大雨の日の輪読法座
午前中、葬儀や会議でキャンセルしていた自力整体に行く。雲行き妖しいかったが、自転車で出発。すぐに雨になる。帰路は強く降っている。夏休みに入ったのに、まだ梅雨明け宣言もなく、グズグズした天気が続いている。晴れが一転雨になったりもする。スッキリしないのは、まるで、○○さんのご信心みたい。(○○内には、各自、あなたがふさわしいと思う人の名前をお入れください。もちろん自分の名前も可)。雨具をもっていたが、風もあってかなり濡れた。それでも、寒い時に比べると、雨にうたれても不快感は低い。
朝、父とTさんが、九州(福岡)家庭法座に出かけたが、「先生、長靴と、レインコートで来てください」と、昨夜電話があった。ちょっと大げさじゃないのかなーと思っていたら、福岡や北九州で記録的なゲリラ豪雨。会場の都心部でも、車が水没したり、商店街をボートで行き交っているニュース映像を見た。それでは、長靴の以前に、新幹線が停まってしまわないかを心配したが、今日はどうやら無事に到着したらしい。むしろ、明日の天気が気がかり。九州はまた大雨の予報。しばらくは、こんな天気が続くようで、久しぶりに天候不順の仏の子供大会となりそうだ。だいたい、この頃は夕立はあっても、晴天が多くて、猛暑対策が中心だ。でも、10年に一度ぐらいでこんな年もある。どうやら今年は雨対策も必要かもしれない。
すぐ着替えて、華光誌輪読法座。10名と、少なめだった。でも、久し振りの方、輪読初参加者もあって、かなり突っ込んだ発言をされて、よかった。かりもんブログの話題がでる。アナログ派もおられるけれど、中にはコピーしてもらい読んでられる方もある。ブログ愛読者が多くてては、ヘタなことは書けないーという気分になった。
「助けたい」の巻頭言を読む。
一般の寺院での(本気の)布教について。冒頭を読むとに、半ばあきらめぎみで、難しいのが現状だということがわかる。しかし、この例であるようにご法を喜ぶ人も出て来る。だから、小さな判断で、ご縁のある、なしと決めつけないで、「あなたのことを助けたい、と願ってくださっているお方いる」ことを伝えることはできる。だから、自分とご縁のある人に、ひとりでもとご法をお伝えしていきたいものだとの決意で結ばれている。
こうしてお伝えしようという先生も尊いが、それに答えて喜ぶ門徒さんが出ることも尊い。まさに稀有なことだ。ただし、今回の輪読の場などでは、この例の方よりも、もう一歩踏み込んだご法の受け取りが話し合われた。結局、この話には、助かるところや有り難いところは出て来るが、「では、あなたの後生は?」というところが、省略されている。確かに、阿弥陀様の「南無のおこころ」は尊いのだが、ではその南無されている「私」はどんなものかをお聞かせに預からないといけない。つまり「仏願の生起」のところである。
もちろん、手が離れなくなったという現象が、不思議なのではない。真摯に聴聞していると、しばし超常的な現象も起こって来る。たとえば、今日の輪読の参加者にも、「南無阿弥陀仏」のお名号の、「南無」が突然、浮かび上がり、私に合掌し、頭を下げている映像が、リアルに見えてきたという方があった。そんな有り難いことは、ぼくにはサラサラなかったが、その方も、そこは握らなかった。でも、念仏が吹き出したり、手が離れなくなったり、神々しい阿弥陀さまが見えたり、(なかには地獄の業火目の前に見えたりもするが)、とかくいろいろとあるようだ。でも、有り難いものも、不思議と感じる現象も、決して、信心そのものではない。ところが、自力の厄介なところは、なにか欲しい欲しいと求めていると、そんなものをすぐに握って、「獲信」の証拠にしてしまうのである。ここが恐ろしい。
実は、すぐに仕上がり、取り込み、良しとしたい私を引き破り、裸にしてくださるのが、善知識のほんとうの仕事なのである。ところが、悪知識に遭うと、すぐに印可(先生のよしという許可)を出して、獲信者を量産してしまう。我が弟子が欲しいからである。同行の方でも、証拠を出してくれる同行や知識のほうが楽だから、知らぬ間に共依存関係になってしまっている。
結局、阿弥陀様のお働きは、隅に追いやられていくのである。その尊いお働きが、どんな奴にかかっているか。その「どんな奴」かを、私の上で徹底的にお聞かせに預かるしかないのである。
「聖教のこころ」-五逆・謗法の私の為も読む。合わせて、信巻に引用された阿闍世王の廻心について、現代語訳で解説した。いつものことだか、いつ読んでも有り難い。結局、ここでしょう。単なる悪人のお救いではない。親鸞様は、阿闍世王の姿をまったく自分のこととして聞いておられる。私こそが、五逆・謗法で唯除されていると聞かせていただく。つまりは絶対に救われない身と聞かせていただかない限り、そのものをお目当てにされたご本願に出会うことはないのである。
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コメント
度々のレス申し訳ございません。 聞法旅行でも御世話になります。宜しく御願い申し上げます。
福岡はじめ、大きな被害が出ていますね。御近くの方の御様子は如何でしょうか? 今年は、太平洋高気圧の発達が中途半端であるが為、梅雨前線は勢い衰えず、それどころか南からの湿った空気に刺激されて大暴れしているようです。そんな中、御不況に赴かれる先生には頭が下がります。
当地も悪天候で水害が心配されます。私はと言えば、今朝は、激しい雷雨で、雨量もさることながら、稲光と雷鳴までが最短2秒弱(私のカウント)のが数回という凄まじさで思わず、床の間で御念仏させて頂いていました。
まさに「困った時の神頼み」的に阿弥陀様を利用とする浅ましい私の姿をまざまざと見せて頂きました。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
私の本性は、私の日暮しは、自らの欲の為、命の為なら、仏様の御命を食らい尽くし、果ては、仏様の御命を骸にして、武器として利用して自他を殺しまくって、「己が可愛い」だけを一大事として執著し切って、狂いまくり、罪業オンリーの念々です。まさに仏様の御救いからさえも排除された十悪五逆謗法の現実(タタター=真如)です。
ヨーロッパの宗教改革の旗手であるマルティン・ルターは、眼前で落雷に因り友人が命を落としたことを、廻心の機縁とされたというし、戦後大発展した某在家仏教系団体のカリスマ指導者・I師は、激しい雷雨に脅えながら必死で唱題を続けたことが入信の切っ掛けだとも聞きます(I師が無名の青年時代に受けたインタビューによる)。
サンスクリットのヴァジュラ(金剛)というのは、確か元は雷のことだったと思います。色んな説があるようですが、人類古代文明に於ける金属器の使用は、大気圏外から(雷のように)落ちてきた隕鉄の利用から始まったようで、硬いものの総称としてヴァジュラという言葉が用いられた為というのが一説。
仏様は、御浄土から、仏様のタタター(真如)の世界から、まさに、「執金剛神」「金剛力士」の御姿で、私の罪業を御怒りになり、私の無間地獄の底の底まで堕ちて下さって、泣きの涙を流しながら、私の罪、私の執著し切った命を破壊し尽くし、また、私に食われまくり、無数に自らの御命を落とされ、且つ又、暴れまくるガネーシャを慈しむ観世音菩薩様の御姿で、私を抱擁し、悪魔のこの私と一体となって下さる。私のタタターと一体となって下さる。その御心が南無阿弥陀仏、その御姿が南無阿弥陀仏。その御智慧が南無阿弥陀仏。その御力が南無阿弥陀仏。その御命が南無阿弥陀仏。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年7月26日 (日) 15:12
縄文ボーイさま、縄文節聞かせてもらっています。
。でも、まだ遠雷です。
福岡は、今日は雨が強かったそうですが、無事に終了しました。会計事務所の職員の方を初め、ご家族の方、そして支部同人と、尊いご縁だったようです。
京都は深夜になって、強い雨が降っています。蒸し暑くて妙な天気です。あ、いま光っりました
ちょうど、現世利益和讃のところを校正・編集が終わってところ。八大龍王を始め、無数の龍王、龍神か、念仏者尊敬し、守護するということろでした。でも、残念ながら、念仏しても無理だろうなー。雷が落ちるご因縁ならば、落ちてくるでしょうからね。ぼくも、痛いのも、怖いのも、恐ろしいのも、嫌ですね。
投稿: かりもん | 2009年7月27日 (月) 00:00