鑑真和上
「若葉して おん目の雫 拭はばや」
俳聖芭蕉が鑑真和上に対座したのは、和上生誕千年の年に当たるという。それから、320年がたった。ぼくはアクリルガラス越しに、和上の正面に立った。
ほんの短時間だが、他に拝観者はいない。
脚上に禅定印を結び、結跏趺坐として静座されるお姿は、対峙するものを包み込む。深遠で、静寂そのもののお姿。それにしても、この圧倒的な存在感をなんと表現すればいいのだろうか。胸が熱くなる。いまなお、その感銘が蘇るほどだ。
他にも『国宝・鑑真和上展』のことで触れたかったが、この日本最古の肖像彫刻にして、最高傑作を前に、圧倒された。
それで、図録の解説などをもとに、和上の渡日を中心にその功績を簡単に記すことにした。
日本から留学僧、栄叡と普照から、授戒大師としての渡日要請を受けた和上は、弟子たちに問いかけた。しかし、誰も渡日を承諾しない。すると、和上は、
「これは法事のためなり。何ぞ身命を惜まん。諸人ゆかずば、我すなわちゆくのみ」と、喝破し、自らの渡日を決意される。国法を犯し、命をかけての強い決意は、すべて正法弘通のためであった。
最初の渡海企図は、743年夏のことだが、彼の身を按じた弟子の偽の密告により、日本僧は追放されて、失敗する。
第2次は、744年1月。周到な準備での出航だったが、激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。
再度、出航を企てたが、やはり鑑真の渡日を惜しむ弟子の密告により、栄叡が逮捕され、第3次も失敗。
その後、江蘇・浙江からの出航を諦め、福州から出発を計画する。この道程での雪中行の天台山参拝は困難を極めたという。しかし、この時も弟子が、安否を気遣い渡航阻止を役人へ訴え、第4次も失敗。
748年、栄叡が、またも鑑真を訪れ懇願。鑑真は5回目の渡日を決意する。
6月に出航。舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に出航。しかし激しい暴風で、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着。台湾を超え、ベトナム近くまで流れたのである。しばらくかの地に留まるも、この帰上の旅は過酷で、途中で栄叡が死去。鑑真自身も両眼を失明(完全に失明しなかったという説もある)。
度重なる密告と弾圧、そして悪天候と過酷な道程。しかし彼の渡日を果たす決意は変わらなかったが、時の玄宗皇帝は彼の才能を惜しみ許可をしない。そのため、753年に遣唐使の帰日には、同乗を拒否されるが、密かに乗船し、6度目の渡航。またしても暴風が襲い、大使船は南方まで漂流したが、彼の乗船した副使船は、沖縄、奄美や屋久島も経由して、12月20日に薩摩坊津に無事到着した。
苦難の6度に渡る渡航、実に12年の歳月を経ていた。時に和上67歳。授戒大師として、仏舎利を携えての悲願の訪日だった。
そして、東大寺で、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授け、日本の登壇授戒がここに本格的に始まる。東大寺戒壇院が生まれ、その後、東西に、大宰府観世音寺及び下野国薬師寺に戒壇が設置されて、戒律制度が整備されていく。
日本国での仏教(正法)繁盛の礎が、ここに築かれるのである。
ここまで書くと、学生時代に読んだきりの、『天平の甍』を再読したくなった。
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