如来に統一される(2)
前項の「如来に統一される」のところの補足です。メールで、「その言葉は『仏敵』のどこにありますか」と尋ねられたので、ちょっと一言。
伊藤康善先生の求道物語『仏敵』第九章(3)にある一文。先生が深信に徹底された直後に、あらためて野口道場の念仏者たちとの出会いを称賛されているところである。
ここでの、「私」とは伊藤康善先生、「よい同行の団体」とは、およし同行が育てた野口道場の念仏者の集いである。
「 私は思った。仏法は法の威力によって広まるものである。中間の善知識(ぜんぢしき)というものは、月を指さす指として必要であるが、親鸞教が普及した結果、善知識がかえって如来の仕事を邪魔しているのが、教界(きょうかい)の現状だ。教える人が詭弁(きべん)の信仰で固まっていると、教えられる者は詭弁を弄(ろう)することが信仰だと思う。教える人が学者であると、学問的な理屈を並べることが信仰だと思う。教える人が法体募(ほったいづの)りで、法のありがたみばかり説いていれば、そういうことが信心だと思う。また反対に、教える者が罪悪の自覚ばかり言うていると、悪人と知ったのが信仰だと思う。その他、念仏にとらわれ、感情にとらわれ、泣いたのが信心であったり、喜んだのが信心であったり、行儀の正しいのが信心であったりするが、いずれも根本の眼目を忘れている。そうして人の態度や言葉ばかりを批評する。安心や異安心の問題で騒ぐのは、この連中だ。他人から批評されて感情の動揺を感ずるのは、他人の尻をついて歩いているからだ。鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるもなかれ! とは、うまいことを言っている。
この同行たちは少なくとも鶏口であるが、牛後の人ではない。口々に言うことが違っているが、しかし大きな点は如来に統一されている。他の法席では、如来を見ずに善知識ばかりが見えるが、ここでは知識は見えずに如来ばかりが見える。中心は如来様で、人間の言葉は単なる発声器に過ぎない。如来はこうだとか、ああだとか理屈をこねる人がないだけに、如来様が全体に輝いている。それらの言葉によって自己を証明され、反省され、沈黙のうちに会得する--私はよい同行の団体を知ったと思って喜んだ。」
そして、この働きそのものを、華光と名付けられたのではないでしょうか。
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