いま、ここに生きているんだよ!!
「ところで、先生は獲信されていますか」
ああ、またこの質問。いまに始まったことじゃないけれど、ある会の方から、たびたびこの手の話題が出る。正直、即答することが煩わしくなってくる。いまの法話を聞いてそれが感じられない人に、「ハイ」と答えれば満足してもらえるのかなー。
広島支部は、さすが安芸門徒で、はじめてのご縁の方は、本山の関係とか、真宗カウンセリングの関係者が多いが、今回、初めてインターネットで、何十年もの現役会員が参加された。彼の所属している会では、会長先生以外に獲信者はないという。それでも、勧誘のためなら方便として、「獲信している」とウソはつくようだ。これは、ぼくの学生時代の実際に体験した実話だ。まあ、それはそれで面白い昔話もあるが、いまはいいだろう。
それにしても、これらの人達は、こんなにも信心、というより私の上の実感、阿弥陀様の声が聞こえるのか、ハッキリした体験がおこるのか、不思議を握って「○○は獲信した」とか「信心決定した」という一点だけに固執されているのだろう。たぶん、そうでないと絶対の幸福は得らず、無間地獄で昿劫も果てし無く苦しまねばならいことを恐れておられるのだろう。それで せっかくのご法を聞かずに、せっせせっせと、そのための方法論を求めておられるのだ。まるで、如来さまから下賜される「信心」という、私が掴める実体や対象があるかのように…。
でももし、そんなものがあったとして、またそれが清浄真実だとしても、この泥凡夫が握った瞬間に、汚い汚い手垢でまみれることがわからないのかなー。求道カルタじゃないけれど、「握ったまんま、落ちていく」だけである。
それで、逆に質問した。「では、その先生が獲信しているのが、なぜ未信のあなたに分かるの?」と。なるほど、それなりに答えがあるわけか。その後も、凡夫にハッキリするのが深心に固執されていた。でも、私の上にハッキリしたという話ではなく、教学の上での机上の話なのだ。
でもね、結局のところ、そんなことは軽々に凡夫にはわかるはずがないんだよ。いや、「凡夫にもハッキリするのが深信でしょう。善導さまは「金剛堅固で、破壊しない」と断言されている」と。確かにそうだ。でも、それが私の上の真実信心であるから、私が「信心を得ました」と絶叫できたら、それでいいのか? という問題とは別なのだ。
そんなところに留まっていないで、まず、ほんとうに申し訳ないことに、「我」のところでしか聴聞をしていない、ガリガリ亡者の私の姿に早く気付かせてもらうしかない。信心、獲信は横に置いておいていいから、ほんとうの自分の実相、真の姿を聞かせてももらのである。
そして、その私にかけられた、昿劫よりいまここに、こんなにも確かに働き続けている阿弥陀様のいのちそのもものを、いま、この私のところで聞かせてもらうしかないのである。いま、この私の上に、阿弥陀様のいのちが息づいてるのだ。それを聞かないで、頭で作った教学で、その生き生き躍動するいのちを、「ああじゃろうか、こうじゃろうか」とこねくり回している愚を知らされる。何十年聞いてきたのも、そんなちっぽけなところに、阿弥陀様も、仏法もないのだ。それを自力のはからいという。そんなものは捨てるしかない。用事がないと聞いたら、惜しくても捨てるのだ。
あの時体験した、得た、実感した、念仏が吹き出した、ハッキリしたのは、もちろん信一念の原点にあるのだけれども、そんな過去形をひっぱりだしたり、「獲信しました!」という自分の上の実感的な体験だけを金科玉条にせねばならない「信心」のほうが、ぼくには、かなり疑問に感じる、このごろである。
そこを捨てて、いまの、裸の自分で「後生は?」と勝負できないような自力建立の信心だから、惜しくてそれも捨てられない。だから、分かってもらろう、大事にしよう、(先生や同行に)認めてもらうとなるのだ。
獲信(大方は、凡夫の上の感情的な実感、超常的な体験程度では、なんとも貧しくお粗末なものだけど)こそが、究極のゴールのように思うけれど、そうじゃない。ある先生の言葉じゃないけれど、信心は二番手、仏智が一番手なのだ。
そう、その仏智は、凡夫の腐れきったこの頭や心で、わかったり捕まえられたりするものじゃない。いまここに生きている、生きものなんだよ。だから、そのあついあつい血潮のおかげで、この冷酷で無感動で狂るいきっている身にも、いのちが躍動してくるのだ。ぜーんぶ、他力様のおひとりお働きがあったればこそ、ずっと他所事を聞いてきた、私ひとりのそのご苦労の賜物を聞かせてもらったならば、私は「信心得ました」なんて、自分の手柄のように胸を張っては言えない。ただ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。それしかないよなー。
でもね、そうは聞いても、地獄行きの自分も、阿弥陀様の生きた働きもお留守の時は、「やはりそう実感できるんですね。はやくそんな身になりたいですわ」と、また自力を募らせていく。そうして迷ってきて、そしてまた迷っていくのですがね。
正しいと決めつけてきたことを、一度捨てて、これまで一度もしたことがなかった、ほんとうに阿弥陀様と向き合ってみられたらどうでしょうかね。
鬼が出るか、蛇が出るかはわからないけどね。たった一度でいいから。
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コメント
!!から始まって、最後まで勢いがある文章で良かったです。エネルギーを感じました。(偉そうだが(;;;´Д`)ゝ)
投稿: ねこ丸 | 2009年4月28日 (火) 00:37
耳が痛いですが、こうして先生から教えていただける
こと、本当に幸せだなぁと思います。
ありがとうございます。
投稿: Anne | 2009年4月28日 (火) 07:30
>「獲信されていますか」
私は質問さえせずに他の方々の信心の有無を断定していました。聞かせてもらうためにその場にいるのに、かたっぱしから否定ありきで否定していく。お同行からの阿弥陀さまからの真実の声を確かでない狂った私の耳が聞きぞこなって行く。私は阿弥陀様より偉かった。今、上記の質問をされたら、私はなんて答えるのか。頭を下げて泣くしかないですね。南無阿弥陀仏。
投稿: どんべえ | 2009年4月28日 (火) 10:12
なんまんだぶつ
なんまんだぶつ
なんまんだぶつ
また一茶じいさんの句で恐縮ですが
春立つや愚の上にまた愚に還る
なんまんだぶつ
投稿: はらほろひれはれ | 2009年4月28日 (火) 19:27
皆さん、いろいろとコメント、ありがとう。この勢いで、永代経に臨めそうかなー。
ところで、補足ですが、この彼は、率直な人で、なかなか好感が持てました。
別に、普通に答えてもよかったのだけれども、あまりにも「露、ちりほども疑いがなくなる」とか、ハッキリ、スッキリと自覚するところどかりに、正論で強くこだわっておられたので、せっかく尊いご縁がそれでは勿体ない、そこを脱してもらいたいので、あえて強くお話した次第です。
「後生?」と、信未信の沙汰をすることと、外にある対象と眺めて、「もらった」とか「もらってない」という質問することとは、はっきり別物だと感じるからです。
自分に取り込まないで、ご法に帰していく。そしてその身にならせてもらったことが有り難いです。若存若亡の時は、がっちり護らないと不安だったものね。
いまは、何も持たずに出かけられる。ほんに気楽もなのです。
投稿: かりもん | 2009年4月29日 (水) 01:02