『ダイアナの選択』
評論家の評価は知らないが、『ダイアナの選択』は、ぼくにとっては、30本、いや50本に1本ぐらいの割で出会う傑作だと思った。
もしこの映画をこれからご覧になろうという方は、公式サイトは絶対にNG。結末を知っては意味がない。逆に鑑賞後に読んでみると、監督の意図がよく理解できると共に、投じられた石の波紋が、静かに広がるように、さまざな味わいや解釈が浮かんでくる。もっとも、分かった上で、その視点で二度目を見たら、また楽しめるだろうという深い内容だが、一度目は結末を知らないほうがいい。
「結末は絶対に教えないでください」という映画は多いが、だいたいくだらん宣伝文句の場合が多い。でも、この映画は違うのだ。
冒頭のタイトルの花のシーンからそうだが、丁寧なカメラワークと、ディテールにこだわった心理描写、効果的に象徴的なシーンを挿入した重厚な画面と、ドラマ性は申し分ない。それでも、結局、最後のどんでん返しをどう捉えるかで、評価が変わるかもしれない。だから、この仕掛けはある種の冒険かもしれない。ぼくも、ちょっと「エー」とは思ったが、徐々に、その余韻が味わてくると、その意図や仕掛けに感心させられる。
だから、いまも結末に触れることは語らない。だから、いちばん書きたいことに触れられないのは、残念だけどね。
閉鎖的で、保守的なスモールタウンで、多感な思春期をすごす17歳のダイアナ(エヴァン・レイチェル・ウッド)。ちょっとした尻軽女として、秩序からはみ出す彼女。その友人は、信仰心もあり、保守的な一面もあるが、同じ母子家庭という仲間意識もった大の親友だ。今日も、高校のトイレで、お化粧をしながらたわいのないおしゃべりに夢中。そのとき、教室から悲鳴と銃声が聞こえる。いじめにあっていた同級生による銃乱射事件が起きたのだった。修羅場とと化す校内。とうとう犯人は、トイレにも潜入して、二人へ銃口を突きつける。そして、迫る。「さあ、どちらかを殺すか」と、選択を迫られる。なんという究極の選択。そのとき、彼女がとった行動とは……。
このシーンが繰り返し、巻き返し登場しながら、でも、そのたびにほんの少しずつ進んでいくことが分かる。
物語は、この究極の選択のシーンを前後して、彼女の荒れた青春時代にもどり、そして15年後の現実世界での彼女の回想として語り口で語られていく(ように最初は思えた)。
15年後のダイアナ(ユナ・サーマン)は、家庭を大切にする寛大な哲学の大学教授(ポール!)と結婚し、ひとり娘(エマ!)にも恵まれて、同じ町の郊外のボーチのある高級住宅街で、幸せな結婚生活を送っている。自らも美術史を教え、大人の女に成長していた。しかし、彼女の傷は癒えていない。繰り返し、あの事件の、あのシーンがフラッシュ・バックして、彼女を苦しめ続けている。彼女は、自らの選択によって、良心の呵責に苦しめられているのだ。
銃乱射事件から15年を経て高校では、追悼記念式典が開かれようとしていた。
タイトルは、「ダイアナの選択」だ。
彼女が、選択したこととが何なのか。
そして、この結末が何を伝えようとしているのか。
哲学者ポールが、ウィリアム・ジェイムズの言葉を引用しながら、講演するシーンがある(明日、成りたいと願う自己こそが、今の真の自己だというような内容だったと思ったが、かなり忘れた)が、そこにも、彼女の選択する伏線が張られていた。
「選択」、そして「良心」、この二つをキーワードにしながら、水や、花の開花など象徴として、物語は進んでいくのだが、一つの役を、二人の女優に演じさせる手法も、また意味がある。そうか、二つの人生なのか。
それにしても、ヴァディム・パールマン監督の手腕はたいしたものだ。前作の長編デビュー作にして、いなきりアカデミー賞3部門にノミネートされた『砂と霧の家』は、人間の孤独と喪失感、そしてほんの少しの歯車の狂いがもたらす救いようのない悲劇をとられた、これもなかなか重厚な作品だった。見終わって、初めて冒頭のシーンのセリフの意味を知らされたりもした。
フラッシュ・バックを加えて、時間軸をバラバラに解体しながら、今に迫っていく手法はなかなかのものだ。
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