『禅 zen』
曹洞宗の開祖・道元禅師の生涯を取り上げた、『禅 ZEN』を観た。華光に来ている禅僧ゼンゼン君に事前リサーチしていたが、正直、この手の映画はガッカリすることが多いので、期待もせず、ただし監督が高橋伴明だったので(経緯は知らないが)、反骨性みたいものをちょっと期待していた。
では、結果はというと、グーッとくるこころに響くセリフ(これは自身の宗教的体験に重ねての部分で)と、それを引き戻すかのようなガッカリ(興ざめ)した部分とが交錯して、どちらに立つかで評価は難しいと思った。しかし、逆に真宗の聞法している方にご覧いただいて感想を尋ねてみてもいいと思った。自分に引き寄せたところで味わうのなら、十分にお勧めできるものだ。
ちょっと悪いが、最初につまらない点を列挙してしまう。
まず、道元の波瀾の一生涯を、2時間弱の映画にするのである。ちょうど、12月30日の大河ドラマの年末ダイジェストを観るようで、正直、尺が短く物足りなかった。
そして、入宋して、苦労して明師を求める場面。たいせつな出会いが続くのに、なぜか、会う僧たちが、有名な日本の俳優たち。別に日本語ではない。日本人同士が、中国語で会話するのだから、違和感を感じた。最初の俗物僧も、道元に弁道の何らかを示唆した有名な阿育王山の老典座(てんぞ)も、有名な俳優だった。せっかく中国ロケなのに、なぜ中国の俳優を使わなかったのだろう。
そして、もっともガッカリしたのが、大悟や往生などの重要な宗教的境地の場面で使われる安っぽいCGでの表現である。これは完全に興ざめだ。
また、その思想の内容が、本覚法門の立場にたった「あるがまま」の悟りばかりが強調されているのは致し方ない(一般の娯楽映画に求めるレベルではない)としても、道元=仏様のイメージで、蓮華で昇天(?)していくなど、無批判の個人崇拝は、ちょっとなー。せっかくなのだから、もう少し俳優の力量でみせてもらいたかったが、ここは無理だったのか。
でも、致命的な欠点を補うほど、美しい風景と、所作や立ち居振る舞いの美しさ、それにグッーと響くセリフも多くて、たとえば、有名なキサーゴータミーの「ケシの実」を下敷きにしたエピソードなども目新しくなくても、映像を通して改めて聞かせてもらた気がした。
冒頭、監督の奥方、高橋恵子が、道元の母として登場する。そして「いまは、念仏さえすれば、お浄土に生まれるという教えが流行っているが、死んでからいくお浄土はほんとうにあるのでしょうか」といった意味のセリフから始まる。そこで語られるのは、いわゆる「己心の弥陀、唯心の浄土」の思想である。いま、ここにこそ浄土があり、この心を離れて仏様はいないというのである。
傲慢な執権(=権力を握って、執着している)北条時頼(ときより)に対しても、「必ず死んでいかねばならい。そのとき、持っていけるのは生前のは己の罪業(この言葉ではないが)しかないのだ」と迫ったり、威厳堂々と、「救われたい、救われたいとばかりいって、あなたはなにも捨てないではないか!」と一喝する場面など、まるで自分に言わているようだった。そのまま華光会館の示談の場面にきてもらって、グズグズ駄々をこねる求道者に言ってもらいなー。「私の参禅の動機は、まるで餓鬼。不純なんです」というセリフにしても、そのまま「餓鬼の聞法」と同じじゃあ~りませんかと、随所に光るセリフが多々あった。
最初、「こんな若造がするの?」と思っていた映画初主演の中村勘太郎が、なかなか凜とした立ち居振る舞いで美しかったし、彼を支える、3人の高弟、寂円、俊了、懐奘も、それぞれ味があった。当然、ホンモノであろう、修行僧たちの姿も、所作がかっこいいのだ。
天童如浄の元、激しい修行に励むが、ある時、居眠りする僧を師が一喝し、警策が、「バッ、バッ、バッ」と厳しく撃つ。静寂な僧堂にパッ、バッ、バッと響く。この時、道元は、豁然(かつぜん)として身心脱落して、大悟するのである。その響きがグーッと、こちらの腹底に響いてきて、なぜか、ぼくも念仏が出そうになった時、ちゃちいなCGになって、もう興ざめ。もしかすると、投影や同化は許さないぞという、とつもない策略が監督にあったのか。大事な場面でつまらないCGで、現実に引き戻されるのだった。
時代は、ますます五濁悪世の混迷を続けている。なお一層、決して権力におもねることなく、「正伝の仏法」の弘通のためには弾圧にも屈せず、すべてを捨てて、自らへの厳しい修行と、弱者へは慈愛をふりまく、孤高の清僧の姿が、広く受け入れられる時代になるのだろう。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己(たこ)の心身をして、脱落せしむるなり」
(『正法眼蔵』)
| 固定リンク
「映画(アジア・日本)」カテゴリの記事
- 映画「千夜、一夜」を新潟で見る(2022.10.24)
- 映画『名付けようのない踊り』(2022.02.09)
- 濱口竜介監督『ハッピー・アワー』(2022.01.06)
- 今年211本目は『CHAINチェイン』(2021.12.30)
- 終い弘法(2021.12.22)
コメント
報恩講様では大変お世話になりました。
その映画面白そうですね。田舎在住ですので何時になるかわかりませんが、機会があれば観てみたいです。
高僧などの宗教家の御一代記ものは、小説でも難しいですが、映画となるとそれより遥かに制約が多くて色々大変だと思います。
親鸞聖人関係では、田阪具隆監督のとかありますけど、後々シリーズ化の予定だったのが中止されたこともありますけど、ちょっとという出来でしたね。
三国連太郎監督の『白い道』は、真宗関係者は総じて不評だったみたいですが、私は好きです。
弘法大師空海さんの佐藤純彌監督の『空海』や、テング・ウェンジィ監督の『曼荼羅 若き日の弘法大師・空海』なども人物の描き方など不満の多い内容でしたが、特に中国ロケシーンは素晴らしかったと思います。
日蓮聖人では、中村登監督の『日蓮』が面白いです。主演の萬屋錦之介の演技が、キャリアを重ねた後ですから当然ですが、上の田阪監督の『親鸞』『続・親鸞』より数段素晴らしかった。内容は、永田社長のアレ(なにせ、アメリカ帰りの機中で熱心に唱題していたら、空飛ぶ亀を見たとかいうのが『ガメラ』のヒントだという逸話が伝えられる人です)ですから何とも言えませんが。マニアックなことを言えば、日蓮聖人の叡山時代の師匠と伝わる俊範上人(法然上人と問答された顕真上人の御弟子)役を最晩年の嵐勘十郎がやっているのがグッドです。
道元禅師については、立松和平氏の小説(親鸞賞を受賞したそうです)は読みましたが、やはり御一代記ものは難しいという感想(栗田勇氏の『最澄』も同様です)です。
しかし、親鸞、道元、日蓮といういわゆる鎌倉新仏教の三傑と年代こそ違えど、すべてご縁があったと伝わる最明寺入道時頼(数年前の某大河ドラマでは、時頼役の渡部謙だけが良かったが)の描かれ方には興味がありますね。
高橋監督夫妻は一時期、某大手新宗教のメンバーという噂がありましたが真相や如何に?
くだらないコメントばかりで恐縮です。インド旅行、御気をつけて行ってください。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年1月24日 (土) 15:41
かりもんさん、毎日、こまめにブログをアップしている姿勢に感心させられます。私は怠惰で怠け者の故、ホームページやらブログなどという小まめな作業は大の苦手です。
まして、今は自分自身と向き合うのに、精一杯の状態。そろそろ、けりをつけねばなど、くだらないことを考えている今日この頃。
かつてよく耳にしていた言葉は、「離れるべき縁があれば、離れ、結びつく縁があれば結びつき、死ぬべき縁があれば死ぬ。全て御縁です。これを不思議の御縁と言わずに、他に何があるのか。」と。
そこまで自分を放り出せる。うらやましいな、と思う反面、まだ僕にはそのような縁が来ていないのか。
今年になって、野間宏の「歎異抄」を何度も何度も読み直してる。ただただ、怠惰に。
投稿: 如修羅 | 2009年1月24日 (土) 18:19
縄文ボーイさん>ようこそ。きっと、コメントあると思っていました。でも、すごい祖師方の映画があるんですね。この中で、
『親鸞』と、『日蓮』しかしらないです。『白い道』も、途中でみるのをやめました。これは、大手のメジャーの映画です。でも、縄文ボーイさんを満足させることは難しいでしょうね。
最近の道元研究は、彼の「本証妙修」の表現の検討も含めて、当時の比叡山・天台教学を席巻していた本覚思想の批判としてとられえる研究も多いと聞いています。まあ、ほんとうはなにも知らないので、この先はボロができますので、ここまで。
如修羅さんも、ようこそ。如修羅さんだって、マメにコメント入れてくれてますよ。
そうですね。離れる縁があれば、離れるし、死ぬべき縁が熟せば死ぬ。確かに、そのとおり。縁があったから、ここにコメントもくださるし、ぼくもエントリーをするだけのことです。仏法聴聞も同じです。その意味では、「全て御縁です」は、まったくそのとおり。ただし、ヘタに「すべてが縁まかせ」となると、これは取り扱い注意の言葉になってしまいますからね。
投稿: かりもん | 2009年1月24日 (土) 23:12
かりもんさん、お返事有難うございます。
嵐寛寿郎が、嵐勘十郎になっていたり、渡辺謙が、渡部謙になっていたりと間違いが多いですが、何より、俊範上人は、証真上人(この方が、顕真上人の御弟子で、教学上重要な人物)の御弟子で、顕真上人の法孫の誤りです。年代が合わなくなりますね。
かりもんさんが触れられている、「天台密教、天台本覚思想(批判)と鎌倉新仏教との関係」という日本仏教思想史上の重要問題に絡む事柄ですので訂正します。
あと、田坂具隆監督について、悪口めいた書き方になってしまい気になってますが、被爆監督である田阪監督自身は、私は好きな監督です。水上勉氏の名作を映画化した『五番町夕霧楼』ほ特に好きです。
欧米では、宗教テーや、直接にではなくても、神学論争に絡む問題提起(娯楽SF大作の『コンタクト』でさえも、微妙な問題に触れています)をするようなメッセージ性の強い映画が、商業ベースでも制作されているように思いますが(『ミッション』なんかも良かったですね。『薔薇の名前』なんかよくあの原作を映画化できたというか)、日本では、難しいでしょうかね。欧米の方が、多民族で、各派の原理主義勢力が影響力持ってますから、状況的には厳しいと思うのですが。
投稿: 縄文ボーイ | 2009年1月25日 (日) 13:26
かりもんさん 「すべて縁まかせ」と積極的に縁頼みであれば、「善人なをもて往生をとぐ いはんや悪人をや」と悪行に励む、あるいは、悪行を気にかけないと、言う姿勢でしょうか。
困ったもんですね。ヒトと生まれて、人になりましてや、人間様になっていくという過程は。ましてや、往生など僕にとっては、彼岸の彼方。何せ、いくばくかの乏しい知識じみたものは持っていたとしても、信心とやらは、僕にはない。
念仏申さんとするこころ。何かこの辺りに。
投稿: 如修羅 | 2009年1月26日 (月) 14:42