葬儀
ブログを初めて3年が経ったが、初めて葬儀の記事である。
導師をするのは、6年ぶりになる。
初めて夏の七条を着ることになった。へえ、会館にも、夏の七条があったんだ。すっかり忘れていた。昨夜は、少しリハーサルで着てみたが、それなりに覚えていて、ひと安心。
華光会は、生きた人を相手にした集いである。だから、檀家制度でなく、同人の皆さんも、それぞれがお寺をもっておれる。家の宗派は、浄土真宗でも、西ばあれば、東もある、興正派の方もおられる。浄土宗の方もあれば、禅宗や真言宗の方だってある。それどころか、現役の他宗のお坊さんまでもが、後生の一大事の解決する場として聴聞されている。その方のお一人が、いま、この社会で、真剣に生死の一大事に取り組み、体験的に聴聞しているところは、ここしかないのではないかとまでおっしゃっていた。
ところが、そこに矛盾が生じる。当然、それぞれが、家の手次ぎのお寺さんがあるわけで、そこに葬儀の依頼をされる。ところが、華光でお育てをうけた皆さんにすれば、ただ勤行だけで終わったり、妙なご法話にガッカリされた方も多いようだ。もちろん、しっかりしたお寺さんもあるのだが、中には、年忌法要の時に、(関東地方で、バブルのころだが)お布施の金額を強要された方があった。そのあまりの法外(ぼくもびっくりした!)な値段に、憤られたのである。しかも、そんな方ほど、ロクに法話もされない。そんなお寺に、大金を払うのなら、なんとか華光の先生にお願いして、ご法話もいただけば家族にもご縁にあってもらえるし、加えてそれが華光会館に役立つのなら、一石二鳥ではないかとういのである。
確かに、それはけっこうなことだ。でも、そうは都合よくはいかない。ここは、生きている人のたましいの葬式をするところなのだから、もし死者の葬式が多忙になって、本業が疎かになったら、収益性はあがるかもしれないが、普通の葬式仏教になり下がって、華光の存在意義はなくなる。だから、貧しくても、「武士は食わねど高楊枝」で、筋をとおさねばならない。決して、葬儀や法事が主流のお寺になってはいけないのだ。
とはいっても、まったく葬儀や法事が無意味だとは思っていない。現実に、そのことをきっかけに聞法され、いまや同人になってくださっている方もおられし、家族の方へのご縁にも確実になっている。華光ならではの、ほんとうの意味でのみのりのある葬儀をする自信もあるのだ。そこで、ぼくなりに基準を設けて対応している。1)手次ぎのお寺がなく、2)家族の方も聞法されるご縁となり、3)行事と重ならず、4)そのことを十分に了解いただけた場合のみ、ご依頼を引き受けているのだ。だから、しばし、3)の条件のために法座優先で、「たいへん申し訳ないです」と、お断りをするケースが多々あるのだ。
今回は、お通夜が法座に重なったのが、葬儀は都合がついたので、お引き受けすることにした。いろいろとご事情があって、禅宗の戒名(法名ではない)の方であったので、初めて禅宗の戒名を位牌に書いた。東大阪の斎場まで、大雨で速度制限もあって、80分ほどかかった。あまり大阪でお勤めしたことはないが、少し京都とは事情が違う点もある。それに、ここの火葬場の事情も違って、骨揚げまでに3時間もかかるのだ。12時の葬儀で、還骨勤行と初七日のご法話が終わったら、夕方の6時を回っていた。それからお斎があるので、昨晩から続くご遺族の方は、かなり心労のご様子で、申し訳ないぐらいだった。それでも、一緒に勤行し、お念仏し、ご法話も最後まで聞いてくださった。どんな時でも、聖典を持参して、一緒にお勤めしてもらう。故人といちばん親しいのは、ぼくではなく、ご遺族なのだから、専門家にまかせにしないで、共に心あわせてお勤めしてくださいとお願いする。坊さんとしては、ひとりであげたほうが早すくすむのだが、それでは意味はない。そして、合掌の意義を少し話して、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えてくださいというのだが、一番、これが抵抗ある。お勤めはまだ小さいな声でも出るようになるし、手も合わせて頭も下げられるが、「南無阿弥陀仏」の称名念仏は、なかなか声にはならないのだ。ただ、形だけなら、称名念仏とはいえない。これが一番大切なので、恥ずかしがらないでと、重ねて説明したら、一番、最後だけは、お念仏の声が聞こえて来るようになった。
そこで思った。そのおいわれを求めようとしたり、そこを知る身になり、喜ぶ身になるなんてことは、稀中の稀。それには、どれほどの気の遠くなるようなお手間やご苦労があってのことなんでしょう。それがわが身の上に実現するなんて、なんと不思議なことなんでしょう。なんでも、当たり前にして、粗末にしているけれど、それでは、あんまり勿体ないよね。
正直、最初は(法座の翌日で)気乗りしはなかったが、ご縁をいただくと、皆さんも喜んでくださるし、ぼくも有り難かくて、よかったなとは思わせてもらせてもえらる。おかげさまで華光も潤って、一息つける。ありがとうごさいました。でも、さすがに朝からだと疲れますわー。道も知らない場所だし、やはり法要に不慣れなので、それなりに気を使う。同じ疲れでも、日頃の法座の方が、ずっと性に合ってるよなー。
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コメント
「壮年の集い」では、御世話になりました。
「葬式仏教」の成り立ちについては、様々な研究が出ていると思いますが、前にも此処で紹介させていただいた末木文美士先生が、『思想としての仏教入門』(トランスビュー)の中で、「頓悟と即身成仏」と題して、その思想史的背景を解説なさっていたのが勉強になりました。特に伝教大師の「三生成仏」(や、その教学史的背景)と、鎌倉新仏教(このパラダイム或いはカテゴリーには種々の問題が今日指摘されていることは承知していますが)の御祖師三傑である、親鸞聖人の「現世正定聚」、道元禅師の「現成公案」、日蓮聖人の(「旧仏教」的な概念を読み換えられたうえでの)「即身成仏」との影響(?)関係については考えられさせられます。
この書で先生は、『法華経』や『無量寿経』などの初期大乗経典のテーマとして、「他者との関わり」を挙げておられます。その意味での仏教的な「生死観」のうえからの葬式仏教の意味を再考することも大切ではないかと愚考しました。
「死者」の問題に敏感なのは、最近、自死した友人がいるのと、斉藤貴男氏の『強いられる死 自殺者三万人の真相』(角川学芸出版)を読んだからです。
この本は、「日本」「社会」「組織(悪)」(仏教的には)「共業」ということについて色んなことを教えてくれます。また考えさせられます。私自身まさに身をもって体験させられている「事実」について多くのことが書かれています。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年7月25日 (土) 11:57
訂正
『強いられる死 自殺者三万人超の実相』(角川学芸出版)が正しい書名です。
投稿: 縄文 | 2009年7月25日 (土) 11:59
縄文ボーイさん、連続の登場ですね。壮年の集いも終わって、次は聞法旅行ですか。
今日も、町内会の葬式に参列。浄土宗でした。他宗派の葬儀にでると、また考えることもあります。葬儀屋主導の葬儀だけでなく、これまでの寺院のあり方も本気で考えていかない時でしょうね。もうかなり手遅れでしょうがね。
紹介された本、また読んでみます。
投稿: かりもん | 2009年7月26日 (日) 10:59