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東京法座(2)~司会者研修会編

 10名ほどの人数を絞った司会者研修会。これがなかなか面白い経験になった。

 依頼を受けてから、「その日からでも、司会をやっていく覚悟のある方を対象に」と返事したら、ずいぶん、依頼者側との思惑とは違っていたらしく、「次ぎの次ぎぐらいに司会をやってもらえる方の育成、法座(座談)を未信の方にも違って角度で知ってもらう機会」程度の位置づけだったようだ。

 それを聞きながら、「次ぎの次ぎ」という意識では、いつまでも「次ぎの次ぎ」のままで、本番はやってこない。それは、弥陀の本願を聞くという聴聞だって同じことで、「いまはまだまだ適っていないが、これから聞いて、いつかはそうなる」というのでは、他所事にご本願を遠くに眺めているだけであって、絶対に、ここの私のところには届いてはこないのである。その意味では、いま、ここの自分の問題になってからが、ほんとうの聞法が始まるのだ。

 それは、司会者だって同じことだ。いくらミニ・カンで訓練していても、それが身内だけの緊迫感のない練習ばかりを繰り返するなら、ほんとうの力にはなってこない。畳の水練も時には大事で、水に入るためのほんの少しは恐怖を取り除くためには、役立つかもしれないが、しかしほんとうに水に入らない限りは、決して泳げる日はやってこないのである。

 その意味では、ひとりひとりが実力をつけるには、たゆまぬ訓練も必要だが、あくまで実践での経験がものをいうし、そしてそのときの姿勢、態度、それには意識こそが一番である。

 もちろん、なんでもかんでも、誰でも彼でも、実践すればいいというのでもない。あくまでも、自分自身の信心の沙汰がいちばんだ。だから、まだ「わが身の往生が不定」と思う方は、決定の身になることが先決。自身がフラフラしていて、人の世話もないのである。自信こそが、教人信の力となる同時に、教人信への働きこそが、自信へ還元されてくるのでもある。

 と同時に、司会者としてのマニァル化されたものはなにもない。

 ならば、そのような学習の方法をとるしかないのである。

 そう、「いま、ここで」の自分で取り組んでいただく、体験的な学習法である。

 だから、ぼくもなにも準備をしていかなかったし、一方的に講義をするのでも、なにかプログラムされたものを体験学習をするのでもなかった。出発間際に思い出して、伊藤康善先生が華光会館創建を決議した華光大会でご法話された「伝道精神に燃えよ」という、短い法話をコピーしていったが、別に司会者とは直接関係はない。これを使うかどうかも、やってみないとわからない。

 まず、車座になり、皆さんから今回の参加動機や疑問点を出してもらい、その中からポイントになるテーマを探し出して、それを素材に、10名でブレーン・ストーミングの雰囲気で進行していこうという、青写真はあった。その意味では、何が出て来るかはわからないが、何が出てもやっていけるというだけの経験は積んでいるつもりだ。と同時に、ここに覚悟のある、意欲的な人を求めた理由がある。みんなが、消極的で、ぼくに「おまかせ」で黙ったいるだけなら、この研修は成立しないからだ。さいわい、参加者が、法座や座談会の経験をついてきた人たちで、しかも司会役を引き受けたこともあるので、具体的な問題点が次々と出されていた。その点では、この場に対する安心感がぼくにあった。この時点で、どう転ぼうとも、この研修会は意義のあるものとなっていくのである。

 みんなが自分で考え、それを声に出し、みんなの意見を聞き、また考える。そして、ぼくが提供できる経験があれば、それを出して分かち合う。その中で、次ぎの課題や疑問が自ずから生まれて来るから、それをまた同じようなプロセスで、考え、分かち合っていった。結局、4つのほどのテーマが階層的にでてきて、それを自由に出し合い、分かち合うでけで、一方的な、立派な講義を聞くよりも、数段、実りある経験となったはずだ。

 司会者といっても、特にテクニックやノウハウ、技術ではなく、ありのままに、一参加者として座り、さらにいうならば、弥陀の本願に照らされた共に凡夫の身として、法座に参加し、身を委ねていくならば、自ずから、司会役が成すような法座を促進し、人の発言を大切にし、交通整理をしたり、黙っている方に声をかけていくという役割は成り立っていくのである。だから、意識して司会者としてせねばならない大事な仕事は、ただひとつだけ。「タイムキーパーとして、始まりと終わりを宣言して、責任もって仕切ることです」と言ったら、皆さん、目からうろこ状態になられた。

 そう、司会者としての意識的な役割は、まずそれだけなのである。

 あとは、覚悟と、態度(姿勢)が整えば、自ずから生まれて来る態度である。ところが、自信がないと、うまくやろうと、下手にテクニックやノウハウで計らうから、逆に思い通りにならないで、ますます不自由で、しんどくなっていくのである。

 その意味では、覚悟を決めて、経験を積んでいくしない。できれば、経験したことを自分決めで評価してしまわないで、経験者から高評してもらうと、さらに力になっていく。

 参加者の皆さんからの反応も上々。一方的な講義ではなく、ちょうどジグソウパズルをみんなで組み立てていくような経験を通して、何かが、ひとりひとりの胸ち灯ったはずである。

 それは、司会者といわれようが、講師といわれようが、そんな役割にはかかわらず、真宗法座では何を聴くのか、いちばん大切なことはなにかが、改めて明確になってくる経験だったといっていい。

 面白かったが、次ぎに同じことをやっても、同じ経験や思いにはならないだろう。その一期一会がまたいい。

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