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懇ろなご教示

 今月の伝道研究会は、テキストにはあまり進まず、永代経法座の感想や問題点などの分かち合いの時間をもった。いろいろと振り返る内に、ある言葉が浮かびあがってきた。

 その永代経で、司会役の方が、「悟朗先生から阿弥陀様のお心、大悲のお働きについて、懇ろにご教示をいただいた」ことの尊さを語ってくれた。そのときの、「懇ろに」という言葉が新鮮に響いてきた。

 「阿弥陀さまのおこころを聞く、聞く」と簡単に使うけれども、自分の経験や知識でした理解出来ず、自分中心にしか聞けない、しかも鷹揚に、大雑把にしか捉えられない、無明の私めがけて、先達の口を借りて、繰り返し巻き返し、繰り返し巻き返し、しかもどこまでも大切に大切に、懇ろに阿弥陀様のお心を教え、お示しいただくくご縁がなければ、またそういう善知識に出会うことがなければ、絶対にそのお心が聞けるはずはなかったのである。

 にもかかわらず、阿弥陀さまのお心は言うに及ばず、目の前の懇ろなご教示すらも、当たり前のこととして軽く軽く考え、それを自分の頭で理解しようとしたり、自分の聞き方や感じ方だけに焦点をあてて、それが聞法の大問題だと錯覚しているのだ。それが、私の轉倒した、愚かな迷いの姿なのである。しかし、そんな轉倒した自分に焦点は当たらず、何か聞き方の誤り程度だと理解して、修正することに躍起になっているのである。

 「阿弥陀様のお心を懇ろにお教えいただく」。

 ほんとうは、そのことが身に余るほど幸せなことなのである。

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法味・随想」カテゴリの記事

コメント

永代経では お世話になりました

帰り際の先生の言葉の意味がやっとわかりました

「肩の力を抜いて」と「Kさんによろしく」です。

Kさんに 言ってもらって ようやく この言葉がなんなのか今 やっとわかりました
 3日間も この空間の中にいさせてもらいながら 結局 目の前の人に 褒めてもらいたくて 点数を取りに行っていました。自分の頭で理解したことを これで もう安心 と思い 足取りも軽く家に帰り しばらくの間 前のように 人がどう思うかに時間やエネルギーを奪われることもなく 快適に過ごしていました。もうバラ色でした。人のことなど気にしたりするのはすべて良く思われたい自分の頭が作り出すもので これは 真実ではないから もうここは悩む必要がない。と。結局 私は時間とお金を使って 娑婆世界で楽に生きれるよう この世の安心だけを求めていたのではないかと。はからい 自力が取れていないことに気付けて良かったね とかなり厳しいお言葉を頂きました。
もう 聞いて長いのに 何をやっているんだと 
こうですね あーですね なんてのは関係ないと
いつになったら わかるんだ
といえば わかろうとすること自体が 自力
わからないままそのままと言われれば 仏様の苦労も何も感じない・・・まま 大きな声で ただ 南無阿弥陀仏とのどが痛くなるほど となえさせてもらったけれども ただ 称えるだけの念仏。

目の前の懇ろなご教示すらも、当たり前のこととして軽く軽く考え、それを自分の頭で理解しようとしたり、自分の聞き方や感じ方だけに焦点をあてて、それが聞法の大問題だと錯覚しているのだ。

本当にこの通りです。
あんなに時間をかけていただいたのに 本当に申し訳ない思いです


投稿: kawa | 2009年5月15日 (金) 23:58

 kawaさん、ようこそ。
 遠路、知らないところに、よくお参りくださいましたね。

>本当にこの通りです。
>あんなに時間をかけていただいたのに 本当に申し訳ない
>思いです

 いえ、いえ。そうして、間違いを知らせていただくしか、私達の聞法はないと、ぼくは思いますよ。 「本当にこのとおりだったー」と、気付かせていただたことが、尊いんじゃないかなーと。
 
 ところで、特に気になるわけではありませんが、エチケットなので、他の方の実名をイニシャルに変更しておきますね。

投稿: かりもん | 2009年5月16日 (土) 01:16

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