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報恩講で味わったこと(1)

  報恩講の法話の感想はここに書いたが、
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-3a77.htm

 その後、感想のメールや手紙をいただいたことで、改めて法座での味わいが、ポッ、ポッと浮かび上がってきてハッキリしてきている。

 まず、そのひとつめ。

 仏法は不思議なものだ。法座が終わったあとで、ひとりになった時に、いろいろとお味わいが浮かんできて、静かにお念仏させてもらう。そうかと思うと、ご法座で、同信念仏者と交わり、共に念仏讃嘆させてもらうことも、また格別の楽しさである。要は、自分が喜ぶといっても、実は如来様が喜んでくださっているのだ。だから、ひとりでも、大勢でも、さまざまに味わえ喜べるのが、尊い。  

 ところで、親鸞さまは、二十願のこころについて、「念仏を称えながらも驕慢心でなし、つねに名聞利養のこころで応じて、我執でおのづからが覆われて、『同行・善知識に親近さぜる』がゆえに、好んで雑縁に近づいて、自らだけでなく、他人の往生まで妨げることになるぞ」との善導さまのお言葉を引用されている。また、蓮如上人も、「わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり」という、独覚心について戒められている。

 ひとりで「聞いた、聞いた」とうぬぼれていると、たいへんな大間違いをするぞというのでる。だから、同行・善知識に親近して、お聞かせに預かれよとのご親切である。

 別に法座に出なくても、仏書も読める、テープやビデオも同じ内容のものが聞ける。もしかすると、書物で読んだほうが、頭によく入るかもしれない。テープの方が、繰り返し、繰り返し聞けるかもしれない。しかしである。足にかけて、その場に出ることでしか得られない、一度きりの体験こそが貴重なのだ。ちょうど書物でも文字と文字、行と行のあいだ、つまり行間から滲み出るものがあるように、法座も、法話や座談だけではない、その場に足を運び、身を浸らせてもらっているからこそ味わえる雰囲気もある。
 昨秋『落下の王国』という、世界遺産をロケ地に、それはそれは贅沢なロケで綴られたおとぎ話のような美しい映画を見た。絵も、音も、構図もすばらしく、まるでその場にいるかのような臨場感がある。しかしである。その匂いまでは伝わってこない。なんとなく手触りまでも感じられても、手にとっているわけではない。暑さ、寒さも感じない。どんなに近づけてたとしても、映像では、五感すべてを総動員して味わうことは不可能なのだ。(そこを想像力で補う楽しさはあるが…)。疑似体験はあくまで、疑似でしかない。

 その意味では、「出」て聞くことは、とても意味深い。「出」て「会」うから、出会いなのである。自らのところからとき「放す」から、「話す」のである。頑なにひとりで黙々と聞いていても、結局、法にも、自分自身にも出会うことはできない。聞法は、先輩同行や先生に積極的に近づいて、教えを請うことがもっとも早道なのだ。それは、何も、法話や座談会だけではない。食事時間にしても、懇親会や休み時間にしても、ナマの姿、声に触れていく。なにもご法の核心部だけを抽出しなくても、雑談のなかにも、珠は輝くこともある。それに、それは、一方的に「ハハーハ」とひたすら拝聴することでもない。「出」るのは、なにも家を出て、法座に出席することだけを指すのではない。からだは会館まで出てきても、なにかを隠したり、誤魔化したり、合わせたりして、こころを頑に閉ざしている限りは、やはり「出会う」ことはできないのだ。その意味では、自分を出て、聞かせていただくしかない。自己の居所も開いて伝え、その間違いを教えていただくのである。それは何も恥ずかしいことでも、恐れることでもない。絶対に、自分で自分が見えないように、自分を聞くことは自分では出来ないのである。だから、間違ってしか、歪んでしか自分の姿が聞けないし、そこで妙なものを握ってうぬぼれていくしかない。そのわが身のありのままの姿を教えていただくことが、聞法であり、出会いなのである。

 だから、仏道は、友同行に囲まれ進み、善き知識にお導きいただき聞いていく道だといっていい。特に、在家止住の凡夫なら、なおさらだ。いったん、糸が切れれば、今生の楽しみに心奪われて、どこに行くかもわからないのが、お互いの姿だ。もう目も当てられない。そこを、時に励まして、時に厳しく叱り、時にやさしく慈愛を降り注ぐ、同行や先生がいてこそ、この五濁・末法の悪世でも、聴聞の場に引き戻していただけるのである。ならば、努めて同行・知識に親近してお聞かせに預かろう。

 ところで、また仏道は、「ひとりのしのぎ」の場である。ひとりで聞く、ひとりと聞く。いま、ここの、私一人のところでしか聞けないのである。それは「同行・善知識に近づけ」ということと、一見、矛盾するようだが、実はそうではない。ほんとうの「ひとり」になるのは、孤立したり、独覚心に陥ることではないからだ。親鸞様も、「われ」と「われら」を使い分けておられるが、「われ」ひとりお救いは、同時に「我等」すべてを普く照らすお救いなのであり、「我等」すべてを救うみ光りは、「われ」一人のところにしか届いてこないのである。

 ほんとうに「ひとり」になれるのは、孤独な、寂しい、昿劫以来のひとりぼっちの宇宙の大孤児を、しっかりと受け止め、理解してくださる同行・知識がおられるおかげで、その如来様から溢れる慈愛に触れさせてもらい、常に支えられているからこそ、たった「ひとり」としてお聞かせに預かれるのではなかろうか。その意味では、「ひとり」で、もしはく「ひとり」のところでお聞かせに預かれるまでのお育ては、ほんとうに尊いことだといわねばならない。

 長くなったので、(2)は後日。                                       

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コメント

おはようございます。ご無沙汰をしております。ブログは毎日拝見させていただいており、その時々の“いま、ここの自分”の思いを、あれこれ誤魔化しながら、誤魔化すことできぬ真実に触れ、お念仏をさせていただくことの喜びに、深い尊さを覚えます。南無阿弥陀仏。今週末は支部法座を勤めます。師の誌上法話「聞法の要点」を題材にと考え、再読をしました。ご讃題(歎異抄第12章)からはじまり、私の心頭を強い衝撃がブチ抜けました。浅ましい、驕慢、貧欲にまみれた私の姿に。そして今朝のブログです。震える思いでいっぱいです。支部法座は、構えず誌上法話「聞法の要点」を皆さんで読んで、それぞれの思いを聴かせていただきます。昨年末から再読している『仏教とカウンセリング』(西光義敝著)からの思いと重なる思いもあり。週末の法座に頭を垂れて臨みたいと思います。有難うございました。南無阿弥陀仏。インド巡拝の旅も間近ですね。風邪等健康にご留意下さい。 合掌

投稿: 稜 | 2009年1月23日 (金) 10:30

稜さん、お久しぶりですね。
明日の華光会館の輪読法座から、68-1号の華光誌の輪読が始まります。ぼくもしっかり聞かせてもちうおと思います。
インドも、楽しみです。やっぱり仏跡というのは、思い入れがありますからね。単なる観光旅行とは違いますから…。

投稿: かりもん | 2009年1月23日 (金) 21:35

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