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プラネタリウム

012  今月の仏青例会は、東福寺の塔頭を借りてのお茶会&信仰座談会。アメリカからの浄土真宗を学ぶために留学生や、初めての学生さんたちなど、少人数ながらユニークな顔ぶれだったと聞いている。指導教授からの依頼で、留学生を世話するために連れ合いが出かけたので、その間、子供二人を連れて、深草(藤森)にあるプラネタリウムに出かけた。

 今年は、ガリレオ・ガリレオが、初めて天体望遠鏡で、宇宙を科学的に観察してから、ちょうど400年にあたり、「世界天文年2009」の記念の年だそうだ(→http://www.astronomy2009.jp/)。いやー、いろいろな行事があるもんやね。それで、フアンタステックな美しい星空をみせるというだけでなく、ガリレオの功績を讃える特別なプログラムがあって、大人がみても興味深く、改めて感心した。010

 まず、教会の権威が揺るぎない天動説だった時代に、自己の科学的検証によって、地動説を支持するガリレオ。いまでは、小さな子供でも、地球が自転しながら、太陽の周りを回っていることを知っている。でも、これは知識や映像として知っているだけであって、どうも個人の日常の実感のレベルでは、(まあ、船や飛行機なんかて移動しない限りは)、やっぱり地面はどこまでも平面であって、太陽や星が動いているという実感しかもてないもの。(天動説でも球体なんだが、それ以下やの感覚ね、われわれの実感って)。それだけ人間の尺度は小さいのだなー。だから、太陽や星の動きをあらわす表現も、あいかわらず地球を中心に考えている。まさに、どこまでも自己中心の、蛸壷はいたしか方なしだ。それに、聖書の解釈による教会の教権や権威が重くのしかかり、世俗の権威以上に、教会権威が至上だった時代に、異端を宣言されることは、この世だけでなく、あの世にも居場所がなくなる恐怖そのもの。これは今日の我々には想像できないことであろう。

 その中で、今から考えるとあまりにも粗末な天体望遠鏡で、恐ろしいまでの観察眼によって天文学の世界に大きな寄与をしている。その粗末な天体望遠鏡によって、

1)それまで滑らかであると信じられていた月が、実はクレーターがあり、山あり谷あり(水はないが海と命名され)の凹凸のある世界であることを観察し、
2)また、月以外にも、金星にも満ち欠けがあり、大きさまでがかわることを発見し、
3)そして、木星を周りを回る4つの惑星(ガリレオ衛生)を発見し、
4)完全無欠と思われていた太陽に、黒点があることも発見などして、
 神が創造した完全無欠・完璧な宇宙を根拠にした天動説に対して、地動説を支持することになったのだそうだ。

 単に天文学に留まらず、数々の科学分野での画期的な手法は高く評価され、教会やアリストテレス哲学の配下にあった科学の独立に寄与し、今日では、「科学の父」と呼ばれることになっている。しかし、当日は、教会の異端審問で地動説を捨てさせられ、軟禁状態に置かれたり、著書は発禁、太陽の観察で失明するなどの失意の生活を余儀なくされている。有名な「それでもそれは(地球)は回っている」と、つぶやいたという伝説もあるが、教会の圧倒的な権威で、神の前で、自ら信念を捨てる宣言をさせれらた時の心境はいかばかりだっただろうか。 

 ちなみに、ブラネタリウムでのレクチャーとは別だけれども、この時の裁判について、正式に謝罪があったのは、350年後の1992年のことだそうだ。ほんのつい最近。しかもその後もゴタゴタがあって、昨年12月のクリスマス前に、世界天文年2009年に合わせて、改めて教皇からの謝罪があったそうだから、その意味では、なかなかとんでもない話だ。

 まあ、洋の東西、時代は変われども、強大な宗教的権威のその体質は、似たりよったりやたなーという実感はありますが……。

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