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『レイチェルの結婚』

 『レイチェルの結婚』。これは面白かった。見どころもたくさんある。

Rachelkekkon_01  カメラワークも、役者のセリフもとても自然で、編集もかなりラフに仕上げている。まるでドキャメンタリーか、ホームビデオを見ているかのよう錯覚をおぼえるシーンもある。

 郊外で裕福に暮らすある一家の結婚式の前後を、家族の日常の出来事を切り取った作品。結婚式という人生最大のハレの舞台も、所詮、悩み多き日常生活の延長であり、むしろ日頃の問題がデフォルメして表出してくるのかもしれない。そして、その宴の後も、終わりなき日常は続くのである。

 しかし、この日常が普通でないのだ。タイトルにある結婚するレイチェルが主役ではなく、その妹で、薬物中毒のキムアン・ハサウェイ(アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた名演)が主人公。これがたいへんなのだ。心の病や薬物やアル中に対して、常に家族は温かく接し、支えるのは当たり前だと、言うことは易い。でも、愛とやさしさ、憎しみや悲しみが常に交差しあい、彼女も、周りもクタクタになっていく。まさに家族には修羅場の連続だ。見えそうで見えない出口を求めて、ただ接し続けねばならないのだから。

 物語は、姉レイチェルの結婚式に出席するためキムが、薬物治療の施設から出所するところから始まるが、精神的に不安定な彼女は、ちょっとして態度や言葉に敏感で、すぐに傷つき、家族をも傷つける厄介な存在だ。みな、腫れ物を触るかのように彼女に接している。特に、やさしく食べ物のことで気づかうしかない父親の姿が、なんともいえない。    

 ドラッグ中毒の彼女は、場所も考えず煙草を吸いまくり、汚い言葉を発してブチギれる…。レイチェルの結婚を祝うため集た人々とのディナーの席でも、ひとり斜に構え、みんなを緊張させている。次ぎの瞬間には、ブチギれて、何か厄介を起こすのではないかという緊迫感を常に醸し出しているのである。それでいて、「こうなったのは家族のせいだ」と、心の傷を家族に転嫁し、「孤独」を嘆き続けている。当然、家のなかに彼女の居場所はない(と自分自身で決めている)。まったく自己中心の極みであるが、それでも、家族への反発の裏には、愛されたいという強い甘えが交差していて、見るものの心まで痛々しくするのである。

 そして、物語がすすむ内に、レイチェルも、父親も、再婚した妻も、そして、いまひとりで暮らす実母(デブラ・ウィンガー)にも、そして二人の離婚の原因も、彼女が引き起こした一家に襲った悲劇の事件の癒えない傷を背負い続けて生きていることがわかる。みな悲しい人々なのである。登場することはないが、家族の心のなかにすむこの亡霊こそが、家族をバラバラにし、ある意味つなぎ止めているのかもしれない。これが何かが少しずつ明らかになるところも、とてもよかった。

 家族の辛辣な緊張を容赦なく描く一方で、並行して結婚を祝うためのパーティー描写もかなり時間が割かれている。普通の映画なら、ここでの余興はワンポイントか、添え物にすぎないのに、温かく、またウィットに富んだコメントと、実際のミュージシャンが歌い、演奏し、そして楽しくダンスに興じていく。ここも、丁寧な描写というより、ラフなカメラワークと編集で、まるでその場に参加しているかのような錯覚をおぼえさせる。インド人との結婚式での風習や、民族音楽、ダンスなども楽しめるのであるが、この多種多様性もまた、現代のアメリカを象徴している。

 リアリティのある深刻で殺伐とした不協和音の家族問題と、結婚を祝福するための集いでの楽しく多彩な音楽。一見、水と油のような違和感も感じつつ、この水と油のままで、同居する不思議さを味わった。

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