尊いご催促
輪読法座は、人数は少なかったけれど、永代経法座当番役の京都支部や大阪の方ばかりだったので、かなり詳しい感想や味わいが出て有り難かった。ちょっと心境が開けてきた方や、聞き方が変わった方もあったようだ。もちろん、これまで同様、頭を抱えている方もあり、その心境はさまざまである。また、ご法話や信仰座談会だけでなく、お世話役の当番ひとつでも、さまざまな味わいがあったようだ。同時に、人間同士の葛藤や軋轢を感じた方がおられたという話しも少し耳にした。
確かに、仏法のお手伝いとはいえ、我良し、我が身かわいいの我執いっぱいの凡夫同士の仕事である。3日間のお手伝いは、きれいごとだけではすなまい。熱心なあまりいろいろとぶつかることもある。それとて、実際に法座に出、そして身をかけて聞かせていただいた証だからこそ、尊いとも思える。
ただし、自分の思い通りならなかったといって、そのことで怒り、苦しみの煩悩に覆われて、その自らの怒りや愚痴を持て余して、周りの人にまき散らし、結局、自らも、そして他をも傷つけるだけに終始するのでは、あまりにも寂しすぎる。
だって、共にこれ凡夫のみだもの。
もちろん、仏法や念仏は自らの煩悩を浄化する道具ではない。また、煩悩具足の身をきれいにする必要もない。そこに力を入れたり、賢善精進の相に気付かず、自らのを知らぬ間によしとすることほど、恐ろしいものはない。
とはいっても、造悪無碍のように、「それもお許し」「愚痴が凡夫の姿」と、まったく三毒の感情や煩悩のままに、口に出し、振る舞うことが、如来様のお心にかなっているとはけっして思えない。親鸞さまが戒められているとおり、万能薬があるからといって、好んで毒を飲むことはないのである。
「機を見れば どこをとらえて 正定聚
法にむかえば うれしはずかし」
せっかく、尊い御名をお聞かせに預かったのである。ただ自性の煩悩に100%覆われ、捕らわれて、一喜一憂し終始しているだけでは、勿体ない。ましてや、念仏が響き渡る尊いみ仏の御座に連ねさせてもらったのである。もし、ご法に向い、お念仏に向かったならば、他人のことではない。まさに、この我良しのわが身こそが、実は虚仮不実の姿だったと知らされたならば、ただご法の尊さ、有り難さを仰ぐばかりではないだろうか。
常に、いま、いまのところで、ご法を仰ぎ、法に帰らせていたたく。もしそうならないのなら、かびのはえた過去形の喜びに固執し、自力建立の信を握っているのではないかと、お互いが我が身の信を振り替えてみる、実は尊いご催促ではないだろうか。
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