満中陰法要
朝から、東大阪の布施へ、四十九日(満中陰)法要に出かけた。
喪主の方の要望で、単なる法要ではなく、ミニ法座形式となった。法要に30分ほど、あと2時間ほどは、法話や座談に当てることにした。
お勤めは、礼拝聖典を配り、『阿弥陀経』をあげる。98歳で亡くなった故人の家の宗派は、禅宗。すでに、家の主はなく、娘さんが引き取って喪主。その家は、真言宗。そして、ぼくは浄土真宗。華光同人である喪主以外は、みな、浄土真宗のご縁がない方ばかり。始めに、念仏や聖典の扱い方、お勤めについて説明して、一緒に声を出してもらうようにお願いした。そして、違いではなく、仏教としての共通点を少し話して、勤行はスタート。最初は、聞こえないほどの小声だが、だんだんと大きな声となってくるから、不思議ものだ。
そして、「お説教」。お経は、教であり、鏡であり、自分を教えてくださる鏡。故人の供養だけでなく、生きている人が聞く教えであり、それをかみ砕いて教えてくださるのがお説教だということを枕に、その鏡に写された「自分を知る」テーマで、40分程度。初めての勤行の感想を聞いてみたら、「聖典の文字が小さくて読むのに必至だった」とのこと。ああ、たしかに、この礼拝聖典は字が小さい。慣れない人にはたいへんなのだと、ちょっと反省。
残った時間で、ミニ座談。法話の感想も少し聞いたが、主には、故人についての思い出や感想、亡くなった時の気持ちなどを、参詣者、全員に一言ずつ話してもらった。実は、最近、ある若手先生から、この形式を教えてもらったが、通夜、初七日、四十九日、一周忌…と、その度ごとにそれをやられるというのだ。そうすると、人それぞれでさまざまな感想が生まれ、また時が立つと変化もしていくそうである。これはいい。よいと思ったら即実行である。それに、一方的な法話よりも、相互交流を促すは得意である。普段は、法事の機会はないが、さっそくチャンスが巡ってきた。
亡くなった故人は、98歳。しかも、集まったのは、亡くなった長男方の兄弟が中心で、その意味では、やや縁は薄い方が中心だが、親族同士の縁は深く、良好なようだ。そこは、(義理とはいえ)故人を知るひと達である。共通している思い出や見方がある一方で、最後まで介護し看取った娘さんと、そのお子さんでも、かなり思いは違ったりする。ある人の言葉に、「え、そうですか」とびっくりすることもあったり、涙ながらの言葉に一同が胸を撃たれた場面があったりで、とても温かい時間となった。
まったく故人を知らないのだが、それを聞くだけで、その人となりがいろいろとわかってきた。そのあと、生前のお仕事を聞き、たいへん納得。なーるほどである。その方の生きざま、周りへ与えた影響が、ほんの短時間でも窺えるのである。しかも、なぜ、娘さんと、親戚の方とでは思いが違うのかなどが味わえて、とても貴重な時間となった。最後に少しだけまとめの話をして終わったが、たいへんいい経験となった。
最後に、喪主さんから、御供養に添えて、ぼくの法話が出ている華光誌(一年分をあらかじめ用意)と、東京公開法座のチラシや華光のパンフレットに、喪主の体験記の記事のコピーも加え、皆さんにご法座もお勧めくださった。
わけのわからない読経と、単なる飲み食いだけの法事にならないで、皆さんも満足されたようだ。法事でも、いろいろと参詣者に参加してもらえ、しかもご縁をつなぐことできるわけですね。
ぼく自身にとっても、これはいい勉強になりました。
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