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まずは呉の寺院で(2)

 10年以上前から毎月、広島での支部法座があり、しかも連れ合いが広島市可部の出身。初めての呉線も、義姉や親戚、また華光同人のおられる駅名を聞くと、俄然、親しみが湧いてきます。

Img_5918   ところが、鈍行は、なぜか超満員。しかもカープのユニホームを着たり、メガホンをもった人が多い。新球場で平日のデーゲームがあったにしては、ちょっと変な時間。まあ、そのうち空くだろうと立っていると、右手に海岸線が広がり、聞き慣れない駅名が続きだしても、乗客は減る気配はなく、結局、そのまま約45分ほどで呉駅に到着。すると、乗客もゾロゾロと降車。タクシーで聞いたら、年に一度だけ、呉の球場でのカープの公式戦で、呉市民のお祭りなんだそうですね。なーるほど、「持ち物を見れば、行き先がわかる」の典型。カープの野球帽を被り、メガホンをもった人が、ゾロゾロとお寺参りするわけもなく、野球観戦。その球場の近くのお寺なので、多少の影響があったのか、夜座のお参りは少な目でした。

 まずは、聞法の要点、聞き方のポイントを中心に、出来る限り平易な言葉で1時間足らずのご法話。「いま、ここの、自分」の身にかけて、「具体的」に、焦点を絞って聞く。つまりは、「本願を信じ、念仏申さば、仏に成る」-その本願がどう自分にかかっているのか、信じるとはどういうことか。念仏とは何か? 自力で称えるのか、他力なのか。そして仏とは? 私が仏に成るということはどういうことか。分かっているつもりにしないで、自分に引き寄せ重ねて聞いていく。百座、千座の聴聞も、自分が善人で、無常も罪悪も人事で終わっていたら、「人間一般を、なんとなく救う、お慈悲な仏様=ご先祖様」で、十分、有り難くなりますからね…。その意味で、まずは聞法の緒を聞いてもらった。

Img_5911 翌朝は「極重悪人唯称仏」のご法話。「極重悪人」の自覚について。まずは、「善人、悪人」の自己申告。お育てが行き届いていて、しっかりご法の前での悪人を聞いておられる。もちろん、後生と踏み出すところまではわかりませんが、少なくとも、本願のお目当てが、誰に掛かっているのかを聞いておられる。そこを、「大悲無倦常照我」で、私達の、縁に触れ、折に触れて、ときどきおこる「恒」の念仏や喜びの元は、時や場所を隔てず、人を選ばない「常」の大悲のお心から発起しているわけです。

 昼から真宗カウンセリングの体験学習。これが、予想以上にいい雰囲気で展開。最初、イントロのつもりで行なった「あなたは誰ですか」のワークが好評で、このあとの分かち合いも含めて、知らない同士が、短時間で深いところで交流。「結婚して3年たつけれど、嫁さんとより、初めてあった目の前の方へのほうが、正直な自分を聞いてもらえました」と言われる方、「何年も顔は合わせているが、初めてお声を聞かせてもらったり、車座でじっくり顔を合わせられてよかった」という方、そしてワークをすることで、隠している自分飾っている自分に気付かれたという発言も続きました。

 車座で座談形式にする予定はまったくなかったのだけれども、その場を信頼し流れにまかせていくと、進むべき方向が自然と見えてきます。このあたり、一度きりのライブそのもので、こちらのはからいは不要。ここらのまかせるあたりが、真宗カウンセリングや法座の醍醐味ですね。

 いい雰囲気が生まれた要因のひとつは、日頃から座談会に慣れておられる華光同人が数名加わってくださったこと。その力が大きかった。率先して気づきや感想を述べられるだけでも、実践的な意味がある。どうしも、講師や僧侶のお勧めは、「立派な」発言すぎて、ご門徒には敷居が高かったり、構えてしまったりするのが、同じ同行が、自分の言葉で発言されるのが続くと、参加者も自然と触発され、いい影響が起こってくるんですね。ぼくも、受容的にレスすることに勤めたので、全体的に温かい雰囲気となり、初めてお会いする方も、とてもいとしく思えてきました。

 ある方の発言から、最後は、「お念仏のワーク」をやってみる気になって-華光でも雰囲気のいいときだけ、まだ3回しかやったことないオリジナル-、多少、皆さんに遠慮や恥ずかしさがあるのか、ちょっとお念仏の声が小さかったものの、確実に皆さんのお心に何かが伝わったと思いました。

 でも、残念ながら時間オーバー。分かち合いができなっかったのは勿体なかったけれど、欲張って無理してもね。最初のワーク以外は、予定外の進行でしたが、ある程度、自分のなかに引出しや経験もあるので、あとは皆さんを信頼して、安心して座っておれた気がします。いつのまにか、自分の構えも融けていた気がしました。

 一転、夜の座は、「いのちの食べ方」で、具体的に私の無慈悲な姿、我が身の悲しい罪業について、具体的な屠畜を通じて聞いてもらいました。この地獄一定のわが身のところに、阿弥陀様のやるせない大悲のお心が、「常」にかかっているわけです。
 

Img_5917 3日目の朝は、大人、子供を交えた法座。30分法話と、法話の確認ですね。時間がなかってちょっと勿体なかったですが、まあまあでしょうか。

1)(どんな些細なことでもいいので)「法話の内容を思い出し話し合う」
2)「法話にタイトルをつける」(先生のいちばん話したかったテーマ)
1)2)を確かめてOKがでたら
3)「法話の感想や思いを話し合う」

という仏の子供大会のご法話後の分級座談のやり方を紹介してから、ご法話。ときどき話す「タネ」をもちいた「因縁生起」の「縁」と「因」をテーマにしたもの。実は、これを熊本では仏青用のご法話に、70分ほどかけて話したので、詳細はそちらで触れましょう。
 おかげで、いまほくたちが何を大切に、どこに焦点を当ててお聞かせに預かっているかを、改めて教えていただいた気がしました。

 今回は、華光で法話するような、後生や信疑廃立の要のところまで強調する以前のところ。それでも、「ピンポイントで、聴聞やご信心の要を、しっかり押さえてもらえました」と、お寺さんには好評(ご門徒は知らない)だったようですが、でも、そこだけでいつもいつも法座で続くと、ご門徒にきついので、ときどきは要のところを押さえてもらったり、聞きっぱなしではなく、聞いたところを「如是我聞」と確認し、口に出していきましょう、ということでした。

 ほんとうは、その「きつい」ところこそが、いちばん大事だと思いつつも、現実は、畳みの目ひとつ、ひとつずつを、行きつ戻りつしながら、前を向いて歩んでいくしかないんですからね。

 その意味で、華光に集う私達は、ご法話の内容も、聴聞の姿勢も、そして信仰座談会のあり方も、これまでの先輩同人からのお育てのおかげで、とてつもないことを、当たり前のこととして聞かせてもらい、実践していることが、いかに稀有なことか! 外から眺めてみると改めてそれかよくわかりました。

 ほんとうにもったないことやなー。

 お念仏のワークの受け渡しではないですが、大切に大切に育み、相続していきたいですね。

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