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2009年4月の26件の記事

お引っ越し

Img_5435   3月一杯で、七の保育園が仮校舎に引っ越した。ちょうど1ケ月になる。

 東寺の境内地にあって、なかなかImg_5638 味のある木造の建物だが、安全性の老朽化には勝てない。来年 の3月まで、まる1年かけて新築校舎になる。結局、うちの子は 卒園なので、たぶん、卒園式につかう程度で、その恩恵はうけられないようだ。(左が取り壊しての校舎、右が仮住まいの校舎)

 その間、まっすぐに東に一㎞ほどいった西山(せいざん)派の元Img_5425 幼稚園の校舎での保育に移動する。ちょっと家から遠くなった。ちょうど羅城門跡をへて、西寺跡の近くになる。いまは東寺は現存するが、羅城門も、西寺Img_5428_2 も、ただ石碑があるだけだ。東寺から、西寺への引っ越しである。以前のところより狭いが、こんな近くで手頃を校舎が見つかったのは、僥倖だといっていい。手間な工事なんかやめて、「もうここでもいいんじゃないの」と思った。

Img_5431  もちろん、取り壊しや新築工事もたいへんだが、時間がかかりそうな厄介な問題がひとつある。地下に眠る埋蔵文化財である。歴史の宝庫といっていい東寺の境内地にあるのだ。何も出ないわけがなく、すでに試掘段階でも、文化財が発掘さ れたそうである。妙なことだが、Img_5422歴史的な発見がないことを祈ろう。

 3月の学期末、古い校舎を取り壊すにあたり、子供たちがお別れに、ペンキで校舎に思い切り絵を描いた。誰もがImg_5420_3 子供の時に、壁やタンスに絵を描いて叱れた経験があるだろう。それが、使っている建物の壁や床に、しかもペンキで絵が描けるのである。なかなか出来ない、楽しい貴重な経験をさせてもらったようだ。年少の子は年少なりに仕上がり、また年長になるとかなりく描いていて感心させられた。

 数々の思い出と共に、校舎はもう取り壊されている。

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『ポチの告白』

   1週間ほKokuhakuど前に、みなみ会館で『ボチの告白』を観た。たぶん、娯楽大作を扱う普通の劇場で は公開されないだろう。よく公安から圧力がかからなったなという内容。同人の中にも警官や警察関係の仕事をされている方もおられるが、ご覧にならない方がよい。血圧が上がるだけだ。もっとも、大方の警官は、こんな映画とは無縁だろう。

 約200分(3時間20分)の大作。でも、まったくあきない。その迫力、リアリティさに衝撃を受けた。時には、「まさかそこまで」と思いたい内容(もちろん、フィクションとして描かれている)だが、これまでの警察犯罪事件の実例を基に映画化されているのだ。しかも、外国特派員協会(よく話題の人のインタビューがあったことが放映れる)が、初めて全面協力をし、撮影には、警察署の雰囲気を出すために各地の地方自治体の庁舎が協力している(さすがに警察署の協力はない)。単なる興味本位の煽り作品ではない。

 警察犯罪事件の数々の実例を元に、公権力を使い非合法に営利を追求する組織犯罪集団の恐ろしい構造的な悪を描いている。犯罪を取り締まる立場の警官が、その組織防衛のためにしたことなら、たとえ違法性があっても犯罪として立件されることは少ないというのだ。カラ出張、カラ領収書、公金を横領した裏金づくり程度は当たり前。これは、どの役所でもつい最近まで続いている慣例だ。それを個人が流用せず、組織のためにプールしているのなら、実刑には問われなかったのだ。また職務にことかけたいたずらや過剰な暴力、必要悪としての暴力団や裏社会との取引。それらは、組織から逸脱した一部の警官が犯罪に手を染めるのではなく、組織に忠実で真面目な警官ほど、上官の不透明な命令(これまでの慣例なのだろう)にも、「絶対服従」の態度で従っていくのである。いわば、警察ぐるみで違法な蓄財ビジネスを、お国のために推進しているというのである。そしてその警官はみな全員家族なのだ。なじめば、これほど居心地のよい職場はない。しかし、時に、それが行き過ぎたり、マスコミにリークされて表沙汰になるなどのいざという時は、組織に対する忠誠心によって、自分ひとりがその泥を被るというわけだ。大方が、「元」警官による権力乱用の不祥事であって、あくまで一個人の犯罪に仕上げられていく…。

 彼らの根にある根源的な思いが、以下のようなセリフに現れているのではないか。

 「この国は絶対に逆らえないものが二つある。天皇陛下と警察だ」という、裏のルールを無視した中国人マアフィアに対する取り調べ中の言葉だ。

 そしてもうひとつ。巡回中のパトカーでの警官同士の会話。
 「俺たちは、命をかけて日本や国民を守ってやっているのだ。この程度のことをして悪いものか」…。

 ところで、タイトルの「ポチ」とは、組織に忠実なイヌとして、真面目で、実直な主人公の警官が、徐々に警察内部の犯罪に手を染め、知らぬまに変質し、最後には、忠実な「ボチ」として切り捨てられていく(もっとも彼自身もおいしい目も味わっている)哀れな姿を指している。この警官役の菅田俊が、画面いっぱいにその凄味、個性を発揮し、ラストの「ボチの告白」は、衝撃的でもあった。 

 しかも、この映画の面白さは、それだけではない。本来、行政から独立した権力機関であるはずの司法も、多くの場合、警察・検察の意向通りに裁判を進めることで、両者が癒着している点にある。

 さらに、公権力への監視・チェック機能を果たすはずのマスコミまでが、記者クラブ制度の中で警察と馴れ合い、独占的な情報提供を受ける形で、持ちつ持たれつ、なあなあで過ごしている。結局、権力の監視役のマスコミが、権力側の番犬に成り下がっているのだ。これは権力中枢の官邸や政治にしても同じ構造で、この日本独自の記者クラブ制度に批判的なフリーのジャーナリストや外国メディアが多いが、それがこの映画のひとつの推進役になっているのではないかとさえ思えた。

  古来、洋の東西を問わず、警察の腐敗や犯罪を描く映画やドラマは多い。しかし大方は、たとえ事実をもとに描いたとしても、フィクションというか脚色の色合いが強くて、結局、不祥事はあくまで一部の警官の特例であって、最後は良識あるヒーロー、ヒロインによって悪は駆逐され、「正義は勝つ」式の結末が多いものだ。

 だがこの映画で描かれる警察犯罪の気味悪さは、そこには正義も、諸悪の根源も存在しないことだ。映画の中では、出光元演じる彼の上司(とてもいい味が出ている)-警察署長にまで出世-が、黒幕ということになる。しかし、彼もまた忠実なボチの一人にすぎないことは明白だ。ただ先輩の慣例を受け、組織を防衛しながら、出世し、ウマイ汁の吸ってきただけなのである。ならば、この癒着体質中で、諸悪の根源はどこにあるのか。

 これはまさしく、警察に限らず閉鎖的な「ムラ」組織に充満している日本社会の体質ではないか。それが公権力の警察だからこそ、如実に体現しているといっていいのだろう。だからこそ恐ろしいのだ。

  どこまでが事実かどうかはともかくも、社会派娯楽大作としても、楽しめる作品だった。

「ポチの告白」オフィシャルサイト

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まもなく永代経法座

 永代経法要法座が迫ってきた。華光の永代経法要は、単なる先祖追善のためのものではない。この尊い念仏の教えを連続無窮のお働きでお伝えくださった、先輩同人・物故者のお徳を偲ぶと共に、ひとりひとりが後生の一大事の解決を真剣に問うための法座である。もちろん法要もあるが、7座のうち、毎日の昼座だけ。その勤行にしても、一同で声高らかに、聖典を読誦し、念仏を唱和するのであるが、一緒に大声で勤行することも、なかなか尊い体験である。中心は、法話と信仰座談会だ。すべての座で法話があり、法話のあとで、時間の許す限り先生方のグループに分かれての信仰座談会が持たれる。

  ところで、今回は7座のご法話に、7名の先生に担当いただくことになった。こんなことは珍しい。ただ、お一人の先生が、3月ごろから、何度も体調の不安を訴えてこられた。以前も、法話のあとで倒れられて、そのまま救急車で病院に搬送された方である。どうも心配で、「無理なら、やめておきましょうか」とお尋ねすると、不安とは裏腹に意欲はまんまんで、電話の最後は「楽しみにしいます」ということになっていた。

  それが、このところ静かになったなーと安心していたら、「体調不良で、欠席します」との連絡が、急に入った。こんな直前では、正直、困った。もう少し早めなら、若手講師にお願いできたが、急な代役を依頼するには時間が足りない。

  仕方ないので、法話の予定を多少動かして、ぼくが2座担当することにした。まったく予定外。なんとなく法話の構想はもっていたが、2座になったのと、その場所も(重複しないように)初めと終わりに変更。トップバッターをする予定がなかったので、ネリ直しが必要だ。時間がないので、ひとつは支部法座での法話を焼き直すつもりだが、このところの味わいを加えてもいいかもしれない。エンジンがかかるまでに時間がかかるので、ダラダラと長くならないことが肝要かなーとは思う。あとで座談会もあるしね。

 でも、その前に、まずは法座の準備だ。
 3日間とも、参詣者は多い。京都支部や仏青の皆さんのそうじも、明日から始まる。事務所でも、受付や諸連絡、買い物で準備に忙しくなっている。ぼくも、法話検討の前に、今日、明日で、法要次第や会議の案内状などの事務作業を片づけてしまうことにした。

「永代経法要法座」

5月2日(土) 13時半~17時 19時~21時半
  3日(日) 9時~12時 13時半~17時
                  19時~21時半
  4日(祝) 9時~12時 13時半~16時半(終) 

  詳しくは、以下のHPでご確認ください。すでに宿泊は締め切っていますが、宿を各自で探すか、通い、また1日、1座だけのご参加も大歓迎!

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/05/eitaikyo2009-5.htm

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いま、ここに生きているんだよ!!

 「ところで、先生は獲信されていますか」

 ああ、またこの質問。いまに始まったことじゃないけれど、ある会の方から、たびたびこの手の話題が出る。正直、即答することが煩わしくなってくる。いまの法話を聞いてそれが感じられない人に、「ハイ」と答えれば満足してもらえるのかなー。

 広島支部は、さすが安芸門徒で、はじめてのご縁の方は、本山の関係とか、真宗カウンセリングの関係者が多いが、今回、初めてインターネットで、何十年もの現役会員が参加された。彼の所属している会では、会長先生以外に獲信者はないという。それでも、勧誘のためなら方便として、「獲信している」とウソはつくようだ。これは、ぼくの学生時代の実際に体験した実話だ。まあ、それはそれで面白い昔話もあるが、いまはいいだろう。

 それにしても、これらの人達は、こんなにも信心、というより私の上の実感、阿弥陀様の声が聞こえるのか、ハッキリした体験がおこるのか、不思議を握って「○○は獲信した」とか「信心決定した」という一点だけに固執されているのだろう。たぶん、そうでないと絶対の幸福は得らず、無間地獄で昿劫も果てし無く苦しまねばならいことを恐れておられるのだろう。それで せっかくのご法を聞かずに、せっせせっせと、そのための方法論を求めておられるのだ。まるで、如来さまから下賜される「信心」という、私が掴める実体や対象があるかのように…。

 でももし、そんなものがあったとして、またそれが清浄真実だとしても、この泥凡夫が握った瞬間に、汚い汚い手垢でまみれることがわからないのかなー。求道カルタじゃないけれど、「握ったまんま、落ちていく」だけである。

 それで、逆に質問した。「では、その先生が獲信しているのが、なぜ未信のあなたに分かるの?」と。なるほど、それなりに答えがあるわけか。その後も、凡夫にハッキリするのが深心に固執されていた。でも、私の上にハッキリしたという話ではなく、教学の上での机上の話なのだ。

 でもね、結局のところ、そんなことは軽々に凡夫にはわかるはずがないんだよ。いや、「凡夫にもハッキリするのが深信でしょう。善導さまは「金剛堅固で、破壊しない」と断言されている」と。確かにそうだ。でも、それが私の上の真実信心であるから、私が「信心を得ました」と絶叫できたら、それでいいのか? という問題とは別なのだ。 

 そんなところに留まっていないで、まず、ほんとうに申し訳ないことに、「我」のところでしか聴聞をしていない、ガリガリ亡者の私の姿に早く気付かせてもらうしかない。信心、獲信は横に置いておいていいから、ほんとうの自分の実相、真の姿を聞かせてももらのである。

 そして、その私にかけられた、昿劫よりいまここに、こんなにも確かに働き続けている阿弥陀様のいのちそのもものを、いま、この私のところで聞かせてもらうしかないのである。いま、この私の上に、阿弥陀様のいのちが息づいてるのだ。それを聞かないで、頭で作った教学で、その生き生き躍動するいのちを、「ああじゃろうか、こうじゃろうか」とこねくり回している愚を知らされる。何十年聞いてきたのも、そんなちっぽけなところに、阿弥陀様も、仏法もないのだ。それを自力のはからいという。そんなものは捨てるしかない。用事がないと聞いたら、惜しくても捨てるのだ。

 あの時体験した、得た、実感した、念仏が吹き出した、ハッキリしたのは、もちろん信一念の原点にあるのだけれども、そんな過去形をひっぱりだしたり、「獲信しました!」という自分の上の実感的な体験だけを金科玉条にせねばならない「信心」のほうが、ぼくには、かなり疑問に感じる、このごろである。

 そこを捨てて、いまの、裸の自分で「後生は?」と勝負できないような自力建立の信心だから、惜しくてそれも捨てられない。だから、分かってもらろう、大事にしよう、(先生や同行に)認めてもらうとなるのだ。

 獲信(大方は、凡夫の上の感情的な実感、超常的な体験程度では、なんとも貧しくお粗末なものだけど)こそが、究極のゴールのように思うけれど、そうじゃない。ある先生の言葉じゃないけれど、信心は二番手、仏智が一番手なのだ。

 そう、その仏智は、凡夫の腐れきったこの頭や心で、わかったり捕まえられたりするものじゃない。いまここに生きている、生きものなんだよ。だから、そのあついあつい血潮のおかげで、この冷酷で無感動で狂るいきっている身にも、いのちが躍動してくるのだ。ぜーんぶ、他力様のおひとりお働きがあったればこそ、ずっと他所事を聞いてきた、私ひとりのそのご苦労の賜物を聞かせてもらったならば、私は「信心得ました」なんて、自分の手柄のように胸を張っては言えない。ただ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。それしかないよなー。

 でもね、そうは聞いても、地獄行きの自分も、阿弥陀様の生きた働きもお留守の時は、「やはりそう実感できるんですね。はやくそんな身になりたいですわ」と、また自力を募らせていく。そうして迷ってきて、そしてまた迷っていくのですがね。

 正しいと決めつけてきたことを、一度捨てて、これまで一度もしたことがなかった、ほんとうに阿弥陀様と向き合ってみられたらどうでしょうかね。

 鬼が出るか、蛇が出るかはわからないけどね。たった一度でいいから。

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広島支部法座、現世利益の巻

 GWというのに肌寒い。特に、今夜の帰路はコートがほしいぐらいだ。北国では、時ならぬ大雪になった模様。

Img_5671  永代経前の最後のご法座。広島へ。例の広島駅前の新球場は、阪神戦の試合直前。人々が次々歩いていて、駅構内でも、ずっと案内が繰り返しされていた。

 今月の広島は市内は市内だが、少し場所が離れている。JRで15分ほどいった五日市というところでのH家での家庭法座。庭がきれいに手入れされて、春の花が満開だ。今日は、常連さんの欠席は多かったが、それでも、インターネットからの新顔があったり、十数年ぶりにお会いできた方があったりで、新鮮な集いになった。

 二種深信についてかなり詳しく話した。機の深信の29文字、法の深信の29文字を、字句に応じ、またそれぞれの味わいも交えてお取り次ぎさせてもらった。もちろん、勉強ではない。信心の構造としてこれを覚えても、また分かっただけでは空しいだけだ。この心境に、ピッタリとならせてもらえるのが、他力回向の信心の不思議で、尊いところ。いわば、他力回向の信心を開いた領解告白といってもいい。だから、ここのところはしっかりとお聞かせに預かりたいものだ。

 ひとつ味わったことは次ぎに触れるとして、法座が終わってから、Hさんの手料理が楽しみだ。おいしいご馳走と、あれやこれの話題が出て楽しかった。

 帰路には、数名の同行さんから、広島の日本酒やらお菓子をいただく。ベテラン主婦が多いので皆さんよく気を使ってくださる。

 Hさんからは、「先生には、せいぜいお金持ちになってもらわない」と、ずっしり重いお土産がいただく。

Img_5674  袋をあけると羊羹だ。でも、ちょっとだけ形が違う。どっしりと(だいたい羊羹は重いが)重みは、なんと金塊の形をしているからだ。残念ながらほんものの金塊とは、一度たりともご縁がない。ところで、「金1㎏と、綿1㎏では、どちらが重いですか」というクイズを、子ども時代によくきいたものだ。そう、どうせなら、羊羹500グラムより金塊500グラムのほうが、身になったのだか…。

 いえいえ、この羊羹は、そんじょそこらのものじゃないんです。広島にある「コインImg_5675通り」(造幣局がありコインを鋳造しているそうな)にできた、「金持ち稲荷神社」の名物で、その名も「金持ち羊羹」というのだ。もっとも、このお稲荷さんは、京都の伏見稲荷大社のみたまもを授かっている。それなら、ぼくのすむあたりの町内は本家のお旅所の氏子にあたる。こちらが本家なのだが、悲しいことにお金とはあまり縁がない。といって、おかげさまで貧乏のどん底で首が回らんほどではないだが、きっと精進潔斎、信心が足りないからだろう。それなら、せめてこの羊羹にあやかって、金持ちになってくださいという、Hさんの温かいご配慮である。

 なんといっても、金持ち稲荷の「招福・金運」祈願済のありがたい代物だ。
 しかも、「全日本金持ち学会」の推薦も受けている。
 なんと、食べ終わると、金塊型の「開運貯金箱」になるという。

 さて、お味のほうも保証済みとのことだが、食べ終わったら、貯金箱をどこに飾りましょうか。金持ち羊羹より、「安心羊羹」の「獲信貯金箱」として財施してもらったら、黄金がたまるかもしれんなー。えー、すでに宿善になると唆されて、華光についた時には、一文なしになっているって…。現実はきびしいなー。

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『名探偵コナン~漆黒の追跡者』

 夕方からカウンセリングの面談があった以外、久々に法座がない土曜日だ。2泊3日の永代経法要も近いので、なるべく行事はいれないようにしているが、明日は、広島支部と、仏教青年会の例会がある。

 久しぶりにたっぷり子ども孝行をしようと、琵琶湖方面へ出かける予定を考えていたが、残念ながら夜半から強い雨が降っている。野外もあるので今日のところは諦めた。

 ならば、少し先に予定していた映画にした。春休みには1度だけ映画館に子供を連れていく。毎年、リクエストが出るのだ。1年生の時は、プリキュア。2年生の時は、ドラえもん。3年生(春休みではなくGW映画なので、もう4年生になったが)の今年は、コナンになった。これひとつでも、成長のあとが窺える。プリキュアなどはとっくに卒業している。いまは、衛星放送で、昔(初代)の「ルパン三世」の全シリーズが再放映された録画DVDが、二人のお気に入りで、そればかり繰り返してみている。だんだん、親も楽しめるアニメになってきた。

 すでに前売りで親子ペア買っていたので、『名探偵コナン~漆黒の追跡者』に連れていくことにした。

 うーん。まあ、まあ、まあという内容ですか。でも、アンパンマンやプリキュアと違って、ぼくもそこそこ楽しめるアニメになってきたので、これはうれしい。でも、軽度とはいえ、シネマディクトのぼくでも、一人だったらまず絶対に観る予定はない。でも、ポイントだけはしっかりたまったので、これもよしだ。

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連れ合いの誕生日

Img_5669   連れ合いの誕生日。もう○○歳か。

 小さな花束を贈って、プレゼントは伊勢丹に一緒に買いに行くことになった。節目の記念なので、奮発すImg_5654 ることにしたが、かなり予算内で納まった。

 夜、家族と共に、マチャプチャレで簡単なお祝い。偶然、居合わせた、隣席のボストンから遊びに来ていた夫妻も、一緒に祝福してくれた。美山町へ友人の結婚式で、京都観光しているらしい。

Img_5642  連れ合いの絵の下で、おいしいおばんざいを食べたあと、ネパールの話題に。昨年の11月から3月の間、ネパールでの2店目の日本料理を出すために、ボカラに滞在していたのだという。現地のこImg_5653ともいろいろと教えてもらったが、次回は、雪山(ヒマラヤの麓)の ボカラへもどうぞと勧めてもらった。訪れたいところが増えて困ったもんだ。

Img_5667 

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常識の壁

  このところ、各地のご法座で、初めてお会いする方とのご縁が続いている。

 だいたい、50代までの方(40代、30代の方が多い)は、ネットをご縁にしたり、または前に所属していた団体から絡みでお参りされる方でがある。それらの方は、ある程度聞法の焦点があたっていて、後生の一大事の解決とか、信心決定(けつじょう)という言葉を、最初から使われている。

 でも、いま問題にするのは、ネットとは無関係な、少し高齢の方だ。友人のすすめや新聞広告などをご縁にした方で、ある程度の社会的な地位があったり、そりなりの仕事も終え、子供も立派に育て終えた世代の方々だ。
 その意味では、人生にやり残したことはなく、余生というか、第2の人生を迎えるにあたり、宗教的な心境を求めてこられているのである。

 大方が、社会的には、常識的でまっとうに生きてこられた人生の立派な先輩であることは、話の端々やその態度から窺える。まじめに仕事もこなし、家庭も護り、そしていま、心の豊かさを求めておられるのだから、尊い方々である。

 しかしである。では、そんな方々が、ご聴聞に即つながるのかというと、実のところ、この堅い道徳的規範や常識に阻まれて、三世を貫いて、極重悪人の私が、念仏の教え一つで仏に成っていく浄土真宗のおみのりが、なかなか伝わりづらいのが現状だ。

 どんな人生観、宗教観をもっておられるのか。そのひとつの代表的なものが以下だ。

 先日もMLで、京セラ会長の稲盛和夫氏のことが話題になっていたが、たった一代で大企業を育て、経済人として一流であるだけでなく、仏教への造詣も深く、晩年には自ら僧侶となって活躍されている。

 彼には、『人は何のために生きるのか』という著書があり、しばしこの題での講演会も持たれているようだ。その彼の言葉に以下のよう有名な一文がある。

 人生には運命と因果応報の法則が縦糸と横糸して働く。因果応報とは、善きことを思い、善きことをすれば、善き結果を生み、悪いことを思い、悪いことうすれば、悪い結果を生むということである。その中で私達は常に心を磨き素晴らしい人生を生きることに心すべきです。

 至極、当たり前のことだが、成功者の哲学としての言葉は、多くの方に共鳴を呼んでいる。実際、こんなことが見失われている社会や世間の現状を憂い、このような言葉に共感し、自らを磨き、世のため、人のために利他の行いを励もうと願っておられる年配の方にお会いすることが多いからだ。

 でも、これだけなら、単なる生き方の問題、道徳論だ。もしくは、人生の修養修行にすぎないのである。

 残念ながら、この線上でいくら熱心に聞法したとしても、弥陀の本願に出会うことは難しい。

 なぜなら、この凡夫の私には、抜き差しならない迷妄の姿がある。

 一つは、いつまでも死なない、いつまでもこのままだと錯覚している。無常を無常と、気付けないほど闇は深い。

 もう一つは、自分ほど善いものはいないとうぬぼれている。悪人を悪人と知れないほど狂っているのである。

 しかも、始末が悪いことには、死んだらそれでお仕舞いと考えているか、もしくは、死=仏、間違いなく浄土に生まれる程度の安っぽい後生観しか持ち合わせていないのだ。

 しかし、真宗の聞法は、社会や世間、他人を問題にするのではない。ほんとうの私自身を問題にする以外にはないのである。

 それには、社会の常識や、自分の実感や主観を指針にするのではなく、仏様の教え(法)を鏡に、そこに映し出された自分を問題にするしかないのである。

 では、そこで映し出された私の姿とはどんなものか。

 「お前ほどの極重悪人はいない。しかも、死とは常に背中あわせで、今夜とも明日とも知らぬ無常のいのちだ。一たび、無常の嵐きたりなば、極楽どころか、真っ逆様に地獄に落ちていくしかない」のだと。
 つまり、わが身は、現在も罪悪生死の凡夫なら、過去も常没常流転であり、当然、未来においても、出離の縁あることなしで、絶対に救われる手がかりすらない私なのである。

 私が、そう感じようが感じまいが、そんなことは問題ではない。当然、その感じ方の強弱などもどうでもいい。
 とにかく、そのご意見を、私のほんとうの姿として、お聞かせに預かっていくのである。

 せっかく尊いご因縁が整い、浄土真宗の聞法のご縁が出来たのである。

 現世中心で、善人指向の、古い社会常識的な信を捨てて、極重悪人の私がお目当てという弥陀の本願に貫かれてもらいたいものだが、この常識的な自力の壁は、ほんとうに手強いものがある。そう簡単に、後生の一大事の解決へとつながらないのが現状である。

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『スラムドッグ$ミリオネア』

Img_5641 『スラムドッグ$ミリオネア』が、面白かった。ぽく的には、かなりタイムリーで、インドが 舞台という、個人的な嗜好も入っている。これだけでも、かなり甘い評価になりそう。実際、今年のアカデミー賞の作品賞に加え、監督賞など最多の8部門を受賞した、今年最大の話題作なのだ。でも、主演、助演の男優Slumdog や女優賞とは無関係だった。ほとんどが国際的には無名の役者たちだ。余談だが、昨日のニュースでは、オスカーを抱いていた幼少期の娘役の女の子は、実際にスラム出身。この直後に、約2,8000万円ほどの養子縁組(態のいい人身売買)に売り出される寸前で、実は買い手がイギリスの新聞社の囮取材と判明。社会問題になっているというのだ。(写真は、ネットニュースから)

 ダニー・ボイル監督の、いわばイギリス製ボリウッド(すなわち、インド版ハリウッドの旧ボンベイ製ということ)映画。『ぼくと1ルピーの神様』という小説を、『フルモンティ』のサイモン・ボーフォイが脚色した。なるほど、面白いわけだ。

 ところで、映画のタイトルは、スラム負け犬の億万長者。『クイズ$ミリオネア』のもじりである。そう、イギリスでスタートし、世界約80ヶ国でライセンス放送されているあの超人気番組だ。日本でも、みのもんたの司会で、「ファイナルアンサー?」というきめゼリフで大ヒットした。このインド版も、まったく日本同様の番組で、“ライフライン”のルールや、司会者の態度、スタジオの雰囲気も同じなので、まったく抵抗なくドラマに入っていける。
 しかも、ユニークなことに、作品そのものを、例の四択のクイズ形式として、冒頭で問が出され、ラストにアンサーが出る仕掛けになっているのだ。なーるほどね。

 このインドの超人気番組に、大都市、ムンバイのスラム街で育った無学の青年ジャマールが出場。携帯電話の会社(これが現代のインドを象徴している)でチャイ係をしている彼が、大学教授や知識人も達成できなかった最高額にまで達しようとする。ちなみに最高額は、2,000万ルピー。1ルピー、2円強だったから、日本円では、4,000円万強というところだが、物価水準から推測すると、たぶん1億円以上の価値があるだろう。

 では、なぜ天才ともいえない最下層の少年が、難問題を次々と正解していくのか。インド中の視聴者の大注目を浴びることになった彼は、同じ下層カースト出身のスター司会者に嫌がらせを受け、最後には妬まれて、初日の収録後に、インチキ容疑で警察に突き出されてしまう。下層ゆえか、拷問での取調べを受けるが、「不正はない」と無実を主張し続けるのである。

 物語は、番組収録、警察署内の取り調べ、そして、ジャマールの回想という三シーンで構成され、それぞれが巧妙に絡み合って展開していく。時系列がバラバラで描かれるのだ。そう聞くと、どこか複雑そうに思えるが、そこはそれ、アカデミー賞受賞作である。一般にもわかり易く、かなりテンポのよい進行なので、ご安心を。取り調べの刑事と、クイズ番組の録画を見ながら、「なぜ、正解を知っていたのか」が、彼の過酷な回想を通じて明らかになっていくのだ。

   そして、 もうひとつのキーワードは、三銃士だ。
   ジャマールと、彼の兄、そして孤児仲間の女友達の三人。大都会のスラムに生まれ、ヒンドゥー教徒とムスリムの抗争で孤児になり、その後も貧困や過酷な運命に翻弄されたそれぞれの生き方と、最後まで愛を見失わなかった彼の人生が、クンズ問題と解答の中で、徐々に明らかになっていくのである。この作りは上手い。
そして、ラスト。問題の番組収録と、回想が現実に追いついたとき、彼に大きな希望の光りが届き、こちらも好感が持てる巧みな作りになっている。
たぶん、このあたりの巧みさが、観衆の共感を呼ぶ、第一の要因なのだろう。

 それは、物語の背景には、インド社会の貧困、差別、宗教問題に、大都市部での格差、さらに、いまなお残る悪習の数々と、いまや世界有数の経済大国をめざすインド社会の今が、しっかり描かれているからこそ、希望への共感が生まれて来るのではないか。

 実は、今回のインド旅行では、大都市圏には入らなかった(前回は、コルカタ、ニューデリー、ムンバイも回った)が、訪れた田舎の大半は、電気やガスも水道もない、土塀に藁葺きの家々だった。そして、ベナレスなどの観光地には、物乞いや物売りが大挙押し寄せるが、なかには、栄養失調の赤ん坊を抱いた子どもや、腕や足がない障がい者も多かった。現地でその理由も聞いたが、そのあまりにも過酷な「からくり」も、この映画では触れている。つまり、単なるサクセスストーリーや、恋愛ものではなくて、その背景にあるインド社会の現実を浮き彫りにしている点が見逃せないのだ。

 ちなみに、ぼくたちが、今年の旅行でお世話になったガイドの名前は、ムスリムのジャマールさんだった。そう、映画の主役も、ムスリムで「ジャマール」。まさか、ここで、ジャマールさんの名前に出会おうとは…。これが一番、ウケた。もっとも、彼はとても裕福な家庭の人で、名門、デリー大学の出身者だ。

 

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「イカのおすし」が身を守る?

 小学校から、「不審者情報」についての緊急のお知らせが届いた。

 昨日、下校時に、「どこか連れていってあげようか」とか、「写真撮られて」と、声をかけられる事案が、2件あったというのだ。

 たびたび、ここでも指摘しているように、いま、子どもたちを守るのはなかなかたいへんなのだ。安全、安心の街づくりは、保護者だけでなく、地域や学校、警察が一体となって取り組まねばならない。とはいうものの、以前ここにエントリーした、アメリカでの過去の性犯罪遍歴者に対する過剰反応の悲劇が描かれた『リトル・チルドレン』という映画ではないが、時に、不審者に過敏すぎたり、過剰反応ではないかという面も無きにしも非ずだ。対処の遅れが、警察や学校の責任問題にも発展しかねない一面もあるからだ。まあ、そんな穿った見方はともかく、重大な問題が起こってからでは手遅れなのだがら、冷静に、用心するには越したことはない。

 というわけで、子どもたちへの注意事項が並べてあるのだが、そのなかに、
 子どもたちの安全を守るために、「NO」「GO」「TELL」や「イカのおすし」の確認を、おうちでもご指導ください、とのこと。

 さて、「NO」はキッパリ断る、「GO」はさっさと行く、「TELL」は、助けを求めることだろとだいたい想像がつくが、この「イカのおすし」というのがサッパリ意味不明。いや、意味は分かる。「イカのおすし」なんでしょう。でも、ここで、ホンモノのイカのおすしのわけがない。不審者が来たら、常備している「イカのおすし」を握って、思わず相手が食べる間に逃げる゛なんという話ではなさそうである(当たり前だ)。とすると、なにかの暗号か、頭文字かということになるが、それがよく分からないのに、指導するもないものだ。

 「なに、この『イカのおすし』って?」と、子どもに尋ねて、指導してもらうことにした。けっこう有名で、なんでも、「イカのおすし」ポスターも、「イカのおすし」CDも、振り付けもあるらしい。

 そうなると、ますます知りたいくなる。

 すると、もう一枚のチラシ。
 そこに、「おぼえよう、イカのおすし」~こわいめにあわないために~という府警のチラシ。なーるほど、いまの子どもたちには、「イカのおすし」とおぼえさせているんですか。

 皆さん、知ってました? ぼくは、まったく知らなかったなー。

 最初の「イカ」が、「行かない」だとわかると、あとは、一文字ずつで、だいたいわかりますよね。

 でも、この最初の「知らない人に、ついてイカない」という、この「知らない」とが、ちょっと曲者。見かけたことのある人だったり、少し顔見知りだったりして、けっこうそんなのが今日のこわいところなんですが…。

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バナナとばな奈

  東海支部法座のあと、有志数名と居酒屋で懇親会で談笑し、新幹線で帰宅した。

 少し前に、東京法座から父が帰ってきていたらしい。もう1、2本早かったら、同じ新幹線になっていたようだ。余裕をもった送迎で、元気そうだ。東京のお世話の皆さん、そして送迎係のお二人もお世話になりました。そうそう、『東京ばな奈』のお土産、ご馳走さまでーす。東海では、蓮華さんの手作りパンをもらった。ありがとう。

 実は、ぼくも居酒屋を出るとき、店員さんから「黄色の幸せ?」とかなんとかいって、ホンモノバナナをもらった。居酒屋とバナナ? なんかよくわからんサービスだが、次女の好物なので、たったバナナ1本でも、「わぁーい!」と喜んでいる。さてさて、ぼくがバナナ1本を喜ばなくなったのは、何歳を境にしたことだろうか。

 ぼくが話す前に、連れ合いが、華光会館での日曜礼拝の話題をしてくれた。大人も、子供もけっこうお参りがあったよだ。特に、子供は大勢で、ちょっとしたトラベルもあったようだが、新学期で、抜けた先生の代わりに、学生世代の若い先生役の女性が、3名加わって、こちらも新規スタートだ。5月は、ぼくが法話を担当する「花祭り」である。

 「私は何も分かっていない」の巻頭言を読んだ「輪読法座」、「二種深信」をかみ砕いて、一字一字を丁寧にお話した「東海支部法座」と法座を終えて、味わったこともあるが、今夜は、少し酔っている。

 

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現金な現金の話

  わが家にも定額給付金の申請書が届いた。

 地方自治体によって、時期はバラツキがあるようだが、申請手続きで窓口が混乱しているというニュースを目にした。

 給付額もそうだが、そのために割かれる労力や経費もバカにはならない。そこまでして集めた税金を使い、選挙前に、一律に金をバラまく。なんのためかと勘繰りたくもなる。それも、「黒字なので配布します」なんて景気のよい話でも、「無駄な国会議員の歳費や手当て、政党助成金を削り、還元します」というまっとうな話でもない。結局、借金を増加させ、まったく景気対策にも福祉の充実にならず、ただ次の世代につけを回わすだけなのだ。いや次世代どころか、まもなく増税というしっぺ返しがやってくる。なんというバカな政策なのだろう。

 相互扶助組織ともいうべき、都会の中・下層者を支持基盤とする宗教団体に支えらた与党が、考えそうな政策である。

 ならば、お前は申請を断るのかというと、しっかり申請を出した。いただきますよ。もとは納税した税金だもの。しかも確実に増税がある以上、次ぎに備えないといけないなー。

 実は、わが家には、定額給付金以外にも、もうひとつ「子育て応援特別手当」の申請書が、ほぼ同時期に届いた。支給世帯は、「3歳以上18歳以下の子供が2人以上いて、かつ小学校就学前3学年の子供」が対象というもの。つまり、乳児以上の子供が2人以上いて、そのうち1人が、3歳、4歳、5歳児の子供の場合というのである。多子世帯支援をうたっているのに、たとえ、4人、5人いようが、もしそれが6歳児の年令以上なら、対象外という不思議な制度だ。しかも、1回限りの、36,000円。1年あたり、12,000円で、3年分。つまり、「3、4、5歳の時に、毎月千円ずつ補助しましょう」ということになるのだ。

 ちなみに、わが家は(正式には上と下では別世帯になっているが)、子供2人と、老人2名、それ以外2名で、合計6名家族。給付額は、18歳未満と、70歳以上が一人2万円。それ以外は、一律12,000円。そこに、子育て応援手当の36,000円も加わるから…。ジャラジャラジャラ…。アハハハ、かなりけっこうな額になるー。

 これは、これは。

 現金を前にすると、みんなが現金になる、バラダイスみたいなすばらしい政策じゃないですか。なんとおそろしーい。

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輪読、東京、東海、そして日礼(にちらい)

 月のインドからずっと法座が続いていたが、久しぶりに担当の宿泊法座がない。ちょっと一息と思ったが、そうでもなくて、今週は、火曜、水曜と、伝道研究会と、真宗カウンセリング研究会の総会があって、週末も、「輪読」、「東海支部」と続く。そうこうするうちに、2泊3日の永代経法座が近づいている。ただし、いまのぼくの法座の仕事は、半年先のことで、9月の北陸聞法旅行の会場探しと、10月の東京講演会の日時などの調整などが中心だ。

1)東京支部法座:4月18日(土)~19日(日)

 年に1度の増井悟朗先生の支部法座です。新しい方も数名、参加されるそうですが、東京支部は、いま新しいメンバーが増えて、入れ代わりという時期です。それだけに、要のところに焦点をあてて、しっかりご聴聞していただきたいです。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/tokyo2009-4.htm

2)華光誌輪読法座:4月18日(土)昼1時30分~5時

 土曜日の華光会館は、ぼくが担当して、「華光誌」輪読。68-2号の「巻頭言」「聖教のこころ」などを読みます。先日の真宗法座の集いのぼくのグループでも、「巻頭言」の話題がでたので、みんなで読みました。もっとも、じっくりそれだけというわけではなかったので、今回は深めていきたいですね。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/rindoku2009-4.htm

3)東海支部法座:4月19日(日)昼1時30分~5時

 日曜日は、東海支部法座。愛知県の春日井市が会場。名古屋から15、6分です。ぼくは12月以来。ここも新しい方がお参りくださると聞いています。法話の内容は、講習会で補足で話したので、「二種深信」の題にしています。あの時は、補足だったので、今回はやや詳しく。ほんとうは、この支部では、インドのスライドやってませんが、講習会を含めると、2、3度の人が増えてきたので、もうさすがに封印しました。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/toukai2009-4.htm

4)日曜礼拝(らいはい):4月19日(日)昼1時30分~5時

 日曜日の華光会館は、日曜礼拝です。これは、「れいはい」ではなく、「らいはい」です。もともと華光会館創建当時から、盛んだった日曜学校の流れくんで、大人にも参加いただきたいと始めました。ただし、大人の顔ぶれがやや決まってきました。輪読法座の出る人と、かなり重複してますね。
 新年度で、新しい先生にもお手伝いしてもらうことになってます。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/nitirai2009-4.htm

5)永代経法要法座:5月2日(土)・3日(日)・4日(祝)=〆切り:4月18日(土)

★ところで、永代経法要法座の宿泊食事の締切りが迫っています。このところ宿泊参加者が多いので、今年から締切りを2週間前に早めました。宿泊や食事の不要の方でも、参加を希望されている方(たとえ1座だけの方でも)、予めお申込みいただけるとありがたいです。★

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/05/eitaikyo2009-5.htm

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増補新版『念仏の雄叫び』発行!

Img_5626  法蔵館から、増補新版『念仏の雄叫び』が届いた。(この法蔵館のHPの速報の価格は違ってますね)。

 内容を確認し、届いた品数を確認して、GOサイン。今日から法蔵館の店頭にも並ぶ。

 ながらく品切れになっていたもので、再版を求める新しい同人の要望に答えて、『三度目の成仏』一編Img_5627_2を加え、校正を整えて、増補新版という形で発行することになった

 表紙も一新し、デザインは前回のイメージを残しつつ、オレンジ色の温かい色合いになった。黄緑から、オレンジですね。

 それでいて価格は、1200円とほぼ据え置いた。ただし、消 費税分がかかるので、1,260円になる。240頁もあるので、案外安く納まった。(送料は、1冊290円)

 まもなく、華光会のHPからも購入できるようになる。

 長年の真宗の求道をし、聞法に行き詰まっている人、安易な信仰に留まっている人には、ガツーンと雄叫びをあげていただきましょう。
 合わせて、信仰体験集『廻心の体験』(法蔵館刊・華光会取次)も、ぜひどうぞ。

 順調に売れると、次回の本への弾みにもなる。それには、まず皆さん方のご協力が必要なのです。どうか、よろしくお願いします。

 目次:
 1)罪悪観と無常観
 2)孤独を越えて
 3)法悦の仮面
 4)変わる心、変わらぬ心
 5)仏願の生起本末
 6)救済の予定概念
 7)念仏の雄叫び
 8)三度目の成仏
  ・あとがき
  ・増補新版にあたって

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歩く

 雨。

 このところ季節が、1ケ月以上は早く進んだような陽気だが、今日は雨で少し一服。
 朝、自力整体の教室へ。少し雨が強かったので、自転車は無理。近鉄も考えたけれど、七条西洞院まで歩くことにした。25分ほどかかった。

Img_5621_1  レッスンをすませて、そのまま四条烏丸の京都シネマまで向かう。地下鉄があるが、京都駅まで戻Img_5621るのが面倒だ。やはり歩くことにした。昨日も自転車で走った道だが、その速度でも見逃しているものがある。自転車だとキョロキョ ロは走れないもの。都心の小さな神社に、三宝柑が実をつけていた。路地の合間に、小さなお店も発見。このあたりが京都の面白いところだ。だいたい20分ほどで到着。

Laboheme_01  映画は、ブッチーニの『ラ・ボエーム』というオペラ映画。ブッチーニといれば、日本では、『トゥーランドット』(オリンピックの影響で「誰も寢てはならぬが」が流行ったとか)、ある晴れた日の『蝶々夫人』や『トスカ』などが有名で、人気も高い。生誕150年を記念して、全編オペラで貫かれている。バリの寒いクリスマスが舞台だが、歌詞はイタリア語、演奏はドイツの、オーストリア=ドイツ映画。ほんのすこーし(あいさつと単語2つぐらいだが)イタリア語の言葉が分かると、妙にうれしかった。声と、映像は別録りだが、いま世界で注目されている人達の共演。すごい声。でもね、正直に告白すると、ぼくには、ちょっと退屈な芸術作品だった。

 今日は帰路も歩くことにした。途中、細い路地の途中にあるマノアマノというカフェに寄って、休憩。「雨の日は珍しいじゃないですか」と言われたが、確かにそうだ。京都シネマは地下鉄直結のビルにあるので、雨の日は、すぐ電車に乗るので寄り道は少ない。お茶しながら1時間ほど読書。『白川静』~漢字の世界観~を読む。反骨、孤高の天才だ。文字の本源を神話の世界まで辿る壮大さは、圧巻だ。手軽な入門書だが、とにかく刺激的で面白い。店を出ると、すぐに烏丸通の「漢検」本部ビルがある。騒動のあと警備員が立っている。こちらは同じ漢字でも、それを商売にした才能ある人。今は渦中にある。

 帰宅すると、法蔵館から増補新版『念仏の雄叫び』が届いていた。タンボールで17箱、1,060冊。温かい色になった。見開きなどは『後生の一大事』と同じ色合いになったが、『後生~』も品切れになっている。

Img_5625_3  夜には、伝道研究会があるのだけれど、完成祝いに蓮華さんからいただいた「蒲郡みかんスパークリング」をあけた。きれいな色合い。本よりも少し淡い色合いだが、同系色。ほんとうにみかんの甘酸っぱい香りがする珍しいワインだ。映画のあとはすぐに影響を受ける。先日も、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ』を観たあとで、ワグナーの「ワルキューレ」を聞いた。ところが、『ラ・ボエム』は持っていない。ブッチーニのオムニバス物しかないので、それで我慢することにした。

 よく考えると、1、2年前までは、毎朝は、呼吸法か自力整体を20~30分、夕方には20~30分は散歩していた。それが今は、週一の自力整体教室だけで、朝も夕方もさぼっている。

 久しぶりに歩くと、時間がゆったりした気がした一日になった。

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『いのちの作法』~沢内「生命行政」を継ぐ者たち~

  朝イチの京都シネマで『いのちの作法』~沢内「生命行政」を継ぐ者たち~を観る。

Inochisaho_01  映画といっても、ドキュメンタリーの文化映画だ。
 岩手と秋田の県境の旧沢内村。標高1,000m級の険しい山々に囲まれた盆地にあって、冬には、2m以上の積雪がある豪雪地帯だ。農林業が主要な産業で、貧困、そして多病・早死と三重苦に、ただ耐え諦めて生きる以外に術がなかった村民たち。高度成長期に取り残さそうな無医村に医者を呼び、医療や福祉に力をいれ、昭和35年には日本で最初の老人医療費無償化を実行し、その2年後は、やはり日本で最初に、乳児死亡率ゼロを達成したのだ。「住民の生命を守るためには、私の生命をかけよう」と宣言した当時の深沢村長のもと、「生命尊重」の理念のもとにした地域づくりが実現していくのである。

 6,000名ほどの小さな器だから実現できといえばそれまでだが、しかし、トップが変わると、行政もこんなにも温かく血が通うのかという希望がもてる気がした。

 しかも、この映画の素晴らしいところは、「昔、素晴らしい偉人がいました」という過去を称賛することではない点だ。サブタイトルが示すように、その意志や理念を、現在進行形で「継ぐ者たち」の、若手の取り組みを映しだしているである。時代は移つり、村は合併した。きっと厳しくなっていることだろう。でも、その根っこのところで、行政トップが示した情熱、信念や深い理念が、隅々に息づいているのである。

 ところで、低年齢の凶悪事件がおこると、行政や教育界のトップが、スローガンのように「いのちを大切にしよう」と、いのちの尊厳を訴えるが、そのことが建前のウソであることは、みな分かっている。この映画のなかで、山間部に生きる人たちは、またぎを生業としていたが、児童養護施設の子供たちと、うさぎ狩りをするシーンがある。撃ったうさぎを子供たちの目の前で捌いていく。血も、内蔵も見せる。興味深げに見るものもいれば、顔をしかめる子もいる。実は、わたしのいのちを大切にするには、他の生きたいのちを奪わねばならないのだ。その意味では、わたしが生きている以上は、絶対に「いのちを大切」することなどは出来ないのである。まず、そのことをごまかさずに、キッチリと見ない限り、ほんとう意味で、いのちを大切にすることなどできないのだ。

 登場する人々は、特養の高齢者、知的障がい者、そして、都会で虐待を受けた児童養護施設の子供たち。この僻地の村がそうであるように、さらに社会的な弱者ばかりが登場する。しかし、その年輪を経た穏やかな顔や、子供たちの輝く笑顔が映し出されるだけなのに、なぜか、何度も涙が滲み出てきた。険しいなからも美しい山々と、清流に囲まれた自然豊かなこの僻地は、高度成長にも、グローバリゼーション波にも(一見)無縁の、いわば便利さや効率、成果とは対極にあるといってもいい。しかし、ここには、社会地域全体で、人間を孤立させないという温かさや懐の深さがあるからだ。

 これもまた、スローガンだけの「人間がみな平等だ」とか「人間尊重」というきれいごとを並べて、ただ予算だけをつぎ込んだ高級な福祉ではなく、その生きた人々の厳しい現実を、ごまかさずにキッチリと受け止める眼差しがあるのだ。しかし、現実の多くは、目をつぶり、無理だと諦めている。だから、定額給付金と称して、一律に税金をばら蒔くという、なんともお粗末な政治しかできないのである。 

 映画では、息をのむほどの豊かな美しい大自然が映し出している。しかし、それは人々に恵みや安らぎを与えるだけではなく、険しい厳しさや、時には試練も与えている。しかし、そうだからこそ、同時に、そこに畏敬の念も生まれて来るのである。つまりきれいごとの映画ようで、きれいごとにすまない深さを感じたのだ。

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第7回真宗法座の集い

   早いもので、第7回の真宗法座の集いである。年に2度(京都と広島)した時があるが、それでも、第1回からもう6年経過している。

 昨年の記録を確認してみたら、ちょうど4月にふたつの記事を書いていた。(下記)

「真宗法座」の感想と、雑記である。いま読んでも、自分で、ちょっとジーンとくる部分もある。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_2a78.html

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_65da.html

 ただし、一回一回流れは違う。昨年、ぼくがここで、問題視していた点は、集いの枠組みの問題なので、そこは今年はキッチリと対応することにした。

 かなりフリーハンドの部分をもった法座なので、メンバーの出かたによって、かなり内容が左右される。その点、今年は半数が初参加の方。しかも、そのほとんどが1年以内の新人である。ご法の上でも、求めている方が大半だ。それだけに、もっと場を動かせていく参加者、もしくは世話人クラスの人が、もう1、2人入っていると、また違った雰囲気になっていただろが、しょせん、そんなことは「たらねば」のたわごとだ。

 参加者は、申込み順で、定員は20名(厳守)。1ケ月前には定員に達して、キャンセル待ちになった。そこに講師、世話人が4名加わる。合計24名ではワングルーブにするには多すぎる。それに、全体でひとりひとりとじっくり関わるにも、1泊2日はあまりにも短い。一方的に講演を聞くのなら、充分な時間でも、ひとりひとりの気持ちを確認したり、自分を表明しあい、時に調整を繰り返していくには、それ相当の時間が必要なのた。たとえば、流れにまかせて自由なグループ分けをするだけでも、1日を費やしても足りないだろう。それに、皆さんが聞法というところに焦点が定まっている以上は、そちらの時間を優先させたいというのが、今回のぼくの思いであった。極端な話、予めグループ分けをしていてもいいぐらいに思っていたが、まあそこまではせずに、グループ分けの時間を決めることで、対応することにした。

 その点では、少し急ぎ過ぎていたかもしれないが、結果として、それぞれの思いが反映されながら、3グループに分かれて、それぞれ特色のある法座グループになっていったようだ。グループ分けの過程で、課題が浮き彫りになってきた方もあるし、まだよくわからないままの方もあった。また、非常に自由な雰囲気を味わって深く感銘された方もあるし、未消化のまま帰宅された方もある。それぞれのグループのなかで、各人が感じることはさまざまなのである。

 たとえば、2日間、8名だけで、ずっと増井悟朗先生と過ごしてのご法縁をいただけるグループもあって、これなどかなり贅沢な話ではある。

 グループ分けのプロセスでひとつ面白かったのは、「誰々先生のところ」という分けかたではなく、それぞれが課題やテーマを出し合って、そこで関心ある人たちが引っつきあって、最後にそれぞれの世話人が入っていたところだ。もう少し各グループの思いを、アピールしてもらっていたら、さらに面白いグループ分けになっていたかもしれないなー。なんなりと興味深いことはころがっているなー。

 内容にふれるわけにはいかないか、ぼくは、真宗カウンセリング風(もしくは的)のグループを受け持つことにした。この「風」というのは、マインドという意味もあろう。ただし、昨年の記事にあるが、ぼくのなかでは、真宗カウンセリングであろうが、華光の法座であろうが、ぼくの態度のところではなにも変わらないと思っている。自分を出したくなったら、遠慮なくドンドン発言していくし、お聞かせに預かる時はお聞かせに預かる。どうしようと悩む時は遠慮なく悩むし、沈黙する時は沈黙する。どんな自分も(しょせん、いい格好しかしないが)、それが安心してだせる、まかせられる、許される場が、この集いなのだと思った。

 いつもの法座のような雰囲気もあり、ちょっと自由にものがいいづらい威圧的な雰囲気を経ながらも、最終的には何名の方が、かなり深いところ自分に触れる自由な旅をされた気がする。その場をほんの少しでも助演できたのではないかと思うが、ぼく自身としては、もう少しみんなで、そのディープな雰囲気を味わい、共に分かちあえる時間があったら、もっともっと深まっていったのになーという反省はある。つまり、解答や正解(だいたい知識)、解決法をすぐに示すだけでなはく、ともにその感じや雰囲気を静かに共有し合い、味わうことで、次のプロセスが生まれて来るまで、待たせてもらう。それを安心して出し合える場を提供したいといのうが、この集いの趣旨のひとつなのである。 

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『三帖和讃』講義本の出版計画

 午前中は、福岡の会計士のY先生から、9月から3月までの半期分の会計説明を受けた。報恩講から始まった参加費の分もうまく滑りだしたようだ。幸い、寺院布教も若干増えているし、CMが効いて同人もプラスに転じた。全般に順調で、けっして暗くはないけれども、基礎が基礎である。厳しいことには代わりがない。いろいろと細やかなアドバイスもいただくが、バカが付くぐらい真っ正直に運営されているので、なかなか収益が上がらない。妙なことに、そこが華光の信頼の源泉でもあり、(純粋な信仰活動の)誇りでもあるけれども、同時にある種の弱点もあるわけだ。

   午後からも来客が2件。

 ひとつは、空調の入れ換えの契約。もちろん、一度にはできないので、3年間に分けて、ワンフローワずつ作業していく。いろいろと比較検討してもらった結果、従前の業者からダイキン工業に変更した。予め打ち合わせが出来ていたので、細々した予定や準備の確認をして、すぐに終了した。行事の合間にあたる5月下旬に工事をおこなう。予定していとはいえ経費が嵩む。素人目にはびっくりするほどの額だ。やれやれ…。建物を維持ひとつするのも、なかなかたいへん。せいぜい、皆さんに多くお参りいただいて、おおいに意味があったものにしたいものだ。 

 その後、出版社の方と会う。

 増井悟朗先生の聖典講座の『三帖和讃』講義のテキスト(プリント)を元に出版されることになった!

 これは、いまの『御文章』の前に、親鸞さまの浄土和讃、高僧和讃、そして正像末和讃を詳細に解説されたもので、120分カセットテープで、なんと140本分もある。単純に考えても、280時間にも及ぶ講義なので、テープ起こしをして文章にするには膨大すぎる。でも、幸いなことに、詳細な解説のプリントが残っていたのだ。それが、目に止まった。先生の細かな手書き。浄土和讃の開始のころよりも、回が進むうちに記述も詳しく、丁寧になっている。そのまま活字にして出版することになった。同じように、1枚1頁にしても、だいたい350頁にはなるだろう。分冊にするとまた厄介なのて、1冊にまとめられるようだ。

 京都の伏見にある白馬社という出版社だ。ある先生にご紹介いただいた社長さんと何度かお会いし、法座にもお参りくださったこともある。

 これまでの華光双書などをご覧いただき、法話集や体験記集はあるが、教義的なものがないとの指摘。でも、これまでの68年の歴史で、華光誌やテープなど、かなりの財産があって、優良なコンテンツをもちながら、なかなかうまくまとめる力がなかったわけだ。伊藤康善先生のものも『仏敵』(春秋社刊)のように現代語訳(?)も課題。全集にしてもいい。もし、うまく売れるようなら、『正信偈講讃』や『真宗の基礎』教義編、安心編なども、シリーズ化も夢ではないのだが…。
 でも、初回の『念仏の雄叫び』の時も、『仏敵』の時も、次ぎの矢が放てなかったのである。そこが、ある種の弱点というところなのだ。

 順調に作業が進めば、最短で7月末には発行されるかもしれない。ひとつは5月は、校正の作業にかかってくる。普通の校正作業に比べると、たいへんそうだが、前向きな話なので、じっくり取り組もつもりだ。
 もちろん、これにもお金が必要になってくる話だ。でも修繕・維持とは違い、積極的な意味合いがあるし、売れれば収益にも結びついていく。まあ、捕らぬタヌキの…ですが。

 ちなみに、法蔵館からの増補新版『念仏の雄叫び』の発行も迫っている。当初は、真宗法座の集いに間に合うと思っていたが、少し遅れて4月14日に届けられる予定だ。

 こちらも皆さんのご助力をお願いします!

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甘露の法水

Img_5631_2   昼のニュースを観ていたら、 東大寺の花祭りの模様が映っていた。そうか、今日は、4月8日、お釈迦Img_5658様のお誕生日だ。

 もっとも、南伝仏教では、4月8日の花祭りではなく、ウェーサーカ祭(ウエサク祭)という5月の満月にお祝いされる。子供大会でよくみた、「うさぎさんのお供え」(悟朗先生の『モッンチャ~ン』と熱演で有名)でも、「ウエサク祭のお供えに…」となって、Img_5640_2子供のころからかなり大きくなるまで、「ウエサク祭ってなーに?」と疑問に思っていたものだ。
 もうひとつ、所変わればで、お隣の韓国では旧暦で、国民の休日になっているそうImg_5675である。

 ちなみに、「花祭り」というのも新呼称で、日本では長年、「灌仏会」として親しまれてきた。もちろん 、お釈迦さまがお誕生になった時、龍が現れて、甘い雨(アムリタ、つまり甘茶)を降らせ、そのお誕生を祝福した。甘露の法水である。そして、六道を迷いを一歩出て、Photo七歩を歩まれたのであるが、たまたま、わが子の名前の由来はここから来ている。別に4月生まれというわけではないのだがImg_5642…。

    写真は、お誕生の地ルンビニー園。上から①~⑦。

①=有名な「アシャカ王柱」で、 この碑の発見で、荒れ果てたこの地がルンビニーと判明。
②=新マヤ堂と沐浴池。(変化にビックリ)
③=新マヤ堂にある、生誕の場面のレリーフ。(削がれている)
④=タイ寺に安置されている、新レリーフ。
⑤=27年前のルンビニー風景。とても静かな場所だった。白いのが旧マヤ堂。②と③が安置されていた。
⑥=ここが釈尊誕生の地といわる、マイルススートン。
Img_5313_2
⑦=お土産の誕生仏。外の3つは土産で、中の2つは別々に購入した。若干、お値段に格差が…。でも、日本資本の経営のホテル以外、かの地では、マヤ夫人も含まれた誕生場面のレリーフのほうが主流か。

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二条城の夜桜~月とサクラ~

Img_6091  家族で、二条城の桜のライトアップを見に行く。Img_6004

 堀川通りをまっすぐ上がるだけなので、車なら15分もかからない。ある程度の予想はしていたが、バスや車の多さに驚いた。チケット売り場も長蛇の列で、ちょっとひるImg_6026 そうになったが、人の多さのわりにスムーズに流れて、中の庭園も大混雑というほどのことはなかっImg_6010_2た。春の穏やかな陽気だったこともうれしい。

 歴史がつくられた舞台だ。豊臣秀頼と徳川家康が対面し、徳川慶喜がここで江戸幕府最後Img_6047の将軍に就任して、その後大政奉還を決定する。江戸城ではなく、この地が徳川家の栄枯 盛衰を見てきたのである。明治初年には、最初の 現代でいう「内閣」がここに置かれたりもした。でも、夜は、その本丸にも、二の丸にも入れない。まわりのImg_6072庭園を見て回る。

Img_6056 決して数は多くないが、さまざまな種類の桜が咲いていた。

 サトザクラ、ヤマザクラ、ソメイヨシノに、枝垂がれ桜……。サトザクラにもいろいろな種類があって、びっくりしたが、太白という名のものと、雨宿と名付けられたサトザクラに、ベニ枝垂れも美しかった。ヤマザクラのトンネルもなかなか壮観だった。

 堀や城壁のまわりもさまざまな照明で演出している。

 道々は、竹をモチーフにした間接照明でほのかに照らし、城郭と、桜と、光りとが、見事に調和して、幻想的な雰囲気が漂っていた。 
Img_6075_2 その桜たちを月が皓々と照らしている。ちょうど、桜の合間から、月が見えていた。ちなみに、このブログのデザインも月とサクラだ。

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玄界灘の春

Img_5564_3  ところで、九州支部の法座は、博多と小倉のほぼ中間あたりの福津市にある施設が会場だ。この時期は、まわりでも新入研修がおこなわれている。Img_5570

 春爛漫。春の先駆けを 飾った桜は、その 盛りをすこし過ぎたところだが、まだ華やかだ。眼下に海が見える。朝、昼、夕、Img_5572休憩時間には、ひとり海岸を歩いた。

 少し冷気を含んだ海風が心地よい。夏には海水浴客で賑わう海岸も、いまは静かで、潮騒だけが響いている。昼間には、均一 Img_5535に広がる海岸線が白く光っていたが、夕暮れ前の海はなんとなく妖艶 な色合いに染まり、美しかった。Img_5536Img_5546

   

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九州支部法座

  九州支部法座。日・月と変則なのは、お寺さんや客商売をされている方の関係だ。西、東のお寺のご住職が多いのも特色。いつも、固定した顔ぶれでこじんまりした集まりだが、今回は久しぶりに20名ほどの参加があった。鹿児島、熊本、大分、福岡、山口と、遠近各地からほんとうに喜んで集まってきてくださるのが、有り難い。若い方(20代)も増えてきたし、初参加の方も数名あった。東京支部からこちらに単身赴任された方もお参りくだされた。この方は、ぼくが、本願寺派の教師教習で同じ班になり、お誘いしたことがご縁なので、不思議にも九州法座で再会できたことが、うれしかった。

 講習会でも話したお釈迦様の一生を振り返り、その意義を聞いていただいたあと、インドのスライドを見てもらった。4名も参加者がいたので、ずいぶん盛り上がったが、ただ単なる旅行ではなく、仏教の源流を辿ることで、それぞれ新たに味わうことが多くでた。心境の上にもかなり影響を及ばしている方もあって、興味深くお聞かせいたいだいた。あとは、東京や高山支部と同様に、総序の前半の真宗教義のエッセンをお示しにくださった所と、「権化の仁」ということで、親鸞様が、涅槃経を引用されたアジャセ王のお救いについて、現代語訳をもとにお味わいした。3度目になると、僕自身も新たに気付いたり、味わったりすることが多い。
 恐ろしいほど、アジャセ王の仏道にたいする疑い、躊躇のこころが、まさに私自身がたどってきたものだといわねばならない。そのことを、すでに如来は見越しておられていたのである。「ああ、アジャセ=五逆をつくり、法を謗り、快楽のために仏法を聞く心のない、それどころか、慚愧のこころすらない=私のために、お釈迦様はご本願を説いてくださったのだな」という真実ひとつのところをまた聞かせてもらった。さらに、それを善友、勝友である同人の皆さん方と分かち合える身が、また尊く思えたのである。

 ありがとうございました。

 

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柳原銀行記念資料館

 4月1日、「ハンセン病問題基本法」が施行された。

Img_5506_2  基本法施行を受けて「ハンセン病問題の現在(いま)~隔離から解放へ~」と、啓発的な企画展が開かれていた。京都市やNPO法人が主催だが、真宗大谷派が後援している。初めて『柳原銀行記念資料館』を覗いてきた。

 展示の前に、会場の紹介。京都駅とImg_5526京阪七条駅に共に近い交通至便の地でありながら、京都観光のガイドブックにも、この文化財に登録されている建物の経緯や資料館にはあまり触れら れていない。たぶん、京都人にしても知らない人が大半だろう。なぜなら、このあたりが、封建時代からつづく被差別部落だからだ。資料館のHPから一部を転用して紹介すると、

 崇仁(すうじん)地区は、京都市では最大、全国でも最大規模の同和地区(被差別部落)です。
JR京都駅の東側に隣接し、京阪七条駅からも至近距離に位置しており、地区内を河原町通りと塩小路通りが東西南北に走っており、交通の便利が大変良い地域です。
 地区内の中心部には高瀬川が流れ、東側には鴨川が流れており、落ち着いた雰囲気を出しているが、地区内をJR東海道線、奈良線、新幹線が横断しているため、駅周辺の町らしい騒々しさもあわせ持っています。

 崇仁地区の歴史(明治以前のところだけ)

16世紀前半(室町時代)六条河原が処刑場となり、河原者が刑務を行っていた。その数、数百~千人。
16世紀後半(桃山時代)六条郷、六条河原から移転。六条郷の成立時期は不明。
1591年(桃山時代)豊臣秀吉、御土居の築造開始。
1663年(江戸時代)六条郷、松原稲荷町から六条河原役田地へ移転。六条村の成立。

1700年(元禄13)銭座村で寛永通宝の鋳造開始。
1713年(正徳3)六条村へ柳原庄の土地を渡す。皮張場含めて3000坪。「水車裏」に非人が移転。

Img_5525  この地に、柳原町(現崇仁地区)の町長だった明石民蔵ら地元有志によって、明治32年(1899年)に同和地区内に認可、設立された唯一の銀行が創建された。
 ところで、江戸時代までには、彼らが、斃牛馬の処理と獣皮の加工、また革製品の製造販売などの皮革関係の仕事、刑吏や捕吏などの下級警察官的仕事、各種芸能ものの支配などの職業を家業として独占していた。
 それで、このあたりにも、皮革関係を生業とする店が多いが、差別のために資金が得られず、貧困に苦しむ地元産業の振興や教育のImg_5519向上に多大な貢献をしたのである。1階には、皮革仕事に関する当時の道具などが展示されていた。その後、金融恐慌の影響を受け昭和2年に閉店。建物は、商店や借家として、塩小路と河原町の交差点に(たしか、茶色のかなり古ぼけた建物だった記憶があるが)、平成6年まで使用されていたのだそうだ。それが、少しだけ場所を移動して、文化財として保存されているのだ。

 柳が風にそよぎ、窓からの枝垂れ桜がきれいだった。(写真では光りで飛んだー)

 なぜ、この地で展示が開かれているのか。障がい者や、ハンセン病(癩病者として)者も、地元を追われ、集団で隔離され、同様に被差別身分としの扱いを受けてきたからである。 

 ところで、「広義の非人とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼等々の総称である」と、『ウィキペディア(Wikipedia)』の非人の項目にあるが、この犬神人と親鸞聖人との関係に触れている展示もあった。

Img_5510_2

 『親鸞聖人伝絵』のうち、「洛陽遷化」(下段の方)で、聖人のご遺骸を延仁寺で荼毘している情景が描かれなかに、犬神人(赤↓印)も登場している。解説では、葬儀の仕事としてではなく、聖人との関係があった説が紹介されていた。犬神人は、「いぬじにん」と読み、牛頭天王を祭る京都の「感神院祇園社」、平安期のむかしから「観慶寺(祇園寺)」と呼ばれた天台宗の末寺で、現在は「八坂神社」(祇園さん)に属し、葬儀や死体に関わっていたというのである。ただし、聖人や真宗(本願寺)との関係は、いまだに推測の域を出ないものである。

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68巻2号の発送

   華光誌の発送。京都支部の3名を助っ人(ありがとうございました)に迎え、7名で作業。手があったので、案外早く3時間もかからずに終了した。

Img_5527  今回は、ぼくは「聖教のこころ」以外は書いていない。誌上法話は、悟朗先生の『生きる喜び』。
 体験記も一新され、随想記事や誌友通信も、新しい方が目立つ。インターネットをご縁にした方の体験記やあれば、何十年ぶりに復帰(東京講演会がきっかけ)された方の手記に、『廻心の体験』をご縁にした真宗のご住職の出言など、多士済々。なかなか心ひかれる文章も多いですよ。

 明日以降、皆さんのお手許に届くでしょうから、お楽しみに!!

  〈告知〉 裏広告の「真宗法座の集い」の案内に、「残り数名」となってますが、その後、申込みが続いて、先月時点で定員となり締め切っています。キャンセル待ち状態です。

 また5月の「永代経法座」の案内状も同封してます。4月18日(土)が、宿泊食事の申込み〆切。いつもより、早めの〆切になってます。〆切前でも宿泊定員がありますので、どうぞお早めに。

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今週の予定

 しばらく法座や行事が続く。いつも週末は法座だが、3月は平日も本派のお寺やカウンセリングWSもあったので、15日間(ちょうど半分)が法座など。有り難いことに、今年はそんな月が多い。このところ、4日後は、また次の行事が始まるという感じで、切り替えがたいへんでもあるが…。

1)九州支部法座 4月5日(日)1時30分~6日(月)4時30分

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/seiten2009-4.htm

 今週は、福岡で九州支部の法座。変則で、日・月。福岡は、桜満開か。
 講習会で予定外に講話した「二種深信」をじっくり味わう予定。あと、お釈迦様の一生を通じて、インドのことも話す予定だが、これでだいたい一巡したので終了。
 初めての方や久しぶりの方もあって楽しみだ。

2)広島子ども花祭り 4月5日(日)11時~14時

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/hanamaturi2009-4.htm

 そのころ、ゆうこは広島。前日から広島入りして、子ども花祭り。会場は新球場の裏側で、新幹線からも見える場所で、開始ごろに通過することになるのかなー。

 後半は、大人、子供交えて「こころの天気」もやる模様。彼女は、先日、小学校に特別講師として招かれて、子供たちに「こころの天気」を教えてきた。その中で、「気持ちキァチャー」とか、「四こまマンガ」で表す気持ちとか、オリジナルにはない、彼女の新しい表現や工夫が、なかなかすばらしかったようですね。

 ぼくも、先日の真宗カウンセリングWSでは、自分の気持ちを天気で表現(ただし、絵は描けないので言葉で)してみたけが、ひっかかったり、モヤモヤしていた気持ちが次にシフトしやすい新しい表現を手に入れた感じがして、かなりヒットした。なかなか自分のほんとうの深いところで動いている、言葉になる以前の気持ちを表現するのは、難しい。「なんでも話せるよ」と豪語する人は、単純な、表層的な喜怒哀楽に巻き込まれているだけで、まったく自分を語れているわけではない。それでも、何十年も法座に出ていても、喜怒哀楽の感情や愚痴だけにふり蒔いているだけなのに、そのことすら気付けないというのも、ちょっともったいないものね。皆さん! ここを勉強してくださいな。法を勧める力がつくこと請け合いです。

3)聖典講座 4月5日(日)1時30分~5時

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/04/kyusyu2009-4.htm

 華光会館では、増井悟朗先生の聖典講座。御文章の『ご命日章』がテーマ。
 ぼくは、同じ日に地方法座が続いて、長い間、聖典講座には出席できていないなー。
 遠方の方には、詳細な解説の通信テープが好評です。

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ひとり旅

 3月29日、長女のお誕生日。やっと9歳になった。

Img_5481_2  誕生日祝いは、本人の希望で、手塚治虫の『ブッダ』を全巻贈った。
 別に勧めたわけではないのに、たまたま図書館で借りてきて愛読中だったが、図書館には全巻なかImg_5482 ったのだ。それがインド旅行の前のことだったので、本人はインドの写真に興味津々。鹿野苑(サルナート)やカピラヴァストウ、祇園精舎の巻もあれば、象頭山(ガヤーシーサー)の巻もある。スジャータやアジャセと題する巻もある。だから、地名や登場人物にもそれなりに詳しくなっていた。

 もっとも、これは創価学会の雑誌に連載されたもので、この出版社もやはりその系列だし、作者のかなり自由な創作の産物ではあるが、まあ、こんなところからでも自発的に関心をもってくれているので、よしとしょう。

 彼女は、体格の成長のわりに、大人ぼいところがあって、かなり5~6年生向きの本を読んだしている。マンガにしても、『ハチクロ』とか『ブッダ』が好きで、普通、8歳の子供が愛読するようなマンガではないものなー。ぼくも読んだことはないので、これを機会に読んでみよう。

 その彼女が、夕方、元気にひとり旅から帰って来た。ひとりで新幹線に乗って、名古屋の姉のところにお泊まりしてきたのだ。京都でも、名古屋でも新幹線ホームまで出迎えが出ているので、ただ名古屋で間違わずに降りるだけなのだが、大人なら普通のことでも、小さな子供が、ひとりで、しかも初めてとなると、かなりドキドキする体験だ。周りの大人も(特に預かる先方にすれば)、号車を確認し、寢ないように、忘れ物しないように注意して、かなり心配しながら送り出した。名古屋では、一家をあげて大歓迎を受けて、ご御馳になり、遊びに連れて行ってもらったようで、ほんとうに幸せそうに、「お姉ちゃんがいるとこんな感じなんだろうなー」と、大喜びしていた。

 一歩、一歩、成長していくのを実感させられるなー。

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