頭を垂れて聞く
輪読法座。
華光誌を読む。
平日の午後。始まった当初は、喜んで参加されていたのに、いつのまにかお見かけしなくなった方もある中で、 たまたま仕事が休みだったのでと1年以上ぶりで参加された方があれば、わざわざ有給休暇を取って東京から参加者もあった。また水曜日が定休日だかと、名古屋から姉も初めて参加してくれた。平日の午後にもかかわらず、集まってくださった皆さんに感謝である。
分かっているつもり、一度、サァーと読んだらそれでお終い、もしくは「誌上法話は難しいそうなので、パス」といって中で、こうしてわざわざ集ってきてくださった皆さんと、声にだし順番に輪読していく。中には疑問点も出て来る、わからない箇所もあったりする。ひとりで黙読していたときには気付なかったり、絶対に味わえない気づきもある。少人数とはいえ、観衆の一員として声に出して読むだけでも、緊張感が違うのだろう。
最後の章、「頭を垂れて聞く」。要約する以下の感じか。
頭が高いとこの法は届かない。頭を垂れて聞かせてもらう。知るのでも、得るのでもない。己を空しくして、教えを請うていく姿勢。己に当てはめて、「ほんとか、ウソか」「響くか、響かないか」というような聞き方しかできない。でも、たった一度でいいので、そんな驕慢な姿勢は捨てて、この私にかけられた本願-本願を信じ念仏申すものは、必ず仏にしてみせるぞ-という阿弥陀様のお心と、本気になって真向かいになってみる。そして、「どうか聞かせてください」と、頭を下げて聞いてみる。「わからん、わからん、どうしたら、どうしたら」と堂々巡りで繰り返すわりに、これまで、一度でも、「聞かせてください」と、頭を垂れて聞いことがあるだろうか。生死を離れて、仏に成る一大事がここにあるのもかかわらず、いつも踏ん反り返って、「聞かせてみい、救うてみい、わからんぞ」と大きな顔してるから、阿弥陀様が頭下げておられるお姿がわからない。普段の生活なら、わからないことを教えてもらうときは、「すいません」と頭を下げ、教えてもらったら「ありがとう」とお礼をいうのに、後生の一大事を聞くときには、その頭が下らない。でも下ったことのないい頭を下げてみると、私の方からじゃない、仏様の方が南無の心で頭を下げて、私を呼んでくださっていることがわかる。自分から聞くんじゃなかった。仏様の方が先に南無して、「どうか聞いおくれ」と頼んでくださっていた。ほんとうに何も聞いてない自分むかって、この下がらん頭を撫ぜて、「どうぞ」と先手をかけて私を信じきって呼んでくださってる南無阿弥陀仏の六字様がおられたことが、ハッキリする。一文不通のこの泥凡夫そのままが、本願を信じ、念仏申さば仏に成る、仕組みが南無阿弥陀仏の中に出来上がっている。南無のこころは、私のこの何でもありの腹底に、南無阿弥陀仏と飛び込んで、私を呼びかけてくださってる。だから、分からないことがあったら、頭を垂れてほんとうに尋ねてみてください。必ず道は開けます。「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と、先手をかけた念力で、この私が念仏を喜ぶ身になる。そうさせてみせるぞという親がおられるわけです。
「分からないことがあったら、頭を垂れてほんとうに尋ねてみてください。必ず道は開けます」
とのご意見を、ただ頭を垂れて聞かせてもらうだけなのに、
今は「頭を下げる」気にならないとか、
そんな殊勝な奴ではないとか、
下げる気がないから失格だとか、
下げても何も変わらんのではないかとか、
どうしたら「頭が下る」のかとか、
頭が下った後はどうなるのかとか、
有り難くもないのに、下げたくないとか、
そんなのは方法論じゃないかとか、
どうしても頭が下らないとか、
理屈じゃわかるが、腹底からそう思えんとか、
まあ並べる並べる。
聞いているつもりで、まったく、頭を垂れて聞いていないなー。
自分の気持ちや、考えや、思いや、姿勢は、教えと違っている。だって迷っているのだから。だからこそ、まずは正しく教えの鏡をいただかない限り、絶対に聞こえるわけはないのた。
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コメント
南無阿彌陀佛
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一茶翁曰く
ただ自力他力、何のかのいふ芥もくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は、其の身を如来の御前に投げ出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申すばかり也。
投稿: はらほろひれはれ | 2009年3月16日 (月) 01:11
歎異抄の第12章も、ご文章の八万法蔵章も、その源は、法然上人の「一枚起請文」にあります。
「念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし」
投稿: かりもん | 2009年3月17日 (火) 22:08