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奪衣婆

 「そちらでは、何日ぐらいで獲信させてもらえるのですか?」との問い合わせに、電話口で絶句したことがある。ここを自動車教習所ならぬ、信心獲得教習所かなにかのように思っておられるのか。まったくその逆なのだと説明しても、キョトンとされている。
 一度もご法座にお参りされたことのない方が、「獲信しました」という喜びの電話。「これから、しっかり聞かせてもらいましょうね」と返すと、「いいえ、もう私は獲信しましたから」との返事。「あれ?」 
 確かに、人それぞれの境地・心境があるだろうし、詳細を知らずに軽々には語れないが、ちょっとぼくがお聞かせに預かる教えとは、少し違うなーという気がした。共に、特別の「獲信」という最終ゴールこそが、最大の目的になった聞法で、「得た」とか「ダメ」とかいった、自分の都合で、役立つ・役立たないで邁進することに焦点があたっている気がしたのだ。  

 確かに、他力回向の信心は、直道だ。頓の中の頓で、他力であるがゆえに、易く、かつ即に開ける世界。一念でひかり輝く世界である。しかし、一方で、凡夫の都合でマニュアル化されたプログラムや方法では、絶対に聞ける世界ではない。むしろ、この「どうしたら」「なんとかして」の自力の計らいがゆえで、昿劫以来流転輪廻してきたのである。

 まったく如来様のおひとり働きに出会うことは、聞けば聴くほど、邪見、驕慢で、真実に背き、疑い、逆らいどうしの仏敵のわが身に出会うことでもある。ほんとうに出会わてもらったら、絶対に下るはずのない頭を下げで謝り果て、懺悔するほかはない。いや、凡夫が頭を下げてもなんの意味があるのか。そのために、南無阿弥陀仏と回向してくださる、尊い御名を称えさせていただくだけである。しかも、その南無阿弥陀仏も、如来さまからのたまわりものだったのだ。ほんとうにすべてがいただきもので、一寸の自力の心が交わらないのである。そうなると、聞いたとか、獲信したとか、そんなことはもう恥ずかしくて言えなくなった。むしろ、「聞いた」と何かを握った心こそが、恐ろしい。むしろ、まったく聞いていなかった、まったく方向違いだった、絶対に分かるはずなどなかった広大な世界があったのある。そのお働きに摂めとられたら、聞く気も、聴く力もない、耳もなかったからこそ、これからますます聞かせていただくだけであることが知らされるのである。地獄真っ逆様に落ちるこの身そのままで、お聞かにいただく。ただそれだけなのだ。

 華光の法座は、決して、信心の促成栽培をする場でも、信心を与える場でもない。これは、その場に参加された方なら、身に沁みてわかることだろう。むしろ、いろいろと溜め込み、取り込もうとする自力の心を破り、有り難いものを握りしめた法悦の仮面を引き剥ぎ、裸にしていただく場ではないか。聞きかじって覚えたことも、取り繕った答えも、世間では通用しても、この法座では絶対に通用せずに、痛い目をみる。そして、各々が、法悦も捨て、念仏も捨て、体験も捨てたとき、一体、この私に何が残るのか。そこで出て行く後生はと問い、お聴かせていただく以外にはないのである。法座に出て来ると、そんな法悦を奪う「奪衣婆」がたくさんおられるかなー。厳しく、恐ろしいが、そこが有り難い。

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