「十分に機能する人間」
真カ研は、4月は総会で、5月から新年度の月例研究会のスタートをさせた。
月例会の担当を初めてかなり立つ。いろいろなことを試みたが、ここ数年は、ロージャズ論文の輪読を始めている。このところテキストの探しがたいへんだ。あまり難しくなく、かつ1年(10回)で読めて、それでいて内容のあるものとなるとなかなか探しずらい。面白くないと、続かないし、いつも頭を悩ませる。
今年は、パーソナリティーや治療理論から少し離れて、思想的な一面に目を向けることにした。最初、提案したのは、1年で読むに長いが、ロージャズと、「我と汝」の哲学者マルチン・ブーバーの対話だ。ロージャズは、神学者、パウル・ティリッヒ、行動主義心理学のスキナー、「暗黙知の次元」で有名なマイケル・パランニィーや、実存心理学者のロロ・メイなどの一流どころとの対談があるそうだが、殊にブーバーとの対談は有名だ。ただ、いま一つ二人の対話が噛み合っていないが、それを含めて意味はある。
ところが、最近、このときの対話を、これまでの英語版での削除や間違い部分を訂正した日本語訳で、削除部分は当然のこと、沈黙、言いよどみ、言い直し、ためいきを含め、日本語訳の誤りも指摘した完全版の逐語録と、その一々の詳細な解説を含めた『ブーバー-ロジャーズ 対話』が刊行されているのだ。さっそく、購入してみると、なかなか面白い。でも、いまの月例会で取り上げるには、かなり詳細な研究になるので、結局、今回は見送ることにした。
それでも、彼の人間観の一端に触れたかったので、『十分に機能している人間』か、『自己が真の自己自身であるということ』から読み勧めることにして準備をし、結局、今年は前者から読むことにした。
機能的人間という、何か社会に適応する合理的で、効率的な機械的な人間のようイメージがあるが、ここではまったく逆であることは、冒頭読んだだけでわかる。そのことは、おいおいと触れていくことになるが、
要は、「心理療法が最大限に成功するならば、そこにはどんな特徴をもった人間が生まれるのか」をテーマに、治療過程での理論的な究極の姿、漸近的な理想像を、「十分に機能している人間」と表現しているのだ。それは、単に社会的な適応でも、病的から正常への移項でも、お題目の精神的な健康増進といった、なんらかの社会的な外部や権威で規定、評価で決まるものではなく、自らが、自分自身の経験に開かれ、自己の有機体を信頼でき、つまり自らに与えられた実現傾向を十分に行き来ている人間を意味しているのである。
1回目ということで、新人も多くていろいろと感銘を受ける言葉もあった。何よりも、その冒頭に触れただけで、社会的な評価ばかりに依存し、成果や結果ばかりを求め、自己否定的で、劣等感にさいなまれている、恒常的な不一致状態のいまの社会や私自身の視線が、次元の異なる水平へと導かれるようで、なんとなく勇気が湧いてくるから、不思議なのだ。
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