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損「徳」のはかり

 今日の京都は、小雪が舞う寒い一日。報恩講の間も、うっすら雪が積もって寒かったが、華光会館だけは熱かった。先生方やお世話の皆様、お疲れさまでした。

 今回は、法話のトップバッター。夏からチラシとにらめっこし、ネットで検索して、12月31日に驚きの安値で手に入れた一眼レフデジカメの購入顛末記が枕。当然、かなり有力なブログネタだったけれど、鮮度が落ちるので報恩講の法話用に封印していた代物だ。我慢のかいあって、かなり笑いも共感もとれた。カメラでも得し、さらにこちらも受けて、しめしめ「得」したぞのいい気分である。

 この損得は、単に利益の損得だけではない。安くて、いいものを手に入れた「私」って、なんて、なんでも知っていて、賢く、立派なのか。そうじゃないかなー。賢い節約家の私の日々の努力のおかげで、お人好しで、ちょっと抜けているとうちゃんの薄給でも、こんな立派な暮らしができるのよという自惚れ一杯でしょう。絶対に「損」はしたくないし、他の人にも負けたくない。お金も、時間も、労力も…。いかに効率よく、いかに楽して、そして人より少しでも得をするのか。日々、数円、数十円のために涙ぐましい努力し、コツコツ工夫し、ときに、少々いやなもことでも、最終的な「得」のためには苦にならない。それほど、「けなげ」で、「賢く」、「立派」な私なの!という大うぬぼれで、ときに、節約に無神経な連れ合いや子供たちに腹を立て、バカにし、結局、大ゲンカのタネになっていくのである。

 そこには、「得」=「幸せ」との錯覚があるからだ。あなただって、楽して幸せになりたいでしょう。絶対に、貧乏くじなんかいやだ! 負け組もイヤダー。まさに、「鬼は外、福は内」。この攘災招福こそ、私達の一番根深い現世利益信仰そのもの。
 年始の京都ローカルの情報番組に、わが寺の各種お守りがいかに御利益があるのかを、にこやかに、得々と説明している某ちょこっと有名寺院の僧侶が出ていた。中途半端に有名のゆえか、色違いのお守りが、それぞれ何に御利益があるのかをまことしやかに説明してる。なんと「あさしまい」姿かと、思わず恥ずかしくてテレビを切った。

 ここで、浄土真宗の門徒なら言うだろう。「浄土真宗では、そんな現世利益は求めません。お守りやお札にも頼りません」と。でも、その上から目線で自惚れていても、よーく考えてみよう。どんな高尚で、また複雑そうな顔をしていても、所詮は、自分中心の、目の前の損得と、直近の幸不幸の尺度でしか生きていないのが、私の単純な姿じゃないの?それどころか、そんな相対な幸せではなく、後生の一大事を解決して、絶対の幸福を得るのだぞと世迷い言をぬかしている。それのどこが悪いの?と、闇の中。家族や仕事は、所詮今生の迷いの世界。それを犠牲に、真実を求める私って、なんて特別な立派な人なのだと…。あちゃー、これや質(たち)が悪いかもよ。そのためには、貴重なお金だって財施できるし、時間も、労力もかけて聴聞にもかけつけるものね。

 だけど、この損得の物差し、いわば悪の結果である罪を恐れ、善の結果である幸福を求める罪福を信じる心で(要は、最高の信心をという善をもらって、浄土往生という絶対の幸福になりたいわけ)、いくら阿弥陀さまの真実を求めても、けっして聞き届けることなど出来ない。だって、阿弥陀様の物差しは、私達の損得や幸不幸の相対的な物差しなんかじゃないのだ。私達が大大大嫌いな、損の中の損、負けの中の負け、愚かなの中の愚かに身を投げ出し、我が命を投げ出して、果てしのない大昔から、劫を積み「徳」を累ねて、御修行くださっているのだ。いわば、「損徳」の真実のはかりなのてある。そして、その功徳、徳をまるまる、一切のかけもなく、一切の出し惜しみも、裏もなく、すべてを御名に封じ込めて、全徳施名の南無阿弥陀仏として、この迷いの、無明、極重悪人の私ひとりをお目当てに、その功徳をまるまる施そう、回向しようとしてくださるのである。五欲(一杯溜めたい、やりたい、食って呑んで、ほめられて、楽したい)に振り回されて、それを生きるエネルギーにしている迷いの私を救いたいがためなのである。いや、なんという大損。こんな愚かな私のために尊いお命を捨てるなんて、なんて大馬鹿もなのか。ご自分のお徳を全てを、ただのただで、それどころか、「どうか、受けてってださい」と、頭まで下げておられる。大損も大損、バカもバカの如来様。ほんとうに、びっくりするしかないよなー。

 勿体なくも、五欲に狂い、無明の闇に覆われた私めがけて、聞きやすく、称え易く、持ちやすい、如来さまのお命が円満した「南無阿弥陀仏」が、響流十方と響き渡っているのだ。にもかかわらず、損得、幸不幸の尺度しかない私は、その物差しで、あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロ、わが心を探り、聖教やお説教や、華光会館やお念仏の中に幸せになる信心はないかと探し回り、日夜、常に至り響く、命がけの私の南無阿弥陀仏を、他所事のように聞いているのである。

 いま、ここの私にも、響き渡っているじゃないですか、「南無阿弥陀仏」の名乗り声が…。

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