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古き「信」を捨てよ

 金曜日は「真宗連合学会」に出席し、 土曜日・日曜日は支部長研修会。

 連合学会のことも、また支部長のことも、いろいろと書きかけましたが、共にあまりにも長編な、しかも小難しい話になってきて、これはうまく伝わらない感もあったでの、またの機会を狙ってみたいです。

 疲れました。

 それで、もう諦めて寝てしまうと思いましたが、一言だけでも、前を向いて、しっかり書いておこうとおもいました。

 どこかで、念仏者同士の悲しいことや、寂しい話にも、過敏になった気もします。

 でも、法蔵菩薩の確固たる願に生かせていただている身としては、その崇高な理念に基づいた念仏集団、僧伽(サンガ)の一員として、何を成すべきか、ほんとうに成すべきことはなんなのかを、改めて有り難く聞かせていただきました。

 いま、ここの私達の、この華光の集いでこそ実現できる、また発揮できるものがある。その可能性に目を向けるとき、たとえいかなる困難も、毒に沈む苦しみも超えて、必ず必ずなし遂げてみせるぞとの、法蔵菩薩の願心の顕れ以外にはないと思うわけです。

 慈悲と、智慧、そして自利利他が円満し尽くした南無阿弥陀仏のお心をいただくとき、この真如に背反し続ける煩悩具足のわが身にこそ、実はなせる仕事がある。そのことを、この迷い世界の中で、罪悪深重の身を抱えながら、歩ませていただくことの幸せを感じました。

 ひとりひとりの後生、聞法を援助することは、個人の成長と共に、同時に、小さながらも、華光に集うひと達の組織、僧伽の成長へともつながっていくはずです。

 たとえ、それが困難なことであっても、私達の華光の集いは、仏やご法、お念仏を尊ぶように、そのお念仏を求める仲間たちの、その心境が未熟でも、未信でも、頑でも、どういうありようをしていても、わがことのように尊重し合い、拝め合えるような集いでありたい!

「 いま、われ 甘露の門をひらく。
 耳のあるものは聴け。
 古き信は去れ」

 昨日までの古い信を捨てて、歩ませてもらいたい。

 そして、共に歩もう、共に喜ぼうという方々と、たとえ細々として歩みであっても、一歩、一歩を励ましあい、支えあいながら進んでいこう。

 「古い信」を捨てる-ぼくにぴったりの言葉です。

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コメント

ありがとうございました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 壮大にして不可称、不可説、不可思議の私のはかることのできぬ南無阿弥陀仏 そのおはたらきは“いま”生きるわたしのところである。さすれば、その真実の智恵と慈悲に出逢った身なれば、その喜びを伝えたい 私のできる力で できる限りで たかが知れてるこの私の力でも 私が意識し実践すれば 私の「信」は脱皮し、成長をし続ける多くの先達が身をもって教えてくれている。研修会でご一緒した皆様ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。かりもん師の、古い「信」のお心に触れ感じたところです。南無阿弥陀仏 合掌

投稿: 稜 | 2009年6月 8日 (月) 06:00

稜さん、2日間、ありがとうございました。
よく考えると、懇親会でもまったくお話しできませんでしたね。
コメントもらって、また元気がでました。
いろいろと考えたり、感じたりしています。
いつの日にか、皆さん方と、分かち合える日がくることを、念願しています。
もう少し時間がかかるかもしれまんが、それまで、ぼく自身もしっかり聴かせてもらい、学ばせてもらわないといけないですね。

投稿: かりもん | 2009年6月 9日 (火) 00:34

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