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念仏循環

  永代経法座のあった週末は、華光会館の輪読法座と、広島支部法座が続いた。

 広島では、永代経法座でのご法話をもとに、多少、加えたり、はしったりの加減をして、お話させてもらった。

 ならば、永代経法座のご満座のような法話になったかというと、やはり、それは一回、一回ごとに違う。会場も違えば、聴衆も違うのである。

 一度かぎりのライブ感、緊迫感も大切だし、2度、3度と重ねるうちに、話す要点も明確になり、より煉れてきて、うまく伝えられる時もあるが、やはり法話もまた生きものなのである。

 たとえば、会場。みんなが机の前に、かしこまっていると、ちょっとした講演会か、勉強会のような風情になる。子供が騒いだり、出入れが激しいと、みんなそのことに気を取られることもある。
 その点、華光会館の道場ほど、ご法話がやり易い場所はない。
 華光同人の念力で荘厳されているのだから。

 そして、説き手の体調や心境も影響するが、聞き手の姿勢や態度もかなり大切だ。普通に考えてもらえればいいが、たとえば、義理参りで、最初から私語があったり、居眠りばかりのところで、熱のはいった話をするのはちょっと難しいだろう。

 もちろん、広島の方々は、熱心に集中してご聴聞してくださる。けっして、居眠りもしない……というとウソになる。次ぎの座談会に備えて、法話でリラックスして体を休めるもの大切だものー。

 それはともかく、皆さん、熱心に皆勤され、真面目に聞いてくださるのはとても有り難い。ただ、ちょっと自分の信仰(もしかすると自分自身に)自信をもてないのか、それとも、奥ゆかしく上品なのか、相対、遠慮がちで、大人しめの方が多いようだ。でも、それを差し引いても、ちょっと足りないなーと感じているものがある。

 それが、法座の最中のお念仏の声である。

 これまで別院の法話や勉強会にかなり熱心だった方が、いま常連で参加してくださっている。その方が、華光会の法話テープを注文されて、今回、一言おっしゃった。先生方の熱のこもった法話もそうだが、それ以上に、聴衆の皆さんの念仏の声が響いていることに、驚かれていたのである。今回の永代経にしても、皆さん方の称名念仏の響きに、大いに励まされてご法話をさせてもらえたというのが、正直なところである。

 これには、外の会場という制限もある。高山や日高支部のような家庭法座で、しかも昔からの法座の伝統のある地域と、東京支部のように、外の会場で、雑多な人達が集う場所での制約もあろう。半日の一座だけの法座と、3日間のご満座の法座というのも、大きく左右しているのも事実だ。それにしても、泣き声はあっても、お念仏の声はあまり大きいとはいえないのは、やはりお育てのせいではないだろうか。

 コミニケーション・ダンスということを聞いたことがある。カウンセリングでも、聞き手と、伝え手のコミニケーションがうまくいっているときは、お互いの体が(小さな部分が)共鳴しあって、それをビデオで分析すると、さながら息の合ったダンスを踊っているかのように見えるのだそうだ。コミニケーションとは、単なる言葉のキャッチボールではないのである。

 それは如来様と凡夫の上でも同じである。
 仏法讃嘆のコミニケーションの媒体となるものが、念仏の声なのだ。この如来招喚の勅命は、親が子を呼ぶ大悲の呼び聲であると共に、子が親を慕う声でもあるのだ。

 有り難いにつけ、尊いにつけ、はずかしいにつけ、また何もないにつけて、わが声帯を震わせ、お念仏をさせてもらう。そして、そのお念仏をまたわが耳でお聞かせに預かり、また声に出して称名させてもらう。念仏の循環である。

 臭い、臭い煩悩具足のこの身に、勿体なくもお念仏が薫習(くんじゅう)される、匂いづけさせてもらうである。

 まさに、称名念仏に育てられていくのだ。

 「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

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