『精神』
京都シネマで『精神』を観る。
これはよかった。ここでも触れた監督の観察映画第一弾『選挙』(読み返してみて→http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_debf.html)が、面白かったのもあるが、職業柄、この映画は、すごく楽しみにしていたが、期待どおりの出来で、満足。もちろん、つらい感じをいだく人や、あまりに何も感じられいないといった反響もあるだうろうが、それはそれでいい。残念ながら、マイナー映画なので、なかなか観る機会がないだろうが、ぜひ、皆さんにもお勧めしたい。
古い民家を利用した畳敷きの部屋。庭には、大きな木が庭にあり、診察室は別棟にあるようだ。患者が自由に寝転がったり、ひたすらタバコすったり、お互いに談話しているが、アットホームな自由な雰囲気が漂う。何の説明もないので、最初、ここが精神科病院の待合室とは思えなかった。
精神疾患で苦しむ人々が集う小さな診療所「こらーる岡山」が、物語の舞台だ。病院だけでなく、彼らが、地域社会で暮らせるように支援にも力を入れ、牛乳配達の作業所や食事サービスの作業所も併設している。働いて賃金を得て自立の場を提供しているようだ。他にも、臨時的なショートステイ施設も併設している。
病院の山本医師と、スタッフやボランティア、そして患者たちを中心に、精神科医療、もしくは患者を取り巻く現状の深刻で超ヘビーな話題を、正面から(けっして深刻にならず)淡々とした映像で描いている。今回も「観察映画」とあるように、ナレーションも、説明テロップも、BGMをいっさい使われない。その意味では、無意味なタレントの泡沫な言葉を、テロップで強調するようなテレビ番組とは大違いだし、お説教めいたメッセージもないので、テーマを押しつけが鼻につく公共放送の特集番組とも違う。確かに、解説やテロップがないことは、ある種、不親切ではある。しかし、その分、その受け取りや感じ方を聴衆に委ねるここができる。この手の映画でしか成立しない自由な空間表現の世界なのであろう。しかも、まったく飽きること最後まで見たのは、圧倒的な存在感もった面々が、なんと素顔で登場するからだ。
冒頭から、昨日、オーバードーズ(薬物の過剰摂取)をしてまった女性が、山本医者の診断(面談)を受けている。いまの状態がかなり悪いことは、一目瞭然だ。ヘビーな話が続くのだが、それを淡々と受け止めていく医師の態度は、一見、普通のようでみえながら、なかなかの年季と重みを感じさせる。彼女の手首には、無数のリストカットのあとが…。薬の副作用か、不自然に肥えて(むくんで)いる。そのころ、個性的な待合室には、やはり個性的な患者が待機している。
その態度や言動、そして存在感に、なぜか、ぼくはうれしくなってきた。愉快とか、楽しいという意味でないが、この映画が、医者、患者、そしてスタッフとのしっかりした関係性の中で撮られたことが窺えるからだ。それは、彼、彼女らの「素」の表情が伝わって来ることに、驚いたからである。そう、すべてモザイクや音声処理がなされない、素顔のままなのだ。そこで語れることは、自殺未遂に、わが子へ虐待(死)、離婚に、売春、頭の中のもう一つの自分に攻撃され、インベーダーに支配されるなどなどの深い心の闇が、かなりセンセンショナルに続く。しかし、そんな重い話を、ごく普通のことのように、ありのままに写し出されていることが、すごいと感心したのだ。(同時に、正直にいうと、スクリーン上であるので、ぼくの現実の目の前には、厄介で煩わしい彼らは現れない安心感があったのも事実だけれども…)。
もしもである。一般のテレビ番組のように、患者の顔にモザイク処理がなされ、音声が代えられていたとしたら、たとえ同じ話を聞いても、間違いなく別の感覚が芽生えるだろう。たぶん、不特定者の、ヘビーな話題に、ある種の不快感が起こったかもしれないし、もしかるすと、なんと哀れな人かという同情心や奇異な目で観るだけだで終わったかもしれない。個人情報やプライバシー保護と称して、このような話題の時は、必ず自主的な規制がかけられるのだか、でも、よく考えると、顔を隠すことは、個人保護といいながら、どこかで、健常者(自分の含めて普通の人)と、精神疾患者を分類し、自分とは違う世界の、触れてはならないタブーとして取り扱っていくことにはならないか。もうその時点で、美名のもとで、表立ててはいけない特別な問題をもった人として、固定観念で差別を助長することにも繋がっていきかねないのだ。
もうそれだけでこの映画は立派だと思った。当然、そのことでリスクも背負うだろうし、きっともっともっもと面白い映像もあっただろう。しかし、ゲリラ的な手法でもなく、時間をかけて、信頼関係を築き、カメラの前で、しっかりそのことを意識させながも、防衛的にならずに自然に振る舞い、時に和やかに、時にかなり雄弁に、もしくは何も語らず(これもすごいことだ)にいる人達の存在が、すごいのだ。
このようにいろいなこを感じさせれらたのだが、もう少しだけ感じた触れてみよう。
まず、躁鬱病や統統合失調症といった重度のものから、神経症といわれたり、適応障がいや摂食障がいなど、あらゆる現代人の誰もが、いつ罹患してもおかしない、心の病に苦しむ人たちを見ていると、健常者である(と思っている自分)と、精神障がいに疾患する人との、ハッキリした境界がどこにあるのかと問われたら、実は、まったくそんなものはないことが、よくわかるのである。といって、なにもないわけではない。明らかに深い心の闇に苛まれ、苦しみ、そして、社会生活や人間関係に適用することが難しく、社会的弱者として、見えないカーテンの向こう側においられている事実はあって、常に、「正常」と「異常」は、分断されているのである。
そしてもうひとつ。この施設の気持ちのよさも伝わってきた。先生の態度そのものが、患者さんひとりひとりだけでなく、この施設全体を覆っているからだろう。そこに、誰もが安心して振る舞える、安らぎの環境が整っているといっていい。決して、押しつけも、批判も、アドバイスもない。患者にそって思うままを伝え、助言を求めてくる患者さんには、「で、あなたはどうしたいの?」と、尋ねるその姿が印象的だった。
さらに、小泉改革の美名のもとで、「障害者自立支援法」への不安や不満が出て来る。この施設の職員も、行政や保健制度が、援助を縮小する方向に動いている社会状況と、常に対決せねばならない過酷な姿が描かれている。まさに、自己責任と、いかに効率よく、いかに生産性があるかという成果が求められる社会では、まったく自分と関係のない、しかも社会に役立たない弱者への、経済面でも、制度面でも、税金での援助を削るという方向で、悪化の一途をたどっている。自分たちが選んだ姿とはいえ、胸が痛くなる。結局、良心的な医者やスタッフの献身的な姿勢で、なんとか支えられているのだ。
しかし、本来は社会制度で、しっかりと援助されなばならないことが、ボランティア精神で保たれていることに疑問も感じなくはない。一般でも、しばしば勘違いされるが、-医療や福祉、時には教育や宗教においてもそうだか-いわゆる聖職者や援助的職業は、霞を食っていることが尊いのであって、(プロの仕事に見合う)正当な利益を受けないことが潔く、立派だという風潮が色濃く残っていることだ。確かに、心情的にはわかるのだが、それでは、ほんとうの意味での豊かな社会とは言い難い気がする。ブロはブロに見合った評価がなされるべきなのだ。医療や福祉の制度のあり方も含めて、ほんとうの意味での援助的とは何か、そして豊かさとは何かを、抜本的に考え直す必要があるのだろう。
とにかく、いろいなことを考えさせられる映画だった。
そしてラスト。
ネタバレになるので語らないが、最後のエンドロールまでじっくり見てほしい。ぼくも、「エッー、どういうこと?」と一瞬思い、すぐに「あ、そうなのか」と、少しショックを受けることが待っていた。
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コメント
うわぁ~私、昨日観に行きましたよ~!かりもんさんに、おすすめしようと思ってました。山本先生、いいですねぇ。本当に淡々ときいていく、そして相手に確かめていくかんじがいいなぁとかんじました。個人的には、最後のバイクで去っていくおっちゃんがなんとも好きでした。
エンドロール、やっぱそういうことだったのかぁ。
投稿: さち | 2009年7月31日 (金) 01:18
おお、さすがサチさん、相変わらずいい嗅覚してますね。ぼくは、27日の月曜日に見たよ。
そうだね、バイクの親爺は、とくにすごかった。あれをラストにもってくるところか、すばしらい。施設の人が閉館時間で締めて帰りたい、「帰ってくれ」オーラの中で、あの態度ですからね。映画では楽しめても、もし家族だったしたら、確かにしんどんです。そこがミソかな。
4本のうちの触れられなかった1本は、「マン・オン・ワイヤ」。アカデミー賞ドキャメンタリー賞受賞作です。
投稿: かりもん | 2009年7月31日 (金) 21:58
興味深い作品ですね。御縁がありましたら、私も鑑賞したいですね。
「障害者自立支援法」もそうだし、「心神喪失者等医療観察法」も問題だらけです(私見では、問題オンリーの「極悪法」ですが)。「医療観察法」は確か来年が「見直し」の年の筈。
死刑もバンバン執行されて、「人殺し」も国家的に増産されているし(直接手を下す死刑執行官も、命令権者の法務大臣等も、「違法性」が阻却されているだけで、(世俗の)法的な意味でも「殺人罪」の構成要件に該当している行為の実行者である事実は間違いありません)、今日の危うい「人権状況」には敏感にならざるをえません。
国政選挙を間近に控え、「政策」や「官僚」といったキーワードが飛び交う中、色々考えさせられる今日この頃です。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年8月 1日 (土) 11:37
そうですね。いろいろと考えさせれました。
弱いもの、役立たないもの、はみ出してものは、ドンドン切り捨てていこうという雰囲気が怖いです。ますますギスギスした世の中になっていきうそです。
投稿: かりもん | 2009年8月 2日 (日) 18:16