1ケ月以上遅れてでの華光日曜礼拝の「花祭り」だ。4月8日に花祭りの記事を書いてるので、それもまた参照してもらえばいいだろう。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-eb25.html
5月に開くには、それになりの理由があった。
4月8日は新学期が始まったばかりで、卒業生や新入生の出入りが多く、メンバーが入れ代わる。まだ、日曜学校と言われていころは、人数もたいへん多く、入学や進級の行事もやっていた。それに、ぼくが先生役の時には、花祭りなどの主な行事には、80、90名以上の子供が参加してくれた。普段でも、30、40名の常連がいたので、2ケ月前から、アトラクションの準備に入るのだ。先生はもちろん、子供たちも、低、中、高の3つのグループに分かれて、人形劇や影絵、歌や演劇と、学芸会並に頑張ったのがそれで、5月の連休明けの日曜日にお釈迦さまのお誕生をお祝いすることになったのである。
最近は、地域で、子供たちが急激に減少したこともあるが、学習塾やスポーツ教室も忙しく、それも昔のこととなった。
それでも、今日は、総勢40名ほどの参加があって、なかなか賑やか。
1年に一度、日曜礼拝でご法話を担当することになっている。
インド仏跡を回ったので、子供用に30分程度にスライドを編集し直して、法話とスライドを合わせてみてもらうつもりでいたが、七歩の保育園の関係の子供たちが多くて、勤行のあと、態勢を崩すと、ちょっと騒がしくなる恐れがあったので、幼児に退屈に思えたので、今回は当日の朝、止めることにした。子供の半数以上が、かわいい保育園児なのだ。
シンプルにお釈迦様のお誕生の逸話をお話をした。特に、せっかく裕福な王子様に生まれたのに、すべてを捨てて、出家されたののは何故なのか。それが、お誕生の時に、七歩の歩みに深い意味がある。もちろん、六道を出る。目に見える世界だけがほんとうのように思うけれども、心眼で見える化生世界もあるのだ。その迷いの世界を、昿劫より経巡ってきたのである。その迷いを一歩出る。その一歩みに深い意味があるのである。
法話のあとで、時間が少なかったが、大人の座談会にも出席した。ゆうこの大学院の関係の学生が3、4名に参加してくれたり、仏青の若手も多い。将来、僧侶になり、寺院を継承するであろう彼らの聞法観、寺院観や心境に対して、祖母世代の方が、「おばあちゃんからの苦言」を呈してくださったのが、有り難かった。
せっかく、仏法に出会った、お聞かせに預かっているのだ。なんとなくわかるのでも、癒されるのでも、ただ有り難いのでもなく、ここの水際をしっかり聞かせてもらわないと、いつのまにか、じんわり有り難いものだけを、勉強して覚えた教学だけを、取り込むだけの聞法では、けっきょく、「決定」する変わり目がぼやけるばかりだ。
そして、知らぬ間に、伝道や布教、門徒の教化こそが、僧侶やお寺の役割、最重要課題にすり変わっても、まったく疑問とはならない。周りの寺院との付き合い、檀家との付き合い、葬儀屋との付き合いなどなど、寺院経営も、それなりに尊く、また同時に世俗的な苦悩も大きいからだ。
でも、問題はそれ以前のところである。よくよく考えれば、「僧侶である、大学院で専門に勉強した、寺院に生まれた」以前に、まず迷いの凡夫として人間に生まれたきた以上、一個の迷える凡夫として、頭を垂れて道を求めていかねばならないのだ。そして「求」める以上は、わたしの上にはっきりと「成」る境地が実現することを教えていただくのである。そうぼくが明言できるのでは、一重に、その道を先に歩く先達に出会わせてもらい、そこひとつを懇ろにご教示いただいたおかげにほかならない。
華光でご聴聞していると、至極、当たり前のことであるが、残念ながら、一般のご門徒やお寺さんには、ここにもうひとつ、「ほんとうなのか」という警戒心や、「他力なので求める必要はないのでなはいか」「わかったのは自力ではないか」といった疑念、さらには「一生ハッキリしないまま、聞いていくのが真宗だ」などなどの迷いで、自己の後生の解決に心を定めて聞法する以前のところで、戸惑い、悩んでいく方が多いのだ。(かなり真面目な方だけれど)
それが、いま、「求」めれば「成」る世界があるぞと、実際に喜んでいる人達に出会うという大宝が目の前にしたのだ。ここで退いたら、あまりにも勿体ない。
先生方の楽しい劇を見たあとで、慰労会兼懇親会にも16名の参加者があった。ここ数年とはがらりと違った顔ぶれの人達だ。大方が、これからご縁を結んでいこうという人達かもしれない。
しかし、この先は、面々の御はからいで、どう進むかはまだ定かではない。
ともすれば、なんとなく楽な方向へ、安易な安定の方向で、真宗寺院の大方は年を経てきた。その意味で、将来ある若い僧侶たちが、ここに疑問をもち、自身の後生の一大事として求道することに心を定めてくれることを念願してやまない。求めれば、必ず得られる境地がある。それが人ごとではなく、わが上に実現してくる。たとえ雨夜の星のごときであっても、そのひとりひとりのめざめの連鎖にしか、真宗の未来はないと思っているのだ。