『土徳』~焼跡地に生かされて~
京都みなみ会館で監督の舞台があった、 『土徳』~焼跡地に生かされて~の紹介。
これは商業主義の映画館ではかかならい代物だ。かりもんプログファンの方には、ぜひ見てもらいたいのだが、もっとも機会があればの話…。まさか、みなみ会館のスクリーンから、お念仏や、正信偈や白骨のご文章、三奉請が流れてこようとは考えたことがなかったもの。
実は、この監督の作品は、ちょうど1年前に見ている。『藝州かやぶき紀行』という作品。マニアックだったが、真宗の篤信地域である広島の宗教(真宗)社会史的な側面も窺えてなかなか面白かったと、このブログでも触れている(詳しくは参照)http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_b4da.html。
その『藝州かやぶき紀行』よりも先に作られたのが、本作『土徳』である。チラシを見て、あれ、と驚いた。監督はぼくと同世代(同学年)、しかも広島にある寺町の真宗寺院の子弟で、龍谷大学仏教学科の出身だという。彼の生まれ育った真宗の土壌は、安芸門徒で、その中でも、伝統と格式ある大寺院が軒を並べる寺町の一角だ。その地に根付いた 地域史であり、家族史であり、真宗寺院の生態を伝える貴重な記録でもある。しかも、その寺町は広島市の中心街。まともに原爆に見舞われ、壊滅的な被害を受けて,いる。だから、戦前からの家族や地域、寺の歩みを辿っていくなら、戦争や原爆は避けては通れない。前日に見た、『妻の貌』』は、広島で被爆した連れ合い(妻)の60数年の歩みを記録した膨大な、プライベートな素人作だった。(詳しくは以下参照ね)http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-2213.html
『土徳』もまた、極私的な家族史で、プライベート性は高いのだが、真宗寺院の近代の地域史や社会史な一面があり、また原爆に遭遇したり、家族を失った市井の人々の等身大の貴重な記録を伝える、映像作家の作品としての見応えがあった。(ボスターはアメリカ軍が撮影した原爆投下前の広島の航空写真)
特に、彼の父が、たまたま原爆投下の時、龍谷大学の学生で、京都で下宿し(当時の大学や下宿先の証言も追っている)中で一命を取り留めるが、断片的な情報の中で、家族の安否を心配したり、その後、やっと広島入りしてみると、両親、兄弟のほとんどが死亡、町も寺も壊滅状態の中で苦悩する若き時代の日記が、再現されるくだりは感銘を受けた。また、被災した祖父を始めてするひとりひとりの姿も尊かったし、戦前の寺院制度や寺町の様子を丹念に追い掛けていくのも貴重だ。
個人的には、映画には龍大の北畠教授が出演し、舞台あいさつでは、信楽先生の名前は出て来て驚いた。もしかすると、監督とはどこかで接点があるかもしれない。終了後、ロビーで言葉を交わしたが、同級生ではなかった。
よくお念仏の土徳の地についてに触れているが、土徳とは、広辞苑にも出ていない言葉だ。どこか地域にどっしりと根を降ろした土着性の肯定的な響きがある。いい言葉だと思う。「徳」というところに、おかげの精神を感じる。
しかし、その反面もあるのではないか。土着には、習俗という俗の一面もあるからだ。本来、親鸞聖人の革新性は、旧来の日本の土着性やその信仰からの峻別があった。だから、旧態然として既製仏教や権力から弾圧を受けたのである。だか、その後、真宗が発展するプロセスでは、習合思想のように、ある種の土着的信仰を取り入れ、大衆化してきた歴史だといってもいい。
その最たるものが、本願寺という形態である。「阿弥陀仏一仏以外は礼拝対象ではない」はずの真宗において、阿弥陀仏をおまつりする「阿弥陀堂」よりも、聖人をまつる「御影堂」の方が、大きいのはなぜか。それは、本願寺誕生の経過から当然である。しかも、その留守職は、親鸞の直系という血脈が加わり、それが、封建的な門主制と、葬儀や法事中心の檀家制に守られていく。「加茂川の魚に与えよ」との遺言は、墓や亡骸にこだわらず、また正法を護るために長男をも義絶し、骨や血を捨てて、いま、ここに苦悩する人々への救いを問題にされた聖人のおこころはいずこにだ。
結局、信仰の形骸化の中で、地と、血と、骨が残ったといってもいい。
だから、得体のしれない感情で、真宗内のヒエラルヒーの頂点にたつ、聖人の直系である門主や本山は、崇拝の対象であり、崇高な雲の上の存在(たぶん、日本人としての天皇制にも通じる)なのである。当然、そのミニ版が、手次ぎの寺院や住職・寺族に対する念であろう。
その意識は、熱心な門徒や住職や寺族ほど根強い。ある種の特権意識だ。だから、婚姻は寺院の子弟同士であり、次男以下は、寺院の養子に入るべきだと、住職も檀家も考えている。その他、非親鸞的な因習も多いのだ。
もちろん、この私が弥陀の本願に出会えたのは、善知識として七高僧や親鸞聖人のご出世がなければありえなかったこと。また、寺院の果した役割も大きい。その意味では、祖師や本山を敬い、崇拝するのは当然だし、葬式にしても、血脈相続にしても、その意義や意味を、全面的に否定するつもりはない。
しかし、第一義には、ひとりひとりの「個」としての私の上に、生きた信仰が確立されるという点にある。地縁や血縁も超えた、ただ念仏でつながる御同朋・御同行。それは、私の胸に、弥陀の本願がいま、届いているという事実こそが、最重要なのである。形式や伝統ではなく、ほんとうに「法」が生きているのかどうか。残念ながら、その問いかけまでは、この映画に期待できない。土徳といっても、所詮、縁他力の喜びに過ぎないのだ。
いまは日本的な負の一面を指摘したが、もちろん、一朝一夕でない伝統に根付く尊さも滲み出ていることは、いうまでもない。
監督に、「檀家をもたず、法事や葬式で生計を立てるのではなく、伝道・布教を中心に活動しています」と、ぼくのことを説明すると、「他に仕事をされているのですか」「いいえ」。「では、役僧されているのですか」、これも「いいえ」である。真宗寺院という伝統社会から飛び出した人といっても、その枠外にある華光会の仕組みは、そう簡単に理解できるものではないことがよくわかった。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (1)