人数です。発言もしやすいですが、そのようにお伝えになれば、黙って聞いておられることもできます。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/rindoku2009-9.htm

2)日曜礼拝:9月27日(日)昼1時30分~5時

 会場:華光会館

 内容:輪読に引き続き、華光会館の行事は日曜礼拝です。大人は、前日と同じような人が参加されますが、同じ日に大阪支部法座があるので、今月は、大阪に集まる方が多いので、大人は少なめかもしれませんね。その分、子供たちに頑張ってもらいましょう。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/nitirai2009-9.htm

3)日高支部法座:9月26日(土)・27日(日)

 会場:豊岡市日高町の同人会員宅

 内容:宿泊で増井悟朗先生が出講されます。古参の同人方と共に、増井先生のご法話をご聴聞し、座談会などもあります。宿泊などに制限があるので、必ず、事前にお問い合わせください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/hidaka2009-9.htm

4)日曜礼拝:9月27日(日)昼1時30分~5時

 会場:セイセイビル(近鉄生駒駅下車3分)

 内容:今週はぼくは、輪読法座と、大阪支部法座と続きます。ご法話は「阿闍世王の廻心」を予定しています。大阪支部ですが、会場は、奈良の生駒駅前ですね。ぼくも近鉄電車でまいります。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/osaka2009-9.htm

5)教行寺永代経法座:9月29日(火) 昼2時~ 夜7時30分

 会場:教行寺(奈良県河合町佐味田)

 内容:9月の法座案内には、まだ日時か未定だってので掲載されていませんが、昨年に引き続き、今年もお世話になります。週末ではなく、平日ですね。全徳施名のこころと、「いのちの大切さ」はほんとうか?という教案を考えてます。後のものは、これから各支部で話すネタです。週末からは、輪読、大阪、教行寺と続いて、すぐに東京講演会へと続きます。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/kyogyoji2009-9.htm

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砂遊び療法?

 今日は、仏青の例会。担当者の発案で映画を見るという。

Img_7273  ぼくは、子供たちのお守り。3日間留守にしたので、せめて今日ぐらいは遊ぶことにしていた。お昼を食べてから、少し離れた静かな公園へ。ほんの3時間ほどだが、たっぷり遊んだら、気分も少しかわった。たまたま同じ園の(クラスが違う)子供もいて、楽しそうに遊んでいた。ちょうど、あまりにもショックで、動きづらい感覚に襲われたので、ちょうど箱庭療法ならぬ砂遊び療法になったんじゃないかなーと。こんなことでも、けっこういいですね。

 いま、まったく、まったく突然思いだしたことがある。幼いころ、よく箱庭をつくって遊んだことだ。内向的な性格で、ひとりで作業するのは苦ではなかった。幼稚園にうまく馴染めなかったこともあって、ひとり遊びをしていたのだ。もちろん、本格的なものではなく、ままごとのような砂場遊びだか、それでも勝手口を出たところで、夢中に遊んでいた映像が、ありありと浮かんだできた。うーん、不思議な感覚。

 まあ、それはともかく、これをどう解釈するかではなく、どう感じるかを尋ねてみても面白いかもしれない。内にだけ籠もらずに、何かを表現するというのは、それなりにリフレッシュにはなる。それでけでも、収穫か?

 加えて、早期ケアーのために、先生の真宗カウンセリングも受けることにした。うまい具合に、少し時間をとってくださった。まったくもって感謝だ。話すうちに、涙が溢れ、何かが動きだす実感があった。結局、人ではない。円座禅で動き出したぼく自身のテーマが、またここでも立ち上がってきたのだ。 

 それは、たまたま九州法座で、父と新幹線で旅をした時に感じた寂しさにも起因している。父の老いと、ぼくが新しい刺激を受けた話題が続かないところからおこる、過去にも遡り、未来にもつながるさまざまな思いだった。それは、いわば独立していく、分離していかねばならないひとりという寂しさでもあった。同時に、たとえひとりでも、変化を恐れないで、進んでいこうとする自分もいた。

 人は関係性の中でしか、つまり人「間」とは、その人と人の「間」のところでしか、自分を知ることはできないといってもいい。相手が変われば(たとえば老もそうだろうし、子供の成長もそうだ)、自然とその関係も変わってくのは当たり前なのだが、どこかでその変化を恐れ、否定する面もある。また、いくら関係性のところだけを求めていっても、相手に何らかを投影したり、依存したりするばかりでは、ほんとうの自分のところでは立つことはできないという相反する面もあるのかもしれない。

 畢竟、わが身ひとりで立っていくしかない自分というのもいるはずだ。だから、どこまでも孤独(というより孤高の存在)、寂しいかぎりだが、どこまでもひとりでしかない。でも、同時に、家族や仲間にも支えられ、関係性の中にいる身であってこそ、その「ひとり」のところに帰っていくことができるといっていい。ぼくも、今回のWSで、勇気をだして、そこに帰っていいことを味わえた。どこまでも「ひとり」なのだか、そう帰らせてくれるのは、周りで支えてくれている人達のおかげなだという、なんとも不思議な話だ。その意味では孤立していない、開いている「ひとり」といっていいのかもしれないなー。

 ほんとうに難しいことだが、留まらず、変化を恐れないで、そんなひとりの身でありたいという願いに生きていきたい。

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福井聞法旅行(2)~信心の合理化か、溝さらえか~

 企画当初はどうなるのか心配し、参加者も少なくやきもきしたが、皆さんのおかげで、ご法にたっぷりと触れさせてもらえた3日間となった。もちろん、順調なことばかりでなく、ハプニングもあったけれど、それでも安心して聞法することができたのは、お世話方や新潟・北陸支部の皆さんのおかげだ。快適に過ごせるように、細々としたご配慮をいただいことをうれしく思った。

 ご法話でも触れたが、私がこの世に生を受ける前から、目に見えない種々のおかげ、お育て、お護りが十重二十重に手厚くあるおかげで、いまの私があり、そして聞法をさせてもらえるご縁があるけわけ。私を照らし、育んでくださる。そして、照らし、護ってくださっていく。もうこの照育のお働きだけを知らされても、もう十分に頭がさがるし、念仏申さずにはおれない。特に、「信心ほしい」、いや「立派な信心ほしい」、いいえ「クッキリ、ハッキリした安心、確信がほしい」方には、わが身の「ほしい、ほしい」だけでなく、そこまでお育ていただいて、ご縁の尊さ、目に見えないご苦労の数々に目を向けて、しっかり聴いてほしい。

 でも、そこをもう一歩出ないとね。いわゆる「宿善を捨てる」ところ。そのお育てはなんのためなのかを聴かないと、ただご縁をを喜ぶだけ、不思議な体験を喜ぶだけ、ただお念仏を喜ぶだけの縁他力の信心に留まってしまう可能性がある。

 つまりは、限りないお慈悲を、体験のところで限りあるお慈悲にしてしまう。だって、私の限りある頭でとらえるには、どこかで枠をつけないと納まらないからね。だから、ほとりのない法水を、自分の小さな器に收めて満足していく。そして、ご法縁にあうたびに、「信心を合理化」(『親指のふし』248ページ)していく。つまり

 「如来様は、喜んで来いとは、はっきりせよともおっしゃっていない。泥凡夫の心に、喜べるようを心があるものか。仏法を求めようという心の、カケラもないそのままを見込んだうえで、助けにャおかんという仏様が、仏様のほうから手を下げてくださっていのか、お念仏のお救いではないか…」と。これは、具合がいいよね。「そうまで仏様がおっゃるなら、私が救わずに誰が救われるか」と、またドッカと腰をおろすわけです。

 あれ! このセリフ、いつものあなたの決まり文句じゃないのかー。

 しかし、よく注意して下さいよ。これは、人が言ってくれたもの、つまり説教に安心しただけにすぎんのです。 

 うーん。皆さん、大丈夫か。

 ここが聞法の要点。華光の華光たる所以。いくらでも、有り難い心境にはなれますよ。それなりの境地ぐらいなら、簡単に与えることもできる。でも、ここを厳しく破ってくださるのが、真の知識じゃないですかね。

 だから、「後生の一大事」をいまに取り詰めよとおっしゃる。そこのところで、どう聴くのかですよ。

 結局、最後の全体会での話題はここのところで、説く方はお話をしている。でも、聴くほうは、ドッカと腰をおろしたところで聴いているか、少し詰めていかれると「信心崩れました」などと、寝ぼけたことをいうことになる。握っているから崩れる。崩れたんじゃない。最初から、崩れてるんですよ、私の信心なんか! ガタガタの、ボロボロ。それが、絶対に救われない、地獄一定の姿じゃないですか。もう「地獄行きの実感が足らない」なんて言ってられない。凡夫の私は、そこでしか喜べないし、そこでしか勝負できない。それで、人ごとじゃないぞ、いまに一大事を取り詰めよと、厳しくご教化があるんです。

 …「疑ったらいかん」と、臭いものにフタうしているが、そもそも、自分のはからいというもの。真にまかせきっているのなら、素っ裸になれましょう。ご教化もほかし、喜びもほかし、念仏もほかし、聞いたとか、ありがとうなったのも全部ほかしてしまって、「サァ、出かけていかんならん」となって、出て来るものがほんものです。そこが「信心のみぞさらえ」というものでしょう。「あの体験があるから」という、それもほかしてみたら、どうですか。持ち物があると、通るところも通れませんよ。(略) 素っ裸になって救われるというのが、念仏の教えです。持ち物作りに身をやつし、喜びの厚化粧をしていると、当座は華やかですがね…。 

 照育も、照護も、実は、この自力のこころが死ぬ、照「破」の一念のためにあるけわですよ。いくら「よかった、よかった」とご縁を喜び、感激しても、一遍死んだことがないと、目が覚めることがなれば、みんな夢幻の世界じゃないですかね。

 その意味でも、新潟・北陸支部の皆さんは、ご縁の新しい方が多いので、皆さん、燃えておれらる。燃えておられるということは、「鉄は熱いうちに撃て」。この機にこそ、聞いたも、分かったも、体験があるも、ハッキリするもすべて捨てて、素っ裸の自分でこ聴聞いただきけるチャンスだというわけだなー。

 「信心のみぞさら」と称しながら、「信心の合理化」をしている人か多いかもしれないなーと。

 

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福井聞法旅行(1)ハブニグ編

   福井での北陸支部同人の交流法座を終えて、無事帰宅。先生方、総括のKさん。そして北陸同人の皆さん、ありがとうごさいました。

 まあ「無事」ということだけれど、中味は、ほんとにいろいろあった。

 まず、福井に到着するなり、Oさんが、ずっと携帯に釘付け。まもなく、乗鞍での熊騒動の責任者として、すぐに職場に取って返すことになった。その夜、テレビニュースでは射殺された熊を実況検分している後ろお姿が。「おお、Tちゃん、こんなところで…」、そのあとも後始末に、パトロールにと続いて、やっと戻ってこられたのは、宴会直前。それなにり、即、「じゃ、司会お願いしますね」と、宴会の司会役に、出し物にと…。まあ、ほんとお疲れさまです。

 中には、突然、体調を崩されて急遽、帰宅された方もあれば、なんと、股関節の急な激痛で、救急車を呼ぶことになって即入院(経過は良好なれど、まだ福井で療養中。明日には東京で戻り、治療できるか)という事態も。こんなことも初めてやなー。華光会館でも、法座中に、2度ばかり救急車騒動もありましたが、聞法旅行では初めて。でも、早急に判断し、的確に処置され、早めの回復となってまずはよかったなーと。

 法座の内容も、法話も、そして大盛り上がりの宴会も、これはこれでいろいろあったけれど、いまは疲れました。

 というのも、例の秋のSWと、高速料1000円。GW中の噂は聴いていたが、確かにこれは凄まじかった。もうヘトヘトの、フラフラ。

 走行距離は180㎞ほど。普段なら、2時間半もかからない距離。さすがに、初日の土曜日は覚悟していたが、それでも、倍の4時間30分程度。少し開会に遅れたが、まあOk。まだ、下り線の大混雑に比べればと思った節があり、覚悟の範囲内。

 ところが、帰路は多少分散されるだろうし、急ぐこともないと思っていたが、これが甘かった! ここも永平寺の坊さんが「こんなことは20数年ぶり」と、ビックリするほどの大混雑の永平寺で皆さんとお別れしたのが、3時30分。一般道の帰路は空いていて、すぐに北陸自動車道へ。まあ、最初は流れていた。でも、車が走ったのは、30分ほどだけで、あとは…。PAでトイレに入っても長蛇の列、SAで食事するにも交雑の人込みで右往左往のありさま。こんな時、高齢者を抱えているとこれまた大変で…。さすがに夜も10時を廻ると車が順調に動き出したけれど、結局、京都についたのは、10時30分も廻っていた。ちょうど7時間ですか。こんなのインド以来やなー。

 ほんまお疲れさまでした。

(内容に関しては、以下のエントリー参照ください)

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-bbae.html

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明日から福井への聞法旅行

   〆切直前には、予定の半数も集まらずに、やきもきした今回の法座。手分けして電話をしたり、法座で勧誘をしたりした上に、駆け込みの申込や、いまひとつ申込方法を理解されていない方があったりで、今度は、急に増え出して予約の部屋の数が不足する始末。宿も、連休なのでかなり詰めてきていますから、狭いところで、ちょっとご不自由をおかけしますが、ご容赦ください。

 今回は、聞法旅行といっても、法座中心。そして、北陸同人の交流がひとつの狙い。高山法座のスタイルですね。  結局、72名の参加者があって、分級座談も、ぼくとしては5グループに分けるのがいいと思いましたが…。飛び入りもあるかもしれんしんね。

 華光誌の編集作業と続いたので、詰めは今日になった。ぼくも、グループ分けの基づいた名簿の作成と、プログラムに添った役割表などの事務作業を中心にする。プリンターが不調で、ちょっと時間かかったけれど、どうにか完了。お名号などの荷物を揃え、世話人用の買い出しと、最後の詰め。旅行社を通さないので、支払い用や法礼用の金子も用意して、まあなんとか完了ー。

 法話は、いまは大枠でのところで。1回だけで、すぐではなくて、3日目の最後なんですね。決めるよりも、モチーフだけで。このやり方が、自然でいいみたい。「連続無窮のお働き」の法話を中心に…。

 さあ、いざいざ。北陸の方も張り切っておられるし、楽しみだ。3日間、しっかり聞かせてもらいたいですね。

 そうそう、ちょっとだけ心配なのは渋滞かなー。シルバー・ウィークというの? 初日と、高速道路の1000円とが重なって、渋滞情報もこまかくチェック。別料金になっても、阪神高速を使ったほうが無難かなーと。それでも、かなり用心して出発はしますが、何分、そこそこの時間でしか出発できない訳もありますのでね。まあ、焦らずに。

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68巻4号の作業が完了!

  やっと、華光誌の作業が完了。

 いざとなれば、聖教のこころも90分ほどで書けた。もしかすると、毎日ブログを書いているおかげかもしれない。四十八願のうち、第一願の無三悪趣の願、第二願の不更悪趣の願を通じて、大悲の深い、深いおこころの一端を窺った。

 華光誌自体も、わりと短期間に集中的に作業ができたようだ。うまい具合に各記事を修めるのがたいへんだったが、あいからわずの貧乏性で、余白が生まれないように、キチ、キチに收めている。文字ばかりで読みづらいが、まあ、お念仏の塊ということで、お許しくださいな。

 明日、印刷所に渡り、来月1日に発送の予定だ。

 校正のタッキー、レイアトウ編集のムラ君、ほんとお疲れさまでした。

 また、華光誌の作業と並行して、新しい封筒づくり、そして福井聞法旅行の打合せや宿舎との連絡もあったが、詰めの作業は明日以降に。もう一息。

 今夜は、うまい具合に真宗カウンセリング研究会にも顔をだせてよかった。「十分に機能している人間」がテーマだったが、週末の円座禅で体験したことが何かを、かなり理論的に結びつけて押さえることができた。これはかなり収穫は大。うーん、変わっていく予感、いやすでに変わったという実感がある。とうとう来たか! またのの機会に、ぜひ書きたい。

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身で聴く~竹内敏晴氏の訃報~

  竹内敏晴氏の訃報を新聞で見て、1週間ほどたった。

 何度かチャンスを逃して、一度もWSに参加することはなかったが、ぼくには、若いころ読んだ論文集での金子大栄師に対する批判が、いまも印象に残っている。(以下敬称略)

 竹内が反応したのは、金子の『四十八願講義』の一説、第三十三願の「触光柔軟の願」ついての解説だと思うのだが、「仏に一番近しいはすの自他共に認める近代の碩学」である金子が無意識のうちに陥っている、近代の二元的理解を痛烈に批判てしいるのである。少し引用する。

「仏教学者の金子大栄氏は、大無量寿経におけるいわゆる弥陀の四十八願の講義において、世に「触光柔軟の願」と呼ばれる第三十三願中の「我が光明を蒙りて其の身に触れん物」という文言に、首をかしげている。なぜ心に触れると言わずに「身」に触れる、といわれたのかわからない、というわけである。私流に乱暴に言ってしまえば、光を浴び、光に触れるのは「身」にきまっているのではないか、ということになるが、金子氏の疑念は、仏のことばに含まれるというか、むしろその根底をなす身心一如のイメージを、実はまったく体得していないということを示すことになるだろう。近代主義というよりほかない姿勢であって、身心二元、精神優位の姿勢には「身」など目に入ってこないのである。

 実のところは、「身」と呼ぼうが「心」と名付けようが、一向にかまうことはないのである。意識に上がらぬ領域を含めての、全存在のことなのだから。だが、金子氏のしきりに説く柔軟「心」などという実体が、「身」を離れてどこに浮遊しているのだろう。
 たとえば能「道成寺」のあの凄まじい乱拍子の、身じろぎもせぬかと見える「体」の、わずかに爪先だけがほとばしるようにう閃くあのさまは、まさに「からだ」の身もだえがそこに屹立しているので情念の現れなばはいうヤワな解釈は許しはせぬ。そしてたとえば、「通小町」の「葵の上」の最後には、仏の光を浴びた晴れやかな「からだ」が現れる。「シテ」の、世界とのふれ方、存在の仕方がすべてが変わってしまったのだ。どこに「こころ」の変化だの「教え」の受容だののまぎれこむ余地があろうか」(人間性心理学研究8号)

という鮮やかな指摘である。

 「こころの時代」との表現が好んで使われる昨今だか、その「こころ」とは、まったく曖昧なものだ。物質(もの)にたい対応する時の精神性も、また体(肉体)に対応する意識を指したり、頭(知性・理性)に対応しするだろう情動や感情なども、すべてを「こころ」とひとつで括っている。結局、はっきりした定義も分からないまま、それでも「こころ」と聞いただけで、もう分かったような気持ちになって、すぐに「こころの○○」と肯定的理解をしていくのである。もちろん、「宗教=こころの問題」というのも、まったくナンセンスなのだが、これは、真宗における信心ということばにも当てはまり、信心を単なる「こころの問題」、信じる-信じないというレベルで取られていては、まったく本質には届かない。それこそ、こころして聞き分けねばらない要点であることが、この文言からもはっきりくみ取れる。

  歎異抄の第二章は、信心に不審がおこり「身命をかへりみずして」尋ねてきた門弟たちを前に、聖人が、余すこともなく自らの領解を吐露され告白される場面では、
自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が」
「いずれの行も及びがたき身なれば
そして、「愚身の信心においてはかくのごとし」と「身」をかけて述べておられる。もらろん、ここでの「身」とは、「さるべき業縁の催さば、いかなる振る舞いもすべき」身そのものなのであって、心がけや意志でどうにかなるものではなく、もう全人格、全存在そのもの、いのちの流れそのものだといっていい。そこには、自分の意志や気持ちで、または教義を理解して、「信じている」とか「信じていない」(それがいくら強固で、確固となる信念であったとしてもだ)レベルに留まるのなら、偽りの信心といっていい。その愚かさを破るものは、実は、この「身」のところにこそ飛び込んでくださっている南無阿弥陀仏を、その身で一杯で聞く以外にはないのである。

 いいかえれば、ほんとうに金子は、この「身」で真宗念仏を聴いているのかという指摘であって、現状の真宗門徒のほとんどに当てはまる、きわめて本質的な信心の隘路なのである。修行のない真宗では、伝統を継承することが情動的に有り難いと感じ、聴聞が予定調和の知的理解に留まって、身に響くことがないのである。真宗からみれば門外漢だと指摘されるであろう竹内に軍配をあげよう。

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ぼくがフォーカシングに出会った頃 (円座禅・序章)

   週末は、土江正司先生をお招きしての「円座禅(フォーカシング指向エンカウンター)」のWSがあった。

 始まる前から、かなり期待度が高かったが、実際、さまざまな意味で、大きな学びや気づき、出会いをさせてもらった濃厚な2日間となった。貴重な有り難い経験であったが、同時に濃密さに疲れもした。

 ところで、皆さん-カウンセリング経験や、華光の座談経験のある人に、エンカウンター(出会いグループ)を紹介することは、そう難しくないだろう。なんとなく想像できる。でも、フォーカシングといわれると、聞き慣れない方が大半だ。なんじゃい、その横文字は?ということになる。

 ぼくが、ジェンドリンのフォーカシング(焦点づけ)と初めて出会ったのは、大学院の修士課程を修了した直後のことで、もう20年以上前のことになる。同時に、大学のカウンセリング課程を修了し、そこで「ああ、そうか!」という、最初の僕的カウンセリング廻心体験があった時だ。それは、それまでピースひとつひとつをこなすのが一杯で、全体として何をしているのかがさっぱりわからずに取り組んでいたものが、ある経験をきっかけに、突然、バラバラだったジグソーパズルのピースが、バーッとつながり、どんどん視界が開けていくような体験だった。そこから、初めてカウンセリングが面白くなってきた矢先だった。

 そんな時に、真カ研でも、それまで馴染みのなかったジェンドリンの『体験過程と心理療法』の理論学習会(輪読)をするという呼びかけがあったのだ。かなり画期的なことで、呼びかけ人には、研究会の代表のS先生だけでなく、真宗学の大家のS教授、哲学科のK助教授(当時)の例の3人組が揃っておられた。ぼくも、一番に飛びついた。
 ところが、各自で手に入れて持参せよとのテキストが、絶版で入手できず、まだ大学にも入っていない上に、呼びかけ人までも消極的で、日程があわずに看板だけだったり、ぼくの参加意欲より数段意識の低い人もいた。そんなこんなで、会費を払って参加していたぼくは、最初の集いで、その会自体のいい加減な姿勢に強く噛みついた。

 まあ当たり前といえば当たり前なのだが、そのころまでの真カ研は、そんなルーズさがたぶんにあったのだが、このころを境に、かなり意識が変わってきたのだと思う。

 結局、テキストは、コピーをして会で揃えることになり、世話人も意欲的なY氏とH氏のみが残って継続することになった。その後、渡米するY氏が抜けて、最後までH氏だけが付き合ってくれた。4~5名程度だったと思うが、二人だけで勉強したこともあったが、1年継続した。初めて接する用語や哲学的な色彩もある書物で、当日のぼくにはかなり厄介な代物だったが、(最初の意地もあって)毎回、レジュメをきって望んだ。でも、そのおかげは大きい。専門以外で、あれだけ熱心に何かを読んだものは、後にも先にもない。一番、得をしたのは、ぼくである。付き合ってくれたH氏には感謝である。

 並行して、村山正治先生のWSに参加し、1年後には、増井武士先生を招いて真宗カウンセリング研究会の企画も担当しで体験的にも触れていった。真カ研でも、かなりフォーカシング熱が高まっていったが、最初は、まだステップが理路整然(マニァアルのようだ)しすぎて、頭での理解が先攻したり、なかなかフェルトセンスがつかめなかったり、シフトが実感できずに焦ったりと、みんなも「?」だったことも覚えている。

 その後、体験過程を中心課題にしながらも、フォーカシング技法自体には、真カ研では熱は冷めていくことになった。しかしながら、この時の経験は、ぼくの法座やカウンセリングでのかかわりを大きく代えていったといっていい。
 それはいまも、聴き方の方向性をますます強く示唆しているのだ。人の話のどこに、どう注目して聴いているのか。それを自分の体で受け止めた感じを、どう言葉にして、どう伝え直しているのかということである。

 振り返りついでに、20年前に研究会のWSを開いた時に、ぼくが書いた案内状に、当時のフォーカシングの意義を少し要約して説明しているので、(当時の)フォーカシングの位置づけを紹介しておこう。

「ジェンドリンさんの心理療法においての体験過程への注目が、ロジャーズさんのクライエント中心療法を理論的に発展させる原動力になり、さらに心理療法の技法(=体験過程を促すための技法、平たく言えば、自分自身の内面に触れていく技法とも言える)「フォーカシング」が生みだされたのです。現在、広範囲の分野(カウンセリングの面接場面・教育現場・医学的治療・エンカウンター・グループ等)で展開応用されつつあり、注目を集めています。そのあたりを、パンフレットから転用して簡単に説明しておきましょう。

『フォーカシングとは、ユージン・T・ジェンドリンが開発している心理的成長を援助する方法である。彼はシカゴ大学教授で、ロジャーズの高弟の一人。
 カウンセリングや心理療法において、多弁に問題を話しても一向に進歩しない人がある。その人達は問題を話すのだが、からだの中に起こっている感じ(フェルト・センス)を感じとりながら話すことのない人達であることが分かってきた。言わば他人事のようにただ問題を話すだけであったり、相手を非難、攻撃するだけである。その人達に、その人の中に起こっているからだの感じに焦点づけること(フォーカシング)を教えていくならば、カウンセリングは効果的に展開して行くだろう。 エンカウンター・グループにおていも、ただ話すのではなく、自分のからだの中に流れる暗々裡の感情を探りながら話してゆくと感情と言葉はぴったり一致し、深い、真実な関係が発展してゆくであろう。この方法は、生徒の学習、医学的治療、組織の発展その他広範囲な応用が期待される人間関係促進の基本的な鍵概念となりつつなる』

 とにかく説明よりも体験学習が一番だと思いますので、是非この貴重な機会に奮ってご参加下さい。」 

 なぜか、いまの集いに入る前に、すごく昔の思い出をダラダラ書き出している。どうやら、「ここから始めてよ」という、うちからの声によるものらしい。きっと、意味ある方向に辿りつくのであろうなー。

 さあ、肝心の円座禅については、これからぼちぼちと…。  

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明日の予定

 今日の仕事も抱えながら、ぼくはもう明日の予定を考えていた。明日どころか、来週の段取り、来月の相談に追われている。

 明日は、午前中に、華光誌の誌上法話をムラ君に渡し、早めに昼を食べて、円座禅の準備にかかる。懇親会の買い出しと、書類づくりは1時間以内で終えること。そうそう、御礼の用意も絶対にわすれちゃいけないなと。先生との簡単な打ち合わせも必要だ。あとは、2日間、しっかり学ばせてもらおうことを楽しみにしているが、夕食の配車を考え、懇親会までの段取りも、ぼんやり考えている。

 そして、日曜日のWSが終わった直後に、聞法旅行の会議があり、月曜日、火曜日も、華光誌の作業だ。その段取りも考える。16日の水曜日中に華光誌を仕上げなかったら、聞法旅行を迎えることができない。その逆算で、日程を考え、仕事のやり繰りを考える。その夜には、真カ研の研究会もあって出席しないといけないが、無理か? それでも、なんとか来週も、最低2本は映画をみておきたいなー。3本となるとちょっと難しいだろうかと、スケジュール表を睨みながら、ああして、こうしてと、お茶を飲んでいた。その後、「10年日記」をつけたが、ここ数日間分と、九州法座の記録が溜まっていた。

 なんだかなー。この人生、今、今を楽しみよりも、未来の段取りを考え、過去を振り返って記録するばかりで過ぎてきたんじゃないかなーと、一瞬は思った。でも、現実、少ないスタッフで、これだけの仕事をこなしているのだから、この段取力がものをいう。それに過去の記録も経験として非常に有益だ。行き当たりばったりで、いい仕事ができるわけはない。

 気分転換のランチ終えて、店の外をみたら、東本願寺の正面に掲示伝道。
Img_7253  ああ、もう忘れぱなしだ。

 過去に囚われてこだわり、未来ばかりを追い掛けていく。おい、お前、今はどこにいっているのだ。

 特に、「仏法」の上ではというところが、ミソだ。みんな今生事で生きているから、明日もあるし、明後日もあるということになる。

 ある法座の全体会の時に、「次ぎの宿泊法座にかけています」といった人がいた。えー、この時点でもうダメじゃんと思ったが、口には出さなかった。

 いま、聞けないものが、次ぎに聞けるわけがない。

 明日もあり、明後日もあり、次ぎもあり、また次ぎもある。ああして、こうして、効率よく、うまくなし遂げる。そのために計画し、段取り、予定していく。

 世間の世渡りなら、この段取力は、成功のために不可欠な力だけれども、その自力の延長で、ご本願を聞こうとしても、それゃ、いつまでも届きませんわなー。

  超世の悲願ですからね。

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九州・広島支部法座(3)番外編

Img_3502_2 福間海岸での法座を少し早めに終えて、一路、博多しゃぶしゃぶ「 あり多」へ。鹿児島組や大分組などの皆さんとは、会場でお別れとなる。名残りを惜しみ、記念撮影などしていると、出発が遅くなった。うまい具合に乗用車に分乗できたが、道が少し混んでいて、予定より30分ほど遅くなって、到着。(右は、妙好人源左同行の言葉→)

 店主のこだわりのある、雰囲気のあるお店だ。

Img_7246_3  入り口に、10月の東京公演会のポスター を発見。

 2階にあがると、すでに準備は整っていた。

 あらかじめ店主からは、「呼びもせんのに、みんなで押しかけてきて」との一言があって、みんな大笑いした。Img_7232_2

 でも、みんなの訪問が、嫌なわけはなかろ う。大勢で押しかけた上で、このサービスである。大損したことであろう。 

 あとは、法座を終えた感想を分かちあったり、ワイワイと四方山話にも花が咲いた。法友との楽しい時間が過ぎていった。

 もうそれで十分なのではあるが、やはり、ここはしゃぶしゃぶの名店である。

 まさに「殺生はうまい」の典型だ。

Img_7233 牛、ブタ、そして鴨と、お肉の数々は、みごとで「おいしそうー」としか 見えない。実際、たしかにおいしかった。シメの雑炊も、うどんもうまいの一言。

 いのちの大切さの前に、「いのちはおそろしく」、「いのちは不浄」Img_7243で、そして「いのちはうまい」のである。そこには、ただ鬼のような無慈悲の姿がありありと映し 出される。

 ところが、なぜか、「いのちの大切さ」という、象徴的で、なんの意味もないスローガンを唱えることで、負の現実の一面が、すべて忘却の彼方に消え去っていく。

 その思考停止状態が、ある種、おそろしいのである。

 ところで、今回は、御馳走の数々とは別に、個人的には、自分の食の嗜好が変わっているのもよくわかった。年をとったからでもあろうし、普段の我が家の食卓に、肉や刺し身なとの豪華なものは、まず出ないのも一面かもしれないが、魚はそれなりに食べる。今夜も、ハンバーグならぬ、ぼくが命名した「サンバーグ(半でもない)」だった。挽き肉ではなく、蓮根が主であるから…。

 ようは、年取って嗜好が変わったからなのか、見つめる指向が変わったのかはわからないが、昔のような、御馳走に対する気持ちが変化していることだけは、確かなようだ。

Img_7242_2   まあ、飲んで、食って、楽しむだけ楽しんでいて、そんなこと言っても、なんの説得力もないよね。

 ご馳走になり、楽しかったです。

(ブログ掲載ということで、不都合な方は顔を隠してもらい撮影。よほど、まずいことがあるのか。ただし、後ろ姿にしても、雄弁にその人があらわれるなーということでしたが…) 

 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_3fd6.html

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九州・広島支部法座(2)

 参加者は、ぼく達を含めて28名。広島だけでもこれぐらいは集まるので、合同にしてはけっして多くなかったが、講師が2名に、大会などでご法話をお願いする先生が2名、司会役も充実していて、なかなか豪華な顔ぶれとなった。

 悟朗先生が2度、ぼくが1度法話を担当した。分級座談の時間も2度あったが、一言でいうと、「あっという間にすぎた」という印象だ。

 まず、悟朗先生が例の「大命(だいみょう)まさに終わられんとして、悔懼(けく)こもごも至る…」(大命将終…)の大経のご讃題から、「後生の一大事」をテーマに、NHKテレビの「こころの時代」に出演時の、自身の若き日の求道の歩みを具体的にお話された。

Img_7186  いつもお聞かせに預かっている内容だが、ぼくでも、「ああ、そうだなー」と思うことがある。皆さんの中でも、ご聴聞2、3回目の方から、「たとえこの病気(結核)が治らなくても、仏法を聞き開かせてもらうのだ」という話に、「あ、そういうことか」と、しっかりと反応してくださってことがうれしかった。普通の宗教は、今生の幸せを求める。病気が治る、貧乏が克服される、人間関係がうまくいく。要は、この世の中で、自分の思い通りがかなって、幸せになる道である。でも、真宗は違う。たとえ、病気が治っても、金持ちになっても、うまく世渡りできても、必ず死んでいかねばならない。しかも、自分のやってきたことの結果を、ほかならぬ自分が受けていく、自業自得の世界である。そこに焦点が当たって来ると、聞き方が変わってくるはずである。

 ところで、どうして私の命なのに、「大命」なのか。大行、大信と、浄土真宗では、大は、他力を現す言葉である。つまり、仏様からいただいた命ということになる。いや、仏様の命をいただているのである。2日目のぼくの法話は、その「いのち」ということがテーマ。
 数日前に発表された、「いのちの大切さについて」という、なんとも思考停止で、お粗末なアンケート調査と、先進国の私達が食べている食べ物を追い掛けた驚愕の事実が浮き彫りになる、映画『キングコーン』(穀物の王様であるコーンという意味)の話題を中心に、「自分」のいのちに執着し、他のいのちを粗末にしながらも、「いのちは大切」と疑わない迷いの姿と、その迷いの私のいのちめがけて、無量寿のいのちが、惜しげもなく注がれている姿を、具体的にお話させてもらった。結局、仏法は、一切衆生が落ちる地獄を説くのでも、みんなを救う阿弥陀様が説かれるのでもない。そんな大雑把な、他所事の話ではないのだ。いま、いま、このわたしが落ちていくのか、それとも救われていくのかの一大事なのである。つまりは、「親鸞一人」、「わたし一人」のところで、いまここの、具体的わたしの姿を通してお聞かせに預からないかぎり、どんな有り難い話も、まったく空しいおとぎ話で終わるのだ。この「いのちの大切さ」のアンケートや、『キングコーン』については、また詳しく触れていこう。

 最後は、悟朗先生が、18願のこころを通して、南無と阿弥陀仏の六字のこころを、五願開示と一願建立の説示を通して、懇ろにお説きくださった。しかし、如何せん、迷い泥凡夫である。あまりのレベルの高さに、かなりの方が休息タイムをとられ、法話後は、リフレッシュされていたようだ。まあ、難しい法話にも、こんな癒し効果があるのかなと。

Img_7193  まあともかく、全体会で感じたことは、今回は、心境はさまざまな方が参加された。ほんとうに、聞法初心者もおられる。それどころか、聞法ということすら踏み出しておられない方もおられた。でも、そんな方でも、「ここは安心して自分でおれる場所です。ほとんど寝ています」(実際、いつも一番前で、法話の最中は、寝ておられる)と、正直に、自分のところを話して下さった。また、今生事と、後生の一大事が、まったく峻別されていない、「おかげ」の延長で聞いておられる方もある。そうかと思うと、聞法の大事は分かっていても、「もっと頑張ったら、集中したら」と、堂々と聞法の方法論に終始して、自力を募られておらられる方もある。

 一方で、涙ながらに遇い難い善知識に出会い、聞き難い仏法を聞いた喜びを語ってくださる方もあったし、ほんとうにいきいき、うれしいそうに、お念仏の心を話された方もあって、それもまた尊かった。

 でも、信-未信、ベテラン-初心、それぞれが、自分のところを、ありのままに話してくれているなーという感じを強くもった。ここが、まず大切なところじゃないのかなー。分からないことを分かったふりをするより、みんなに合わせて背伸びするより、「分からんことは分からん」「眠いことは眠い」と、正直に、自分の心境を語っていく。もっとも、いくらありのままといっても、いつもいつもいつも、「寝てました」だけでは、ちょっとつまならないのだけどね。そこはそれ如来様の調熟(お育て)の光明のお働きがある。ご縁をいただくことで、わが身に、大きなお徳をいただくのであるから、きっと、一歩出る世界、そこを破ってご聴聞のレールに乗り、この大法を喜ぶ身にさせていただくのであろう。

 その意味でも、わたし一人と、わが身に引き寄せて聞かせていただくほかはない。ところが、せっかく尊いご聴聞をいただき、我が身ひとりに届けてくださっているのに、わたしは、いつもキョロキョロと、他人が気になる。あの人はどう聞いているかの、この人はどうかと、自分をお留守に人の喜び(信心)ばかりを気にしたり、あの人の目に私はどう映っているか、先生に理解してもらっているかと、やはり他人の目を気にしているばかりで、どちらにしても、如来様の大悲の心はいつもスルーしていくのである。

 まあ、そんなこんなで、あっという間に法座はすぎていった。

 でも、今回は、これで終わりではない。もうひとつのお楽しみ。広島組を中心に、博多まで戻り、しゃぶしゃぶ「あり多」での会食があるのだ。人によっては、ここがメーンの人もあったりしてなー。(つづく)

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九州・広島支部法座(1)

 九州・広島支部法座。

 かねてから、特に両支部とのご縁が深いこともあって、それぞれが支部の枠から、もうひとつ踏み出してもらいたいとの思いで、合同法座を提案していた。

 ちょうどうまい具合に、例年、ぼくが九州、父が広島の予定のこの時期に、両支部合同という形で実現した。ただし、名称はそうだけれども、緊密に両支部が連絡を取り合って計画した合同支部法座というより、通例の九州支部法座に、広島同人が参加するという形での法座となったように思う。それでも、両支部で行なった意義は大きい。広島だけでも、九州だけでも、また華光会館の本部行事でもない、「九州・広島」合同ならではの特色があったからで、それを参加者も実感できたように思える。

 最後には、「来年もぜひ!」という話も出ていた。今年が福岡だったので、来年は、広島で開催が実現しそうだ。今年をステップに、両支部が同人間の交流を含めて、ますます有意義な集いにしてもらいたい。

 まだまだ可能性に秘めている部分が多いだけに、今後が楽しみだ。

 内容は次ぎの項に改めるとして、夕焼けが美しかった会場の雰囲気をお伝えしよう。

Img_7216 ←これが会場の一部。食堂のところです。

 宿の定食。たぶん、支部法座の会場の中では一番豪華じゃないかなとー。でも、夜座があるので、Img_7198_2アルコールはお預けで、懇親会のお楽しみ。→

 夏には水泳客で賑わう海も、すっかり秋Img_7206 の気配で、静か。もっとも、今回は、30度以上あって、暑かったけどね。Img_7213 落日は、見逃したけれど、夕焼けに染まりきれいだった。 食後に、誰もいない海を散歩。

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『円座禅』~こころの天気を含む~WSのお知らせ

 これから、父と、福岡へ。広島・九州支部合同の法座。いま、華光誌の編集作業中に、聞法旅行やらなんやらと相談があって、たいそう慌ただしい。なんとか、今夜中に、誌上法話が完成して、チェックのため著者の先生に送信したところ。

 さてさて、来週のことですが、9月12日(土)13日(日)に真宗カウンセリング研究会主催のワークショップを計画しています。華光会の行事ではありませんか、華光会館が会場なので、皆さんにもご案内しておきます。

 法座じゃないのですが、ご法のお勧めをしていきたいと思う方や、またご法座で、自分の気持ちを表現がうまくいかないという方にも、すごーくお勧めです。とても、安心な場、安全な場(残念ながら、ときとして華光の法座ではそうならない時がある)で、お互いを聞き合い、伝え合いたいです。講師の土江先生は、単なるノウハウではなく、実践や経験に裏付けられた理論をもっておられる方です。しかも、経験で導きだれたオリジナルの、エンカウンターに、フォーカシングの要素を加えたグループです。著者にある「こころの天気」の実践もあり、こちらもとても楽しみにしています。いまからワクワクしています。

 カウンセリング経験がない方でも大歓迎です。

 この際、前日まで受け付けます(ただし、定員で先着〆切)。いまのところ12名の参加がありますが、10名までが華光同人。なんと福岡や水戸からも参加されます。定員は15名なので、あと3名は受け付けられます。

 この機会にぜひご参加ください。

 ▼円座禅(えんざぜん)(フォーカシング指向エンカウンター「こころの天気」を含む)ワークショップのご案内▲

お誘い

 『こころの天気を感じてごらん』の著者で、松江市在住のスクール・カウンセラー、土江正司先生をお招きして、円座禅(フォーカシング指向エンカウンター)を計画しました。合わせて、「こころの天気」の体験学習の機会も設けていただきます。円座禅やフォーカングについては、著書、並びに以下の土江先生のHPで詳しくご覧いただけます。
 一心塾 http://www.mable.ne.jp/~tsuchies/(「円座禅」の項目をクリック)
 経験の有無に関わらず、どなたでもご参加いただけますので、どうぞ、この機会に奮ってご参加下さい。皆様との出会いを楽しみにしております。  合掌

講師紹介:土江正司先生

1960年島根県松江市生まれ。島根大学理学部、同教育学部大学院修了。 インド・西ベンガル州のパタンジャリ・ヨーガ・インスティチュートに学び、以後、現在までヨーガ指導に携わる。 2000年より心身教育研究所・一心塾を開設し、フォカーシングや呼吸法を取り入れた心身セラピーを行なっている。インド政府公認ヨーガ教師、浄土宗僧侶、楽健法師範、臨床心理士、フォーカシング・インスティチュート認定トレーナー 
松江市在住、スクール・カウンセラー

◎『こころの天気を感じてごらん』(コスモス・ライブラリー・1,890円)は、華光会館でも、絶讃絶(?)取次ぎ中。

【参加要項】

◆日 時:2009年9月12日(土)13時(受付)・13時30分~21時
           13日(日)9時~16時30分
  (通いの研修ですが、遠方者は相談に乗ります)  

◆場 所:華光会館(けこうかいかん)(電話:075-691-5241)
  ◎駐車場を希望の方は、必ず申込時にお知らせください。

◆講 師:土江正司先生(スクールカウンセラー)

◆研修費: 9,000円(真宗カウンセリング研究会会員)
      11,000円(一般)=会員優先ですが、定員に達しない場合に受付。 (食事、宿泊は各自で用意のこと。近くにコンビニやファミレスあります。)

◆〆 切:お早めに。定員:15名で、申込順に〆切。(残り3名)

◆申込先:華光会館内、増井 信まで。ハガキ、Eメール、 Fax(075-661-6398番)などに、①~④を明記の上、お申込み下さい。①氏名②連絡先(電話、メール)③会員の有無④あれば希望等。その他、不明点やご質問は、華光会館内(増井)までお気軽にどうぞ。

◆ご注意:このプログラムは、治療を目的としておりません。現在医療機関などで、治療・カウンセリングを受診されておられる方は、お手数ですが、その旨、お知らせ下さい。なお、原則、全日程参加が望ましいですが、1日のみの参加も受付ます。

(余談編)ある方にお誘いしたら、「けっこう会費が高いですね」と言われました。まあ、たしかにね。でも、日頃の華光の集まりが安すぎるんです。一般のWSに比べるとたいへん安い設定です。講師謝礼や交通費、会場、案内状を出すと、赤字の設定ですから。年に1度なので、会員分は研究会から補助しています。もちろん、ぼくも、連れ合いも参加費を払って参加しますが、わざわさ島根まで出かけて研修を受けることを思うとね。会費分の値打ちは十分あります。

 感情的・情動的にしか人にご法が勧められないあなた、もし本気で仏法を勧めたいと思っているのなら、ぜひ体験してもらいたいと念願しています。

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個人情報といっても…

 昼過ぎ、小学校から電話。

 娘が、給食でチーズを食べたあと、気分が悪いともどして、いまも保健室で寝ているという。午後からはまだ2時間あったが、念のため迎えにきてください、というものだった。

 夏休みあけで、まだ万全ではないようで、微熱があったり、休養のために学校を休んだりしていたので、すぐに迎えに行った。いまは熱はないが、気分が悪いのと、筋肉痛(卓球のしすぎだと本人はいう)だという程度。まあ、顔色は普通で、そう心配はなさそうだ。

 ただ、気がかりなことがひとつ。

 インフルエンザの流行である。

 実は、夏休みの後半、ずっとうちに遊びにきいてたご近所の同教生が、インフルエンザで欠席したのだ。直接、お母さんが「気をつけてください」と言ってくださった。なんでも、もうひとり欠席して、さらにひとりは様子を見ているらしい。

 保健室をでたところで、担任の先生にあった。他には誰もない。「大丈夫のようですが、念のため病院に行ったほうがいいでしょうかね。(一緒に遊んだいた)「○○君もインフルエンザで休んでいるそうですし、クラスでも流行っているのですか」と尋ねたら、すごく慌てて感じて、「個人情報なので…」と、すぐに言葉を被せられた。その慌てぶりに、ええ、どういうこと? そんなにおかしな質問したのかなーと思ったが、否定をしないということは、クラスではそういう人がいるのだが答えられないといっていることになる。もしほんとうにそうなら、具体的に正しい情報を伝えてもらったほうがいい。それなりに対処の仕方も変わってくるもの。

 正直、釈然としない気持ちだったが、何もないのなら、まったく病院に連れて行く気はなかったので、「え、個人情報ですか」と返した以外は、重ねて何も突っ込まなかった。

 いま、学校も、個人情報や守秘義務で難しい問題を抱え、先生もたいへんなのはよくわかる。しかし、子供の安全にかかわる問題には、もう少し融通の効いた対応があるのではと思った次第で…。興味本位ではなく、現に、目の前にその可能性がある子供がいるので、尋ねているわけなんですからね。

 まあ、ひとつ勉強になったことは、子供が通う学校やクラスで、インフルエンザが流行っていても、こちらから尋ねることは、個人情報で教えてもらえないということです。

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しっかり伝わった?

1)広島・九州支部合同法座

 *日 時:9月5日(土)昼2時~6日(日)夕4時

 *会 場:ウェルサンピア福岡

 以前にも触れたけれど、支部合同法座も久しぶりだし、講師二人というの、支部法座では珍しいことで、いまから楽しみです。法座が終わってからは、広島の同人と一緒に、あり多で会食するのもまた楽しみですね。山口、九州方面の方、ぜひ、この機会にどうぞ。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/kyusyu.hirosima2009-9.htm

2)京都支部学習会: 9月6日(日)1時30分(華光会館)

 先日の輪読法座の休み時間の一こま。
 「Tさんから頼まれました」と、Oさんが、皆さんに配られたのは、真宗カウンセリング研究会の「円座禅」WSの案内。あれ、どうして?  たしかに、Tさんには、まだ参加者は少ないと伝えたけれど、担当ではなく、それに真カ研の会員でもないOさんに頼まれたのかなー?  とぼくの中で混乱。 「ほんとうにTさんに頼まれたの?」と確かめると、「ハイ、一階にある案内状を配ってくださいと、Fさんが聞いています」との返事。うーん、なにかおかしいなー。Fさんだって研究会とは関係ないもの。あ、もしかして、Tさんが担当する「京都支部学習会」ではないのかと。それで、Oさんに再確認したら、「それは、すでに京都支部員には連絡してますから…」との返事だ。でも、「重ねて配ってお誘いしてください」とのことじゃないのかなと、今度は、Fさんに、「Tさんの案内状も、1階においてありましたが…」と伝えると、すぐに見に行かれた。「ああ、ありました。これです。内容がよく似た感じだったので…」とのことで、どうやら一件落着。

  単純な勘違ですが、実のところ、Tさんからの指示をぼくは聞いていないから、もしきっちりコミニケーションをするのなら、指示を受けた方が、Tさんに再確認すれば丁寧なんだろうけど、人伝え、人伝えの勘違いたったようですね。

  その学習会のテーマは、ちょうど「聞き方、伝え方」とタイムリー。もちろん、これは映画の題名じゃない。法座という名称ではありませんが、今後も継続して、学んでいきましょうとのことです。以下参照。

http://homepage1.nifty.com/MANU/others/kyoto2009-9.pdf

3)東海支部座談会:9月6日(日)1時30分~

 同じ日に、名古屋でも法座があります。若手先生のご法話に、座談会です。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/09/toukai2009-9.htm

 どこかでご縁がありましたら、お参りくださいな。

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修士論文の中間発表会

 連れ合いの呼びかけ、ゼミを横断して、修士論文の自主的な中間発表があった。さすがに、学生から、「ゆうこさん、いい感じの若作りすネ」と、素直には喜んべないビミョウな褒められ方をする女子大生だ。これだけ人が集まるのも彼女の特質なんだろう。

 ぼくは大学院を修了してから、もう20年以上経過した。当時に比べて修士論文なのに、教授の指導が行き届きびっくりした。ぼくの時は、完全に放任されて、当時は、事務員としても華光の仕事が多忙だったこともあって、ぼくはあまり優秀な学生ではなかった。2年で論文を提出するところを、最大の4年もかかって、やっと修了した。その間に、論文の中間発表をしたのは、最後の年の初めて参加したゼミ合宿だった気がする。そのときも、特に指導も受けた覚えないなー。いまは、(研究の)先攻論文(うーん、こんな表現もなかった)の提示から、いろいろと指導があるようだ。

Img_7182  いまでも年に1,2度は、学会での発表を聞くことはあるが、学生諸氏の中間の報告を聴くのは久しぶりだ。残念ながら、おもわぬ来客はあるわ、子供が気分が悪くなって小学校からの呼び出しがあるわ、華光誌の編集もあるわで、結局、連れ合いのものしか聞けなかった。西山上人証空と親鸞聖人の獲信の構造と、その表現というのがテーマだった。どうしても、扱う主が証空と親鸞の二人がいて、しかも構造と、門弟への教示という二つのテーマがあるので、いろいろと拡がったり、疎かなになったする中で、どうその共通点を探っていくのか。

 残り4ケ月。正念場はこれから。まあ、頑張ってください。

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『ちゃんと伝える』

 映画のファーストディー。『ちゃんと伝える』を観た。ちらっと予告編をみた時、映画らしくないタイトルが目に留まる。他にメーンテーマがあって、サブタイトルになるような感じ。監督が、鬼才といっていい園子温だったのも気になる。

 映画の中でも、父と子の間で、夫と妻の間で、そして婚約中の恋人同士の間で、つまり身近な人の間で、たびたびこの「ちゃんと伝えるよ」というセリフが繰り返されていくのだ。

T0007628_2   言葉にせずとも、いつかこの気持ちに気付いてほしい、察してほしいというのが、身近な家族に対する日本人のコミニケーションの特色でもある。だから、仲間うちでのKYというのも、ある種、日本的なもので、空気、つまり雰囲気を「察しろよ」というメッセージが生まれる。言葉にせずとも、「察してほしい」「気付いてほしい」のは、幼子が言葉でなく、泣いたり、グズッたり、身体の不調を訴えたり、さまざまな無言の態度で、母親の愛情を獲得しようとする姿である。得体のしれない身体感覚につつまれたとき、抽象的な言語に正確にのせて表明するには、まだ未熟すぎるのだ。その甘えが、大人になっても続くことが多い。しっかりと言葉にのせて、身近な大切な人に、自分の大切な思いや気持ちを、ちゃんと伝えることは、自分を伝えることでもある。だから、伝え方のテクニックとか技法の問題ではないのだ。

 我慢し抑圧しすぎたがために、過剰になり攻撃的なメッーセージになって、自己嫌悪に陥ったり、それが嫌で回避や沈黙になったりもする。しかし、沈黙していたら、相手とのトラブルにならないと勘違いしがちだが、実は、「黙っている」のもコミニケーションツールとしては強力な武器で、往々にして、まったく意図せぬメッセージが相手に伝わり、知らず知らずに関係を悪化せさることも多々あるのだ。

 黙って察してくれと甘えるのでも、察してもらえないからと苛立ち、感情的になるのでも、また閉じ籠もって回避するのでも、もちろん相手の人格を攻撃するのでもなく、ほんとうに自分の居所を、誠実に、きっちりと伝えることは、身近な人であるほど、実は難しい。

 ほんとうは日常生活の、平凡な毎日にこそ、その努力は必要なのだが、ときとして、非日常的な災難や、生老病死の苦しみに接したとき、「当たり前」と思っていた関係が、実は、「有り難い」ものであったと知ることもあるのだ。

 東三河(豊橋、豊川、そして蒲郡あたり)のタウン誌を編集をする、ごく平凡なサラリーマン。まだ20代後半。結婚を意識する高校時代の同級生の彼女がいる。高校教師の父と、母の3人暮らし。父は、地元では有名な熱血漢のサッカー部の監督で、彼も同じ高校だった。家では厳格な父であり、学校では鬼監督であり、先生という、少し特殊な高校時代を過ごす以外は、どこにでもあるごく平凡な家庭だ。両親とは同居中でも、いまでは、ゆっくり言葉を交わすこともなくなっている。

 そんな生活が、父が倒れた日を境に一変する。悪性のガンで闘病中の父を、仕事の合間を縫って見舞うことが、彼の日課となった。ところがである。彼自身の身にも、予期せぬ事態が襲ってくる。

 監督自身が語るように、これは、難病ものや余命ものというカテゴリーの映画ではない。治療場面も、闘病場面も一切登場しないのだ。両隣の女性は、大泣きしていたが、お涙頂戴的な安っぽい場面は少なく、ごく平凡に穏やかに進行していくのがいい。しかも、ときに、フラッシュ・バック的に時間軸を前後しながら、微妙に立ち位置(カメラ)の視点を代えて、それぞれの気持ちが明らかになる手法がとられる。命は、空蝉(蝉の抜け殻)のようにはかないからこそ、いま、いまの、ご縁のところで、恐れずに、ちゃんと伝えあっていく。そして、近しい関係であるからこそ、誠実にその約束を果たしていこうとする。人は、失うことでしか、その真価を知ることはできないのかもしれないなー。

 苦言をひとつ。所詮、映画は虚構である。ありえないことはそれでいいのだけれど、しかし、本筋がフィクションであるからこそ、細部にリアリティーが必要だ。空きだらけの病室、親戚の列席しない葬儀、特に葬儀の場面は、もっとディテールにリアリティーが欲しかった。

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