『いのちの作法』~沢内「生命行政」を継ぐ者たち~
朝イチの京都シネマで、『いのちの作法』~沢内「生命行政」を継ぐ者たち~を観る。
映画といっても、ドキュメンタリーの文化映画だ。
岩手と秋田の県境の旧沢内村。標高1,000m級の険しい山々に囲まれた盆地にあって、冬には、2m以上の積雪がある豪雪地帯だ。農林業が主要な産業で、貧困、そして多病・早死と三重苦に、ただ耐え諦めて生きる以外に術がなかった村民たち。高度成長期に取り残さそうな無医村に医者を呼び、医療や福祉に力をいれ、昭和35年には日本で最初の老人医療費無償化を実行し、その2年後は、やはり日本で最初に、乳児死亡率ゼロを達成したのだ。「住民の生命を守るためには、私の生命をかけよう」と宣言した当時の深沢村長のもと、「生命尊重」の理念のもとにした地域づくりが実現していくのである。
6,000名ほどの小さな器だから実現できといえばそれまでだが、しかし、トップが変わると、行政もこんなにも温かく血が通うのかという希望がもてる気がした。
しかも、この映画の素晴らしいところは、「昔、素晴らしい偉人がいました」という過去を称賛することではない点だ。サブタイトルが示すように、その意志や理念を、現在進行形で「継ぐ者たち」の、若手の取り組みを映しだしているである。時代は移つり、村は合併した。きっと厳しくなっていることだろう。でも、その根っこのところで、行政トップが示した情熱、信念や深い理念が、隅々に息づいているのである。
ところで、低年齢の凶悪事件がおこると、行政や教育界のトップが、スローガンのように「いのちを大切にしよう」と、いのちの尊厳を訴えるが、そのことが建前のウソであることは、みな分かっている。この映画のなかで、山間部に生きる人たちは、またぎを生業としていたが、児童養護施設の子供たちと、うさぎ狩りをするシーンがある。撃ったうさぎを子供たちの目の前で捌いていく。血も、内蔵も見せる。興味深げに見るものもいれば、顔をしかめる子もいる。実は、わたしのいのちを大切にするには、他の生きたいのちを奪わねばならないのだ。その意味では、わたしが生きている以上は、絶対に「いのちを大切」することなどは出来ないのである。まず、そのことをごまかさずに、キッチリと見ない限り、ほんとう意味で、いのちを大切にすることなどできないのだ。
登場する人々は、特養の高齢者、知的障がい者、そして、都会で虐待を受けた児童養護施設の子供たち。この僻地の村がそうであるように、さらに社会的な弱者ばかりが登場する。しかし、その年輪を経た穏やかな顔や、子供たちの輝く笑顔が映し出されるだけなのに、なぜか、何度も涙が滲み出てきた。険しいなからも美しい山々と、清流に囲まれた自然豊かなこの僻地は、高度成長にも、グローバリゼーション波にも(一見)無縁の、いわば便利さや効率、成果とは対極にあるといってもいい。しかし、ここには、社会地域全体で、人間を孤立させないという温かさや懐の深さがあるからだ。
これもまた、スローガンだけの「人間がみな平等だ」とか「人間尊重」というきれいごとを並べて、ただ予算だけをつぎ込んだ高級な福祉ではなく、その生きた人々の厳しい現実を、ごまかさずにキッチリと受け止める眼差しがあるのだ。しかし、現実の多くは、目をつぶり、無理だと諦めている。だから、定額給付金と称して、一律に税金をばら蒔くという、なんともお粗末な政治しかできないのである。
映画では、息をのむほどの豊かな美しい大自然が映し出している。しかし、それは人々に恵みや安らぎを与えるだけではなく、険しい厳しさや、時には試練も与えている。しかし、そうだからこそ、同時に、そこに畏敬の念も生まれて来るのである。つまりきれいごとの映画ようで、きれいごとにすまない深さを感じたのだ。
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