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『この自由な世界で』

 『この自由な世界で』は、見応えのある濃厚な作品だった。時間は、100分にも満たない小作だけれども、さすがは、大御所ケン・ローチだ。金権主義、グローバル化された現代社会の闇を鋭く切り取りながらも、社会の矛盾を告発するような正義感の社会派ドラマとしてではなく、しっかり市井の小市民のこころの光りも闇をも描き切っている。単純な善悪二元論の分類ではなく、「さるべき業縁の催さば、いかなる振る舞いもすべき」人の性のおぞましさを、見応えのある人間ドラマとして描いているところにある。いつもながらの重層的な味わい深い作品で、本作の余韻が渦巻いてしまって、間をあけずにみた2作目(悪くなっかったのに)が霞んでしまった。

Konojiyu_01  ロンドンの下町で暮らす30代の女性、アンジーは、EU圏内(特にボーランドのような旧東欧圏)で雇った安価な労働者をイギリスに派遣する会社で働いている。美人で、仕事にも熱心だったが、理不尽にも突然解雇されてしまう。彼女には、まもなく中学生になる男の子がいるシングルマザーだった。経済的にも苦しく、養育は両親にまかせて、ひとり頑張っている。首になってもへこたれることなく、学歴がありながら単純労働に甘んじるルームメイトと共に、前職のノウハウを生かした、日雇い労働者の派遣ビジネスを立ち上げることにした。文字通り、ゼロからの出発だが、最初は、もぐり営業。きれいごとですまないことは分かっている。軌道にのるまではと言い訳して、税金をごまかし、手数料をピンハネし、労働者の宿舎賃であくどく儲けていく。一方で足元をみられて、賃金を踏み倒されたり、未払いの賃金を労働者に迫られて、脅迫や傷害などの悪戦苦闘の毎日。搾取の一方では、貧窮した不法滞在の移民に力を貸して本気で肩入れするのだから、人間は不思議だ。

 また、母親から引き離されたわが子は、学校で荒れて問題を起こす。思春期の不安定な時期に、母親が必要だとわかりながらも、年老いた親にまかせきることしかできない。実直な典型的な労働者としてリタイヤをした両親には、娘の危なげな姿が気がきではない。しかし、親の忠告も、「批判ばかりで、女ひとりで、ここまで頑張っている私を評価してくれない」と、一介の労働者として終わった父親に反発し、すぐにぶつかってしまう。それでも子供のことも、両親のことも愛しているのだ。

 さまざまな修羅場で傷ついた末、儲かるためには、不法と知りながらも、より安価で、従順な労働を求めて、偽造パスボートによる不当移民の斡旋に手をそめていくようになる。自分の目的達成のためには、弱者をも踏みにじる血も涙もない行為をし、共同経営者にまで逃げられてしまうが、もう後戻りはできない。

 この作品の視点の面白さは、本来ならば、仲介業者に搾取され、ろくな保証もないまま不安定で劣悪な労働環境に甘んじている先進国(イギリス)の移民労働者が主役になりそうな中で、資本側と労働側を仲介する、もぐりの仲介業者にスポットライトが当てている点だ。リストラされた、若いシングルマザーの彼女も、社会的弱者なのである。ほんらいなら、気立てのよい、明るい母親であり、女性であるだろう彼女が、自己の幸せを買う為には、他者の犠牲も厭わず、エゴ丸出してで、さらなる社会的な弱者を踏みにじっていかざる得ない。その現代の資本主義、自由経済の構造的な悲しみを、ひとりの名もない女性を通して描いているところにある。

 彼女には、光りも、闇も、やさしさも、非道さも、誠実さも、さまざまな面が混在しいている。そして、一線を越そうとしたときにも、実は何度も引き返し、やり直す出会いがあった。子供の発する警告、斡旋で知り合ったボーランド人の恋人のやさしさ、共同経営者との決別、そして父親の厳しくも慈愛の溢れた忠告…。しかし、恐ろしいことに、「この自由な世界」の中では、「もう少し、もう少し」、「このくらいなら、このくらいなら」と、自分や家族のささやかな幸せや成功を願う彼女のブレーキは、いつのまにか効かなくなってしまっているのだ。さほどの罪悪感をもたないままに…。

 改めてタイトルの「この自由な世界」(it’s a free world)のネーミングの意味深いをおもう。この「自由な世界」とは、生き残るためにはなにをやってもいい社会という意味である。同時に、それはすべてに「自己責任」だという一面もある。自分が搾取され、下層階級に甘んじていても、他人や社会は一切頼りにならない。自らの手で、他の弱者を食い物にしても、立ち上がっていくしかない。頑張って、成功し、幸せになることがなぜ悪いのか。それもまた自由な才覚なのだという厳しい現実を、リアリティー溢れる切り口で描いているのだが、いまこそ、ほんとうの意味での「この自由な世界」とはどういう意味なのかが問われいる気がした。

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映画(欧州・ロシア)」カテゴリの記事

コメント

 インドから無事の帰国でなによりでした。皆さんの引率で、お疲れだったことでしょう。詳しい土産話をお聞かせてください。私も、一度は、仏跡巡拜をしたいと願いつつ、インドと聞いて勇気がでないのも事実です。でも、次回があれば、今度は参加してみたいですね(たぶん?)。

 なかなか紹介された映画を観に行く機会もありませんが、いつも刺激を受けて楽しみにしています。この映画も、読んだだけでも、すごく教えられる気がします。チャンスがあれば、見てみたいです。

投稿: 桜貝 | 2009年2月17日 (火) 01:04

遅ればせながら、無事の帰国&
お誕生日おめでとうございます!

頑張って、成功し、幸せになることがなぜ悪いのか・・・。
アンジーと自分が重なって、どきっとさせられました。

私も、この映画見てみたいです。

投稿: Anne | 2009年2月17日 (火) 08:20

 桜貝さん、Anneさん、暖かいコメントありがとう。
 毎日が濃厚で、有意義な旅でした。

 まだ家庭のない若者か、リタイアした世代じやないかぎり、一般にはなかなか10日間以上休むのは難しいですからね。暇ができたら、今度は体力に自信がなくなっていたりしますから。今回は、参加希望者は、倍ぐらいありましたが、結局、なるようになるわいと思い切った人だけが、得をしたんじゃないかなー。

 この映画はなかなか面白いですよ。知らず、知らずに、罪悪感が薄れ、歯止めが効かなくなる社会状況をうまく顕しています。ラストも「希望があるの?」、それても「絶望なの?」と考えさせられます。

投稿: かりもん | 2009年2月17日 (火) 13:35

最終日の最終上映時間ぎりぎりセーフで見てきました。
子供を連れてモンスターズインクを見に行って以来の映画館(10年ぶりくらい?)映画なんてあとからビデオで見ればいいという誤った?考え(そう言いながら まず借りない)が覆されました。
あ~見ごたえあったなあ。
古いにもほどがある、とつっこまれそうなのでスルーして下さい。
「いや~映画って・・・・・」と言ってしまいそう!

投稿: relax | 2009年4月17日 (金) 23:06

 relaxさんもとうとう観にきましたか。Anneさんも、観たそうですが、全然、古くないよ。このあたりが、地方格差で、こんな映画はずっと遅れてでも、まだ地方で上映されるだけ、上等です。
 きっと「メトロ劇場」だよね。このあとのライナップからみると、ここでもエントリーした、「禅」「おくりびと」もあるようですが、これ以降の洋画のおすすめでは、

 ハラハラする実話に基づくサスペンスタッチの「パング・ジョブ」は、楽しめます。
 心にジーンと染み込んで、その温かさに涙が溢れる、世界一高齢者の集うコーラス隊のドキュメント「ヤング@ハート」。
 名優同士の見応えのあるセリフの応酬がすさまじく、考えさせられる「ダウト」~あるカトリック教会で~
の3本がはずれないです。オダギリ・ジョー主演の「プラステック・シティ」は、いまひとつ退屈でした。 

投稿: かりもん | 2009年4月19日 (日) 00:08

>>自分が搾取され、下層階級に甘んじていても、他人 や社会は一切頼りにならない。

その通りです。僕はそれを小さい頃から実感してきました。そして、分からなくなっています。なぜ、自分が悪人だといわれなければならないのか?

悪いのは弱者を踏みにじる権力者や強者ではありませんか。社会的弱者に何の罪があるというのです?

真宗でもキリスト教でも罪悪を問われるのですが、自分は虐げられてきた立場なので、被害者という思いが強く、だから、自分は悪くない!と思うのです。これ、正直な気持ちなんですね。

まったくもって極重の悪人ということが分からない。

投稿: 阿波の庄松 | 2010年1月22日 (金) 07:02

阿波の庄松さん>

 自分が虐げられてきたという被害者意識が強くて、その上「悪人」決めつけられることに、抵抗があるんですね。
 たしかに、私達は、この社会のなかで活きている以上、よりよい社会をめざしていくことは当然です。そのために主張することもあると思います。

 同時に、仏法は、社会のシステム中で行なわれていることや、その社会、私自身を虚仮不実の迷いの存在としてみられている仏さまのお言葉とは、やはり一線を画しているのではないでしょうか。出世間の言葉、仏智で教えてくださる言葉を、世間の言葉で計ってもわらかない。でも、私は、その物差しでしかみられない、だから無明と言われるわけでしょう。
 その闇が晴れない限り、たとえこの世の中での成功したとしても、迷いのタネや苦しみのタネでしかないというのが、仏様の言葉です。世間で、正しいということであっても、その裏でどれだけの罪業を造っているのか、ほんとうの自分を教えてくださるのが、仏さまではないでしょうか。その上で、自利利他円満した南無阿弥陀仏を鏡にしたら、私はどんな物柄かをお聞かせに預かるわけです。
 最初から、悪人と思える人はいなしい、極重悪人を救うというご本願は、けっして世間的な意味で、悪人と責めているわけではない。ただ、自分がみている自分ではなく、仏様のおしゃっる自分を聞かせてもらうわけでしょう。聞くことは、簡単なようだけれど、己を空しくせずには届いてきません。

投稿: かりもん | 2010年1月22日 (金) 23:44

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