人間模様
講習会が終わってから、仏跡巡拜のメンバーと交歓会。
さすがに、アメリカ、九州と参加者が各地に散らばっているで、全員が揃うのは無理だが、半数の12名が集い、旅の思い出を語り合いながら、楽しく会食した。これまで、アメリカ同行の地への訪米団、中国の祖師巡拜なども各2度を開催しているが、その後も集まるのは仏跡の旅だけだ。前回も、インド料理のアショカという店に集った。今回は、ネバール料理のお店を予定していたが、ママのネバール行きと重なり、残念。
写真の交換会を兼ねて、プリントも観てもらった。便利な世の中になって、デジカメになり、その膨大なデータを、ネット上で共有できるシステムも利用できるようになった。それでも、半数以上の方はネットとは無縁なのて、プリントしたものを選んでもらった。結局、スライド用、プリント用、ネット用と、3回の手間があって、便利になったことに振り回せれるようになったのである。なかには、さらに良いものをと考えてトリミングもする方もあったが、さすがにぼくはそこまでは手が回らなかったなー。
だいたい1500枚と、かなり写真を撮ったと思っていたが、上には上がいて、2000枚以上は撮っている人もいた。上手に、しかも細かなところまで、まめに撮影されていて、感心した。ぼくは、他にデジカメで動画も撮った。
27年前のインドの写真も見たいという話になって、第2回の写真も見てもらった。皆さん、熱心に見ておられる。たぶん、旅行前なら感心も薄かっただろうが、自分たちが訪れた場所が、どんな変化がしていたのか、その違いに驚いたり、もしかすると、お釈迦さま当時からも、あまり変化していないのではないかという悠久の流れも感じて、それなりに面白かった。
でも、「ずいぶん、ブッタガヤは騒がしくなったなー」とか「ルンビニーはまったく違うね」と違いを発見しながらも、いやいや、一番、変化したのは、ぼく自身だということに気付いたのだ。「えー、これが…。わかりませんでした」と、皆さんからいわれること多数。歳月とは恐ろしいものだが、なかには「いまの方が若くみえますね」なんて、いわれてうれしいような、ショックなような、複雑。
たった11日間だったが、ずいぶん皆さんと仲良くなり、一体感が生まれた感じがする。それに、いろいろな楽しい思い出を分かち合って笑うと、さらに高揚感に拍車がかかる気がした。
もっとも、24名も集い、またそれぞれに家族や関わりがあるのだから、何もいいことづくめのはずはない。まさに凡夫の人間模様を感じることも、チラホラとね。
でも、それも当たり前の話で、織り込み済み。
だって、ぼくの中にもいろいろな心がある。108どころか、貪欲、愼恚、愚痴、そした等分と、84,000もの煩悩があるのだもの。それが縁によってさまざまな形で現れて来る。愼恚にも、忿があれば、恨もあり、害もある。それを覆とごまかしたり、悩となやみ苦しんだりする。貪欲だって、妬みすれば、ものおしみでけちる(慳)。そのために騙したり、諂ったりで、ときにのぼせあがり(悼挙)、ときに落ち込み(惛沈)、それでいて無慚無愧、ただしいことを知らない…。まだまだ続くがきりがない。要は、その煩悩(身を煩わし、心を悩ます)元が、死ぬまで絶えないのが私だ。そんな正真正銘の凡夫同士が寄り合って、お互い「我」をぶつけっあって、さまざまな社会や組織を造っているのだものなー。
縁に触れ、折に触れ、さまざな人間関係に触れて、いろいろな煩悩が見事に(毒花を)開花していくのである。百花繚乱だ。
でも、アジャセさんも言っている。
「『世尊、臭い、臭い、わが伊蘭のタネから、清浄な香ばしい栴檀樹が生じたのを、初めて目の当たりにしました。仏法を聞く心のない私に咲いた他力回向の無根の信だ」と。まさに、それは泥の中に咲く清浄の蓮ですね。
でも、まあいくら分かっていても、確かにイヤなものはイヤだし、面白くないものは面白くないだろうなー。
でも、それだけでは終わらないところが、なんとも勿体ないにね。
写真は、お釈迦さまの故郷、カピラバストゥー(カビラ城)跡。(これはスイレン?) ここに、冬も、雨季も、夏も楽しい三時宮殿があったのでしょうね。
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コメント
南無阿弥陀仏
「要は、その煩悩(身を煩わし、心を悩ます)元が、死ぬまで絶えないのが私だ。」そうなんですよね。
「貪欲、愼恚、愚痴、そした等分と、84000もの煩悩があるのだもの・・・」これすべて、教えて戴いた“わたし”の姿。私の都合に合わせて、知ったかのごとく折に触れて使う。
「煩悩の元が、死ぬまで絶えない」ですよね。元が。
この一点に仏願の生起(機)本末(法)が、この“稜ひとり”の為にあると知らせて戴く、もったいなく、尊いことです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 私はインドを含め仏跡巡拝などの経験はありません。しかし、お釈迦様がお生まれいただいたからこそ、七高僧をはじめ多くの方が、教えをつないでくれて、そして、親を選び生まれ、“いま ここに ある稜”こそ阿弥陀様を泣かしに泣かしてきたことを、かりもん師のブログを通じて味わせていただきました。週末の法座、花まつりよろしくお願いします。一大事、一大事。 南無阿弥陀仏
投稿: 稜 | 2009年3月25日 (水) 18:53
稜さん、こちらこそよろしくお願いします。
でも、分かっちゃいるけれど、やめられないのが、凡夫の悲しいところですね。そうして、自らを障げ、他をも障げて、迷ってきたんでしょうが、無明であるがゆえに、それが分からない。
無明長夜の燈炬のお示しが尊いです。
投稿: かりもん | 2009年3月25日 (水) 23:23