寒中仏青研修会~座談会が苦手な君へ~
昨日、今日と、粉雪が舞う寒い1日。数日前の寒中仏青研修会は、「寒中」は名ばかりで、春の陽気だったのに比べると、一気に真冬に逆戻りで、寒さが身に沁みる。
仏青の諸君には、ささやかなインド土産を用意していたが、足りないことを心配するほどの盛況ぶりだった。初参加者が8名もあったが、S会関係の新人はなし。そのかわり、7名までが、真宗の寺院の子弟だった。それもいろいろなルートの参加。ゆうこの同級生の大学院生の学生、仏青のメンバーの元大学の教え子、華光同人の娘さんがその友人(お寺の方)を連れて参加されたりもした。ほんとうの意味での、求道・聞法という姿勢までには至らなかったように思うが、それでも華光の法座に触れてもらっただけでも、大きな前進である。若い僧侶には、これからの期待もあるし、今後の展開も楽しみになってきた。気がつくと、仏青メンバーも、少しは学生世代も増えてきて、新鮮な顔ぶりになっている。その意味では、過渡期で、これまでの主力級のメンバーとの世代間で力量にギャップがあるのも事実だ。
華光に来て間がない参加者から、少人数での分級座談会が苦手だという発言があった。まだ、大勢のひとりとして法話を聞いたり、一対一で話すのはいいが、7、8名の少人数でも車座になって何か感じていること、聞いたところを発言しろと迫られると、困惑するという。そして、ビビッているうちに、ますます発言が、いま、ここでの、自分を離れ、具体性に欠けた、「どうしたら」の方法論やグルグル回る頭の思考が中心になってしまい、自分が抜けて、ますますみんなに受け入れてもらえた感じがしないようだ。
もちろん、発言が苦手だという個人の資質もあるだろが、それ以上にお育ての違いが大きい。子供大会から育ったメンバーなら、たとえ仏法が嫌いでも、分級が苦手でも、そのことをうまく表現することが出来る。法話を聞いたら、テーマは何か、何が話されたのかということと、そのところで動いた自分の感想や思いを分けて捉えることが出来るのだ。別にそのことを強く意識しなくても、自然と身についているように思える。このこと一つでも、お育ての尊さを感じのだが、そうでない人は、いまさら歎いていても埒は明かないのだから、それなりの工夫をし、分級座談に臨む必要があるのだ。
いまの学校教育では、自由な気持ちを思いを発言をする機会は少ない。子供たちに求められているのは、「正解」を決められた時間内で、定められたルールに基づいて出す能力である。時に、個人の主観に属する意見や気持ちを尋ねられるが、教室内での教師の求めるある種の正解があるのだ。いかに空気を読んで、その「正解」を早く出すのかで、優秀な子供が選ばれるシステムだといってもいい。だから、そのままの姿勢で、華光の座談会に初めて出て、戸惑う人が多いのも仕方がない。または、一方的に法話を聞くだけだったり、法話のポイントをただ覚えて正解を並べる能力を磨いていた人にとっては、空気を読んだ「正解」を並べたときの、みんなの冷めた反応に戸惑うことも多いのではないか。そこで、強く批判されたりすると、何をどう話したらいいのか分からなくなる。そして、どうも座談会が苦手だという、苦手意識にますます頑になってしまう。。
確かに、いま、ここでほんとうに感じている気持ちを、自分の言葉で表明することは、至難の業だ。自分の身に添った言葉を出すには、自分の中で、いま、確かに動いている、言葉になる以前の感じに気づき、それを言葉として発する必要があるからだ。実は、相手を聞くのもそのところで聞き、自分を語るのはそのところで語り会うしかないのだが、そのことを意識しながら、信仰座談会を臨んでいる方は、ほんの一握りでしかないのも事実だ。たぶん、大方はそんな意識をせずとも、長年のお育てで自然と身についていのるかもしれない。そのところを、促進できる司会者の養成も大切だ。
その点をわかり易い表現で示したのが、今号(68-1)号の巻頭言「心の天気を感じてごらん」なのだが、示唆に富んだ指摘なので、もっと座談会の席で生かせたらと思う。もし、本気でご法を勧めたいと願う人や、どのように発言したらいいのか悩んでいる人は、このあたりもしっかり学んでほしい。いや、もう私はいまのままでよいのだと、成長を望まない人は、それもいい。その方は、その方で、しっかり自分の問題としてご聴聞されればいいのだから…。ただし、近い将来、「座談会は変わってしまった」と、自分の勉強不足を棚に上げて、相変わらず歎き、愚痴をまき散らすことになるのは、ゴメン蒙りたい。
さて、苦手は苦手としても、せっかく華光とのご縁ができたのだ。カメが甲羅に隠れるように、嵐が去るのを待つように座談会に臨んでいても、いつまでも空しいだけだ。もう一歩、勇気を出して、自分を表明してみよう。聞いたところを、率直に話してみよう。覚えたことや、考え方を表現するのではない。だから、何度も何度も、直されたり、聞き間違いを指摘されることだろう。時には、受け入れられずに傷つき泣くこともあるかもしれない。でも、それが仏法聴聞じゃないのかなー。自分の枠でしか聞けない、その枠を破ってもらうのだから、黙っていては意味はない。苦手の座談会こそ、ほんとうに自分を聞かせてもらう絶好のチャンスなのである。悪循環を断つには、自分自身が腹を括って、甲羅を硬くしたカメを止めて、俎の鯉になるしかない。そうすると、きっと上手に料理してもらえるはずだ。
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