図説釈尊伝『シルクロードの仏たち』
旅行の資料を作成にするために、釈尊の伝記や教義的な本以外に、仏跡巡拜の旅行記やガイドブックを集めた。
『遺跡にみる仏陀の生涯』は、前回は最新資料だったが、いまは古本でしか手にはいらない。でも、ネットなら新品同様で簡単に入手できる便利な世の中になった。
いまなら、前田行貴著の『インド仏跡巡拜』があれば、ぼくたちの旅行なら十分だ。
あとは、岩波新書の丸山勇著『ブッダの旅』は、新書判のわりにカラー写真が豊富で気軽に楽しめる。
手軽な写真集で生涯を辿るなら、河出書房新社の図説『ブッダ』もおすすめ。
もう一冊ならば、講談社選書の白石凌海著の『仏陀を歩く』~誕生から涅槃への道~あたりが、少し教義的なことにも触れている。
少しだけ毛色が異なるおすすめは、図説釈尊伝『シルクロードの仏たち』。口絵以外の写真は、白黒だが、インドやガンダーラ、ボロブドール、そして敦煌などの初期仏教美術-仏像やレリーフ(浮彫)や現地の写真を通して、釈尊の生涯のみならず、その前生譚やさまざまエピソードをたどっていくもの。その仏跡地そのものに捕らわれないで、イキイキとした釈尊の生涯が、仏像やレリーフで綴られている。そのひとつひとつが史実かどうかよりも、大衆にどのようにブッダの教えが受容され、そして崇拝されていったのかが窺えて面白い。
ところで、釈尊誕生の年代は、南伝、北伝などがあって定かではない。大きく、紀元前566年に生誕のBC486年入滅という南伝系の説と、紀元前463年に誕生され、BC383年の北伝説などがある。中村元博士は後説だが、紀元前3世紀中頃のアショーカ王の年代から推定されているわけだ。そのアショーカ王は、中国でいうと秦の始皇帝よりも少し古い。しかし、その後、イスラム教の侵攻などで荒れ果てた仏跡地の多くが、紀元前に建てられたアショーカ王の石柱が出土し、発掘調査がおこなわれたおかげでなどで、その位置が推測されているのである。いずれも19世紀後半から20世紀のことである。
そのアショーカ王時代にはまだ仏伝図はなく、だいたい紀元前2世紀ごろから、釈尊の伝記物語が生まれて、仏伝図が造られ、その後、仏像が造られていくようになる。
ご承知のとおり、釈尊自身は、自己を礼拝や信仰の対象とはせず、当然、仏像などはなかった。しかし、釈尊入滅後、その遺体が荼毘にふされた時、ブッダの遺骨 をめぐって大国間の戦争へと発展しかねない状況だったのが、舎利(遺骨)を八分割し、釈尊を慕う人々の間で公平に分けられた。その仏舎利を納めるためにストゥーパ(仏塔)が建てられ、礼拝の対象となっていった。
ストゥーパの周囲には、釈尊が前世での修行物語である本生説話(ジャータカ)などをモチーフにした、レリーフが刻まれるようになったが、釈尊があまりにも尊い存在だったたので、その顔や姿が顕されることはなく、悟りを開かれた菩提樹の木や、釈尊の足跡を石に刻んだ仏足石、法輪などが釈尊の代わりとして刻まれた。ブッダなき仏伝図だった。み跡を慕うという言葉があるが、言葉どおり、当時の人々は、釈尊のお姿ではなく、そのみ跡を崇拝し、その歩みのごとく仏道修行に励まれていたのである。
しかし、その後、時代が経る連れて釈尊追慕の念がますます高まると、BC1世紀頃から、仏像としての表現がなされるようになる。仏像生誕の地はガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)ともいわれ、ほぼ同時期にマトゥラー(インド北部)にも仏像が作られるようになり、仏教伝播と同じく東アジアのほぼ全域へも仏教が広がる推進力のひとつにもなっていくのである。
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コメント
インド仏跡巡拜についての先生方や御同行様方のお話は有難いです。これからも楽しみにしてます。
ここに御紹介頂いた本についても出来るだけ読ませていただいて私なりの「インド仏跡巡拜」を致したいと思います。
本と言えば、ここのところ、以前買ったままでじっくり読んでなかった本をまとめて読む機会がありました。
その中で仏教関係では
『講述 大乗起信論』(冨山房)
戦前の望月信亨先生の御著書です。最近は、中観系の先生方の御著書ばかり読んでいた為、『起信論』系にはなんかバイアスがかかっていましたが、望月先生の解題と講義(常盤大定先生の説への批判という形になっています)を拝読するうちに、きっちり勉強させていただく必要を感じました。
勿論、原典(といっても漢訳のみ。インド撰述か中国撰述かは未だ決着してませんが)を押さえたうえで、地論(北道 南道両派)、摂論、華厳、三論、真言、天台、浄土など各派の解釈や、法相や天台の一部からの論難を読み解いて考えていく必要があると思いますが、素人の私にとっては難題です。
最近は森田療法の種々の問題にも関心がありますので、仮もんさんが以前、道元禅師の映画に縁して触れておられた「あるがまま」の本覚思想の問題は身近の問題としてあります。立松和平氏の小説『道元禅師』にも、初めは、法然上人の専修念仏についての批判書を書かれながら、後に法然上人に帰依なさった三井寺の公胤和尚が、禅師と本覚論について問答された後、建仁寺の栄西禅師への入門をお勧めになる有名な場面でも、和尚は、「あるがまま」の五大院安然和尚以来の天台本覚思想を展開される文脈のなかで、「阿弥陀様の御救いをいただかないことの方が難しい」と言った意味のことを仰る場面が印象的です。色んな意味で意味深(批判的視点も含めて)な御言葉だと思いました。
『瞑想の心理学』(法蔵館)
著者の可藤豊文先生は、理系出身で後、大谷派で学ばれた方で、チベット仏教や、スーヒィズム(イスラーム神秘主義)、ヴェーダンタ、キリスト教神秘主義の実践もなさった方だそうです。
そうした、経験を踏まえたうえで、親鸞聖人や、一遍上人の御言葉を引用されて、浄土門の御立場から『起信論』を御味わいなさっています。
『思想としての仏教入門』(トランスビュー)
著者の末木文美士先生は非常に有名な先生ですね。本覚思想、如来蔵思想、唯識思想批判を踏まえたうえでの、近年の仏教思想研究を取り巻く状況を鳥瞰できます。
『唯識思想と現象学』(大正大学出版会)
著者の司馬春英先生は大谷派の方のようです。上田義文先生の説への批判なども含めながら、仏教の存在論や形而上学へのスタンスを詳論されている力作です。北山淳友先生のことについてもこの著書で教わりました。しかし、何分、フッサールとか現象学には頓珍漢なので???の箇所も多いです。M先生あたりの感想を聞きたいところです。
『仏教のコスモロジー』(春秋社)
うえの仏教と存在論について問題意識をもったうえで読むと大変勉強になります。
『法華経入門』(岩波新書)
著者の菅野博史先生は、創価大学の先生であり、その経営母体の教団シンパの方のようです。『法華経』についての基本的な理解の整理に便利です。同じ(総称)日蓮宗勝劣派系で上記教団(やその母体宗門)とライバル関係にある(本門)法華宗(日蓮宗八品派)系教会の在家信徒であられた田村芳朗先生の『法華経』(中公新書)と読み比べてみるのも面白いです。田村先生は本覚思想研究の近年の権威者でもあります。
「願力所生説」の立場から、『法華経』を、「自力/他力」と比較して、「誓願の宗教」と位置づけられているのが印象に残りました。
『密教』(岩波新書)
著者の松長有慶先生は、真言宗の有名な学者です。
この本も、密教についての基本的な勉強や、知識の整理になります。弘法大師の六大縁起の解釈についての解説は勉強になります。個人的には日本には伝わってないインド後記密教の天地創造神的な性格を持つ「本初仏」発祥のプレ段階に阿弥陀信仰が関わっていたことを示唆する記述が興味を引きました。
『インドの「一元論哲学」を読む』(春秋社)
著者の宮元啓一先生は有名なインド哲学者。
ヴェーダンタ哲学の巨匠、初代シャンカラの主著わかりやすい解説です。上記の密教、大乗仏教との関連についても勉強になります。仏教の「師資相承」思想の起源について考えさせられます(「教判」思想の起源については別の機会に考えられましたが)。
御釈迦様のすべての衆生に対して開かれた姿勢をあらためて有り難くいただきました。南無阿弥陀仏。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年3月 1日 (日) 13:00
おそれいりやした。
紹介したものは、ほんとうの現地の旅行記、ガイドブックや写真集の類。でも、実際にそこに立たないと経験できないことだらけだと、皆さんの異口同音の感想。
次回があるのなら、今度こそは行きましょうや。
投稿: かりもん | 2009年3月 2日 (月) 01:17