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2009年1月の25件の記事

奪衣婆

 「そちらでは、何日ぐらいで獲信させてもらえるのですか?」との問い合わせに、電話口で絶句したことがある。ここを自動車教習所ならぬ、信心獲得教習所かなにかのように思っておられるのか。まったくその逆なのだと説明しても、キョトンとされている。
 一度もご法座にお参りされたことのない方が、「獲信しました」という喜びの電話。「これから、しっかり聞かせてもらいましょうね」と返すと、「いいえ、もう私は獲信しましたから」との返事。「あれ?」 
 確かに、人それぞれの境地・心境があるだろうし、詳細を知らずに軽々には語れないが、ちょっとぼくがお聞かせに預かる教えとは、少し違うなーという気がした。共に、特別の「獲信」という最終ゴールこそが、最大の目的になった聞法で、「得た」とか「ダメ」とかいった、自分の都合で、役立つ・役立たないで邁進することに焦点があたっている気がしたのだ。  

 確かに、他力回向の信心は、直道だ。頓の中の頓で、他力であるがゆえに、易く、かつ即に開ける世界。一念でひかり輝く世界である。しかし、一方で、凡夫の都合でマニュアル化されたプログラムや方法では、絶対に聞ける世界ではない。むしろ、この「どうしたら」「なんとかして」の自力の計らいがゆえで、昿劫以来流転輪廻してきたのである。

 まったく如来様のおひとり働きに出会うことは、聞けば聴くほど、邪見、驕慢で、真実に背き、疑い、逆らいどうしの仏敵のわが身に出会うことでもある。ほんとうに出会わてもらったら、絶対に下るはずのない頭を下げで謝り果て、懺悔するほかはない。いや、凡夫が頭を下げてもなんの意味があるのか。そのために、南無阿弥陀仏と回向してくださる、尊い御名を称えさせていただくだけである。しかも、その南無阿弥陀仏も、如来さまからのたまわりものだったのだ。ほんとうにすべてがいただきもので、一寸の自力の心が交わらないのである。そうなると、聞いたとか、獲信したとか、そんなことはもう恥ずかしくて言えなくなった。むしろ、「聞いた」と何かを握った心こそが、恐ろしい。むしろ、まったく聞いていなかった、まったく方向違いだった、絶対に分かるはずなどなかった広大な世界があったのある。そのお働きに摂めとられたら、聞く気も、聴く力もない、耳もなかったからこそ、これからますます聞かせていただくだけであることが知らされるのである。地獄真っ逆様に落ちるこの身そのままで、お聞かにいただく。ただそれだけなのだ。

 華光の法座は、決して、信心の促成栽培をする場でも、信心を与える場でもない。これは、その場に参加された方なら、身に沁みてわかることだろう。むしろ、いろいろと溜め込み、取り込もうとする自力の心を破り、有り難いものを握りしめた法悦の仮面を引き剥ぎ、裸にしていただく場ではないか。聞きかじって覚えたことも、取り繕った答えも、世間では通用しても、この法座では絶対に通用せずに、痛い目をみる。そして、各々が、法悦も捨て、念仏も捨て、体験も捨てたとき、一体、この私に何が残るのか。そこで出て行く後生はと問い、お聴かせていただく以外にはないのである。法座に出て来ると、そんな法悦を奪う「奪衣婆」がたくさんおられるかなー。厳しく、恐ろしいが、そこが有り難い。

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一時は、このまま涅槃かと……

 1月末は、重要な提出書類期限もあるのだが、特に今年はいろいろあった。それで、元気に仏跡巡拜に出発するのが一番だと、最初は作成するつもりだった、旅行のガイドを早急に残念した。その代わり、『ブッタの旅』という岩波新書のカラー版を購入してもらうことにした。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_071e.html
 
確かに、何もかもおまかせで連れていってもらえるのだが、一生に一度の方も多かろう。それなら、何冊か本を読んで、勉強していったほうが感慨も深い。

 第2回は、27年前だか、その時は、引率のI先生が、とても立派なガイドブックの資料を作ってくださっていた。いま、読んでも感激するほどの出来ばえだ。連れ合いが、「せめて、必要な仏跡案内のところだけでも、それを入力したらどうだか」と提案してくれたので、5日前になって、ムラ君にタイピングを依頼した。さすがに、コースも違うし、事情も変わっていて、手直しや追加が必要だったので、それなら、やっぱり作ろうかと決めたのが、水曜日の夜。

 せっかく入力してくれたムラ君にも報いたいし、前回の先生のご苦労も、少しは引き継ぎたい。ならば、少し頑張ってと、本格的に始めたのはいいが、これが時間がかかる、かかる。初日、2日目は、関空とバンコクなのですぐできた。でも、そこからが、メーンイベントの、ラージギル(王舎城と霊鷲山)と、成道の聖地、ブッダガヤ。もうここだけで、ほとんど朝から夕方まで費やしてしまった。もう、時間がないので焦る、焦る。こんなに必死に頑張ったのは、〆切に追われた修士論文以来かもしれんなーという勢いで、最後は、並べるだけでもいいとか、荷物もあるし、もう止めようという悪魔のささやきに負けそうになりながら、なんとか、ベナレスと初転法輪のサルナートをすませ、深夜にやっとクシナガラに達した。荷物もまだ手つかずだし、法蔵館の原稿もある。悪魔の誘惑は続いて、何度、ここまでにして、このまま涅槃に入ろうかと思ったことか。しかし、釈尊のご加護か、勇猛果敢にして、降魔の相を示し、もうひと頑張りすることにした。カットの入れ方や統一の仕方などの要領もえてきたので、ここからは案外早かった。

 おかげで、サラバスティー、カピラ城、ルンビニーを経て、どうにかこうにか、今日の昼すぎにはカトマンズまで到着! もっとも、仏跡地ではない、カトマンズの2日間は、イラストの地図をのせただけのだが、最後の関空での解散までたどりつくと、ほんとうに旅行から帰ってきたぐらいの気持ちになった。いやいや机上の旅とはいえ、「お疲れさま、ご苦労さまでした」。

Img_4710  それにしても、勉強すると、あらためて「ヘエー」と思うことが多かった。まだまだ触れたいところもあるし、後半はかなり荒くなってしまった。校正も一度もしていないのでミスも多い。それでも、連れ合いが表紙を書いてくれて、ムラ君がコピーして、セッセセッセと製本。夜になってやっと完成した。ジャージャー! 40頁の超大作。表紙がつくと、我ながら立派なものになったと、眺めては、感心、感心。これで、次回(第4回)は、かなりいいものが出来ることは間違いない!

 でも、つぎに、「この25部は、誰が持参するのか」と思うと、ガビ~ン。今回は、前日から泉佐野に一泊するで、京都、大阪、ナンバと、大きなターミナルを4回も乗り継いでいかねばならない。いや、これはまいったー。

 ところで、前回は、まだワープロなども普及しておらず、書の達人の先生のすばらしい手書きだった。
 そういれば、持ち物も随分かわったなー。PCはさすがにもっていかないが、デジカメに、電子辞書に、ICレコーダーに、デジタルオーディオプレヤーなど、電子機器だらけ。荷物は増える、増える。皆さんは、ケイタイも持参されることだろう。
 やっとだいたいの荷物は揃ったので、明日の朝には、一仕事をすませた後で、パッキングしよう。

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紅白のウメ

  仏跡巡拜が近づいてきた。

 仕事をひとつ、ひとつこなしていく。ホームページのリニュアルの打ち合わせに、所轄官庁への提出資料作り、弔電をうち、依頼のあった原稿を入稿し、真カ研のパンフレットの打ち合わせをする。ひとつワークショップのプロデュースもすることになって交渉もした。そして、迷っていたことに、ひとつの結論をだして、とりありず、書類を作成した。依然、腑に落ちていない部分もあるが、これで前に進んでいくしかないと思うと、なんとなく、ホッとする。

 さあ、インド旅行の資料作りにかかれる。前回の資料を参考にしながらも、コースや状況が大きく変わって、なかなかたいへん。それでも、凝りだすとやめられない。でも、これも自分のためだ。たいへんだが、勉強すると一番、得をする。あと、2日間か。もしかすると、途中までになるかもしれない。しかも、こんな時に予定になかった急な仕事が入ってきた。2ケ月も前に出した原稿を、いまごろになって、一部変更してくれというのである。こちらも期限は2日間。おいおい。出版社との交渉も、見積額が急激にアップにして、再交渉。紙代やインク代が上ったといわれるが、数ヶ月で、25%近くの20万円もアップしては、たまらない。多少、妥協もしながら交渉するうちに、5%の5万円程度のアップに納まった。なんだかなー。これでいいのかなー

Img_4707_2  気分転換に、梅小路公園の横切って散髪へ。この公園は、動態状態のSLがみれる蒸気機関車館があるので有名だが、その一角に、京都水族館ができる計画が発表された。こんな近所に、水族館! ご存じのように水族館好きImg_4708 のぼくだが、海のない京都市内にほんとうにいるのかなと、ちょっと疑問。

 ふとみると、もう紅・白のウメが花をつけている。青空を背景に、輝いてみえる。なにか明るい気分になった。

 

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書初展

Img_4699  日曜日は、2年ぶりの書初展でした。

 でも、例年のような半切の書ではなく、大人は色紙、子供だけが半切に書きました。いまImg_4701の調子なら、従来のような書初展は難しいのではないかと思いますね。その割には、見学者が少なくて、寂しいようでした。

 遠方の方もあるので、雰囲気だけでもご覧ください。

Img_4688  増井自然先生の書と絵です。
 人、世間愛欲のなかにありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。行にあたりて苦楽の地に至りおもむく。身自らこれをうくImg_4704_2 るに、代わるものあることなし」(仏説無量寿経・下巻)

仏智うたがうつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし」(
疑惑讃)

Img_4689「ありがたし 今日の一日も、
  わがいのち
めぐみたまへり 天と地と人と」

Img_4700

 最後は、無量寿経の五悪段の一節から。

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最初のボタンをかけ直す

  週末は、輪読法座、広島支部法座と続いた。先週は、連れ合いも、大学院の試験やレポートのピークで、かなりたいへんそう。ぼくも少しはサポートのために、法座の合間も、子供の送迎やお守りもあって、ちょっとブログも連休。輪読でも、広島でも、法座に「出」ると、やはり味わうことがあるが、今回はパスした。

 それでも、広島のH家での家庭法座では、最終の新幹線まで、皆さんと懇談してきた。心尽くしの手料理をいただきながらの仏法讃嘆。和気あいあいとして楽しかった。おもてなしがどんどん豪華になってくる。今回はフライヤーをもちだしてのお座敷天ぷらで、広島名物のカキや皆さんの持ち寄りでの珍しい一品に、舌の方も滑らかになった。ご馳走さまでした。

 せっかくご馳走になりながら、それではせいがないので、ひとつだけ気付いたことを書くと、聞法、聞法と気張っていても、特別なことを聞くのではない。最初にお聞かせに預かり、分かっていると決めつけているところを、もう一度、自分に返して、確かめ、お聞かせに預かりたいのものだと思った。一番最初につけたボタンがちぐはぐのままでは、いくらうえを修正していっても、またどこまで重ねて連ねてみも、ぜったいにビッタリと会うはずはない。「わからん、わからん」、と長年、悩んでおられる方、自分で「有り難い」といいながら、「でも」が付く方や、皆さんに受け入れてもらえる感じのない方せ、もう一度、もう一度、原点に立ち返って、なんのために阿弥陀様がご本願を起こされたのか。誰の、どの姿をみそなわしてのことなのかという、仏願の生起のところを、あらためて焦点をあてて聞いてみほしい。分かったつもりでも、いざとなると、聞いてないんじゃないかなー。これはぼくたちも同じことで、繰り返し、巻き返し、ご法に返して聞かせていただくしかない。

 さて、今週は、同人会ニュースの発行(今日は送付)、文化庁や本山への提出書類に、来年度の真宗カウンセリング研究会のパンフレットの作成に、会報の原稿、そこへ出版社との交渉やら、エアコンやエレーベーター交換の交渉などなど…。早めから用意していたものも、相手のあることなので、何もかも重なってしまった。時間は限られているのだから、ひとつ、ひとつ小さな連絡や書類作成などを片づけていくしかない。

 インド仏跡巡拜の資料を作るために、にわか勉強も始める。本や資料だけは山のように整ったが、どうなるのか不明。前回、引率してくださったI先生に電話をいれて、久しぶりにお話を窺う。ほかにも、最近の経験者の声も聞いて、参考にさせてもらった。ありがとう。どうにか形にして参加者に配りたいのだが、どうなることか。荷物もそろそろ準備しないといけないし…。まあ、この世のことはなるようにしかならないなー。

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『禅 zen』

Zen_2   曹洞宗の開祖・道元禅師の生涯を取り上げた、『禅 ZEN』を観た。華光に来ている禅僧ゼンゼン君に事前リサーチしていたが、正直、この手の映画はガッカリすることが多いので、期待もせず、ただし監督が高橋伴明だったので(経緯は知らないが)、反骨性みたいものをちょっと期待していた。

 では、結果はというと、グーッとくるこころに響くセリフ(これは自身の宗教的体験に重ねての部分で)と、それを引き戻すかのようなガッカリ(興ざめ)した部分とが交錯して、どちらに立つかで評価は難しいと思った。しかし、逆に真宗の聞法している方にご覧いただいて感想を尋ねてみてもいいと思った。自分に引き寄せたところで味わうのなら、十分にお勧めできるものだ。

 ちょっと悪いが、最初につまらない点を列挙してしまう。

 まず、道元の波瀾の一生涯を、2時間弱の映画にするのである。ちょうど、12月30日の大河ドラマの年末ダイジェストを観るようで、正直、尺が短く物足りなかった。
 そして、入宋して、苦労して明師を求める場面。たいせつな出会いが続くのに、なぜか、会う僧たちが、有名な日本の俳優たち。別に日本語ではない。日本人同士が、中国語で会話するのだから、違和感を感じた。最初の俗物僧も、道元に弁道の何らかを示唆した有名な阿育王山の老典座(てんぞ)も、有名な俳優だった。せっかく中国ロケなのに、なぜ中国の俳優を使わなかったのだろう。
 そして、もっともガッカリしたのが、大悟や往生などの重要な宗教的境地の場面で使われる安っぽいCGでの表現である。これは完全に興ざめだ。
 また、その思想の内容が、本覚法門の立場にたった「あるがまま」の悟りばかりが強調されているのは致し方ない(一般の娯楽映画に求めるレベルではない)としても、道元=仏様のイメージで、蓮華で昇天(?)していくなど、無批判の個人崇拝は、ちょっとなー。せっかくなのだから、
もう少し俳優の力量でみせてもらいたかったが、ここは無理だったのか。

 でも、致命的な欠点を補うほど、美しい風景と、所作や立ち居振る舞いの美しさ、それにグッーと響くセリフも多くて、たとえば、有名なキサーゴータミーの「ケシの実」を下敷きにしたエピソードなども目新しくなくても、映像を通して改めて聞かせてもらた気がした。

  冒頭、監督の奥方、高橋恵子が、道元の母として登場する。そして「いまは、念仏さえすれば、お浄土に生まれるという教えが流行っているが、死んでからいくお浄土はほんとうにあるのでしょうか」といった意味のセリフから始まる。そこで語られるのは、いわゆる「己心の弥陀、唯心の浄土」の思想である。いま、ここにこそ浄土があり、この心を離れて仏様はいないというのである。

 傲慢な執権(=権力を握って、執着している)北条時頼(ときより)に対しても、「必ず死んでいかねばならい。そのとき、持っていけるのは生前のは己の罪業(この言葉ではないが)しかないのだ」と迫ったり、威厳堂々と、「救われたい、救われたいとばかりいって、あなたはなにも捨てないではないか!」と一喝する場面など、まるで自分に言わているようだった。そのまま華光会館の示談の場面にきてもらって、グズグズ駄々をこねる求道者に言ってもらいなー。「私の参禅の動機は、まるで餓鬼。不純なんです」というセリフにしても、そのまま「餓鬼の聞法」と同じじゃあ~りませんかと、随所に光るセリフが多々あった。

  最初、「こんな若造がするの?」と思っていた映画初主演の中村勘太郎が、なかなか凜とした立ち居振る舞いで美しかったし、彼を支える、3人の高弟、寂円、俊了、懐奘も、それぞれ味があった。当然、ホンモノであろう、修行僧たちの姿も、所作がかっこいいのだ。

  天童如浄の元、激しい修行に励むが、ある時、居眠りする僧を師が一喝し、警策が、「バッ、バッ、バッ」と厳しく撃つ。静寂な僧堂にパッ、バッ、バッと響く。この時、道元は、豁然(かつぜん)として身心脱落して、大悟するのである。その響きがグーッと、こちらの腹底に響いてきて、なぜか、ぼくも念仏が出そうになった時、ちゃちいなCGになって、もう興ざめ。もしかすると、投影や同化は許さないぞという、とつもない策略が監督にあったのか。大事な場面でつまらないCGで、現実に引き戻されるのだった。

 時代は、ますます五濁悪世の混迷を続けている。なお一層、決して権力におもねることなく、「正伝の仏法」の弘通のためには弾圧にも屈せず、すべてを捨てて、自らへの厳しい修行と、弱者へは慈愛をふりまく、孤高の清僧の姿が、広く受け入れられる時代になるのだろう。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己(たこ)の心身をして、脱落せしむるなり」
              (『正法眼蔵』)

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報恩講で味わったこと(1)

  報恩講の法話の感想はここに書いたが、
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-3a77.htm

 その後、感想のメールや手紙をいただいたことで、改めて法座での味わいが、ポッ、ポッと浮かび上がってきてハッキリしてきている。

 まず、そのひとつめ。

 仏法は不思議なものだ。法座が終わったあとで、ひとりになった時に、いろいろとお味わいが浮かんできて、静かにお念仏させてもらう。そうかと思うと、ご法座で、同信念仏者と交わり、共に念仏讃嘆させてもらうことも、また格別の楽しさである。要は、自分が喜ぶといっても、実は如来様が喜んでくださっているのだ。だから、ひとりでも、大勢でも、さまざまに味わえ喜べるのが、尊い。  

 ところで、親鸞さまは、二十願のこころについて、「念仏を称えながらも驕慢心でなし、つねに名聞利養のこころで応じて、我執でおのづからが覆われて、『同行・善知識に親近さぜる』がゆえに、好んで雑縁に近づいて、自らだけでなく、他人の往生まで妨げることになるぞ」との善導さまのお言葉を引用されている。また、蓮如上人も、「わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり」という、独覚心について戒められている。

 ひとりで「聞いた、聞いた」とうぬぼれていると、たいへんな大間違いをするぞというのでる。だから、同行・善知識に親近して、お聞かせに預かれよとのご親切である。

 別に法座に出なくても、仏書も読める、テープやビデオも同じ内容のものが聞ける。もしかすると、書物で読んだほうが、頭によく入るかもしれない。テープの方が、繰り返し、繰り返し聞けるかもしれない。しかしである。足にかけて、その場に出ることでしか得られない、一度きりの体験こそが貴重なのだ。ちょうど書物でも文字と文字、行と行のあいだ、つまり行間から滲み出るものがあるように、法座も、法話や座談だけではない、その場に足を運び、身を浸らせてもらっているからこそ味わえる雰囲気もある。
 昨秋『落下の王国』という、世界遺産をロケ地に、それはそれは贅沢なロケで綴られたおとぎ話のような美しい映画を見た。絵も、音も、構図もすばらしく、まるでその場にいるかのような臨場感がある。しかしである。その匂いまでは伝わってこない。なんとなく手触りまでも感じられても、手にとっているわけではない。暑さ、寒さも感じない。どんなに近づけてたとしても、映像では、五感すべてを総動員して味わうことは不可能なのだ。(そこを想像力で補う楽しさはあるが…)。疑似体験はあくまで、疑似でしかない。

 その意味では、「出」て聞くことは、とても意味深い。「出」て「会」うから、出会いなのである。自らのところからとき「放す」から、「話す」のである。頑なにひとりで黙々と聞いていても、結局、法にも、自分自身にも出会うことはできない。聞法は、先輩同行や先生に積極的に近づいて、教えを請うことがもっとも早道なのだ。それは、何も、法話や座談会だけではない。食事時間にしても、懇親会や休み時間にしても、ナマの姿、声に触れていく。なにもご法の核心部だけを抽出しなくても、雑談のなかにも、珠は輝くこともある。それに、それは、一方的に「ハハーハ」とひたすら拝聴することでもない。「出」るのは、なにも家を出て、法座に出席することだけを指すのではない。からだは会館まで出てきても、なにかを隠したり、誤魔化したり、合わせたりして、こころを頑に閉ざしている限りは、やはり「出会う」ことはできないのだ。その意味では、自分を出て、聞かせていただくしかない。自己の居所も開いて伝え、その間違いを教えていただくのである。それは何も恥ずかしいことでも、恐れることでもない。絶対に、自分で自分が見えないように、自分を聞くことは自分では出来ないのである。だから、間違ってしか、歪んでしか自分の姿が聞けないし、そこで妙なものを握ってうぬぼれていくしかない。そのわが身のありのままの姿を教えていただくことが、聞法であり、出会いなのである。

 だから、仏道は、友同行に囲まれ進み、善き知識にお導きいただき聞いていく道だといっていい。特に、在家止住の凡夫なら、なおさらだ。いったん、糸が切れれば、今生の楽しみに心奪われて、どこに行くかもわからないのが、お互いの姿だ。もう目も当てられない。そこを、時に励まして、時に厳しく叱り、時にやさしく慈愛を降り注ぐ、同行や先生がいてこそ、この五濁・末法の悪世でも、聴聞の場に引き戻していただけるのである。ならば、努めて同行・知識に親近してお聞かせに預かろう。

 ところで、また仏道は、「ひとりのしのぎ」の場である。ひとりで聞く、ひとりと聞く。いま、ここの、私一人のところでしか聞けないのである。それは「同行・善知識に近づけ」ということと、一見、矛盾するようだが、実はそうではない。ほんとうの「ひとり」になるのは、孤立したり、独覚心に陥ることではないからだ。親鸞様も、「われ」と「われら」を使い分けておられるが、「われ」ひとりお救いは、同時に「我等」すべてを普く照らすお救いなのであり、「我等」すべてを救うみ光りは、「われ」一人のところにしか届いてこないのである。

 ほんとうに「ひとり」になれるのは、孤独な、寂しい、昿劫以来のひとりぼっちの宇宙の大孤児を、しっかりと受け止め、理解してくださる同行・知識がおられるおかげで、その如来様から溢れる慈愛に触れさせてもらい、常に支えられているからこそ、たった「ひとり」としてお聞かせに預かれるのではなかろうか。その意味では、「ひとり」で、もしはく「ひとり」のところでお聞かせに預かれるまでのお育ては、ほんとうに尊いことだといわねばならない。

 長くなったので、(2)は後日。                                       

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オチない三題噺

003  朝、子供を保育園へ。今日は21日。東寺の縁日、1月は初弘法。全国から何万人も観光客が押しかける。園の前にも、骨董、古着、ガラクタ、瀬戸物、古本、実にいろいろな店が軒を並べるので、自転車をいつもより離れたところに止めて、お客を押し分けて進む。お参りでも、観光でも、買い物でも、冷やかしでもない訪問者だ。年々、人出は増えているようで、外人もたいへん多い。子供をやっと保育園に預け、人込みを抜ける。 

 東寺を出て、しばらく進んで大きな交差点で信号待ち。二人の若い男性が、チラシをもってみんなに話しかけている。なんの勧誘? ああ、イヤだなー、ぼくにも近づいてきた。一応、知らんふり。それでも勧誘される。「あの、中国からの留学生です。手作りの水餃子を販売しています」。「はあ?」と、まったく予想外で反応ができなかった。それにしても、なんかタイミングが悪くないか。中国、餃子とくれば、いまだ「毒入れ」と連想する。昨年の毒入り餃子事件が未解決のままだ。しかも、むさい男が、急に近づいてきて「手作りです」と言われてもな……。他に売るものなかったの?  セールスできそうな女のコがおらんかったんかなーとも同情する。急激の円高で、留学生もたいへんなんでしょうね。

 午後、「同人会ニュース」の仕上げ。修正液かダメになったので、近くの100円シュップへ。店に入るなり、大声が聞こえていくる。中年の客が、若い店員に大声で絡んでいる。いや、まずい雰囲気。ドキドギしちゃう。「上のものでも、どこになにかわららんのか! 常連の客だけを大切のするのか、ここは! ちゃっと把握できんのなら、こんな店やめろ!!」 という調子で、怒鳴っている。ひたすらか細い声で謝る店員。どうせ、バイトなんだろう。ほかに客は1、2名だけ。お目当ての棚は、男の横だ。仕方ない。男の前を横切る。ますますエキサイトし、「酔っぱらいだと思ってバカになるなよ」と怒鳴っている。ああ、クレーマーというより、昼間から呑んでいる、単なる酔っぱらい。店員の対応が気に入らなかったのだろう。「こんないいかげん商売してどうするんだ。ええか、Yes we canや、チェンジなんや。変わらんといかん。こんな店なくなぞー」。チェンジのタイミングのよさに、ブーッと声にだして笑ってしまった。きっと、深夜の就任式を見たのだろうか。あとは、「チェンジ、チェンジ」を織りまぜながら、説教はつづくよどこまでも…。

 オバマさんの就任式。悪いがいまは関心はない。でも、和平にしても、環境問題しにても、経済にしても、ブッシュさんよりましになるんじゃないかと、ぼくも期待している。米国初の黒人大統領、若くて、新鮮、カリスマ性も十分だ。それに現状の厳しさに、変化への期待値も大だ。はるか遠いこの地でも、酔っぱらいのクレーマーをも魅了するって、すごいなーと。でも、でもね。なぜ、名前がにているだけで、また雰囲気がカッコというけで、日本で、花火をあげたり、和太鼓で祝福したり、お祝いで浮かれるっておかしいんじゃないの。むしろ、この雰囲気がイヤな予感。これって、コイズミさん出てきた時と同じ。「自民党をブッ潰す!」と、みんな何かを変えてくれると期待して、雰囲気に酔って、批判した少数は疎外。それが今ではどうか。ただ酔っていただけだなのに、いまだに人気もある。オバマさんも、いまはまったくの未知数。日本にとって手ごわい相手になる可能性も大だ。ほんとうの手腕を発揮すのるはこれからなんですからね。政策も知らず、ほんとうの人柄も知らず、イメージだけでエライ人に、自分の利益になる変化を期待したり、自分の何かを投影するような支持の仕方はやめてはどうかなー。
   まず、チェンジは自分自身のそんな姿勢からだよね。

 夜、真宗カウンセリング研究会へ。21年度のパンフレットの相談。最初は、それほどでもなかったけれど、話を聞いているうちに、いろいろと構想が浮かんできた。歎異抄の輪読、若手や新しい方の聞法の集い-若手を育てたり、間口を広げていくこともぼくの仕事になりつつある。そして、初の「こころの天気」のワークショップの取り組み、さらには、2011年のカウンセリング50周年に向けての構想…。けっこう、いろいろと可能性があるんだ。何かを実現したいという刺激になった。問題は、すでに週末の予定が詰まっているので、時間がとれるかどうかだ。でも、ここは鉄は熱い内…で、、明日からいろいろと電話して、実現できるような方向で模索していこう。

「手作り餃子、オバマ(またはチェンジ)、50周年」

 3つのお題がでましたが、なにかオモロイ小咄出来んかなー。

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今週は、輪読、広島、書初展

 今日は、インド旅行の最終の打ち合わせ。ホテルなども決定し、細々した皆さんからの質問をお尋ねした。前回は、ザッーと27年前。大学2年生の冬休みだった。説明を聞く限り、ずいぶん、交通も、食事も、ホテルも雲泥の差で、便利で、快適になっているようだ。確かに、日本でも、この27年前には、ケイタイも、パコソンも、デジカメも、DVDも、洗浄トイレも普及していなかったものなー。それでも、日本のようには行かないけれども、その意味では大いに楽だとは思う。しかし、釈尊のみ跡を慕うという意味では、前回のような強行軍や不自由さも、また貴重だった気がする。第一、いまでにそのどれもが楽しい思い出となっているから、また不思議なものだ。

 さて、今週の法座。週末は、会館の輪読と、濱家での広島法座と続きますが、もう一頑張り。寒い日がつづきますが、奮ってご参加ください。

1)華光誌輪読法座

 日時:1月24日(土)昼1時30分~5時
 会場:華光会館
 内容:華光誌58-1号の輪読。巻頭言、聖教が中心で、誌上法話にまでは入れても、ほんの一部だけかなー。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/01/rindoku2009-1.htm

2)広島支部法座

 日時:1月25日(日)昼1時~5時
 会場:濱家(JR山陽線、五日市駅下車。詳細は、お問い合わせください)
 内容:法話と、座談。あと、少し時間が許す限り、会食しながらの囲む会を持ってくださいます。ただし、インドも近いので、その日の内には失礼しますよ。広島の法話はこれからですが、報恩講で味わったことが中心に考えています。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/01/hirosima2009-1.htm

 また法座ではありませんが、華光会館では以下の行事もあります。ご自由に見学いただけます。ご案内までにどうぞ

3)書き初め展

 日時:1月25日(日)昼10時~夜7時
 会場:華光会館2階教室

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つめの先の土

 ある日、お釈迦さまが、アーナンダと街を歩いておられました。
 暑い一日。牛が、重い荷物を積まされ、汗をかきながら、フラフラと歩いてきました。
 「ああ、かわいそうに」、と思わずアーナンダがつぶやくと、お釈迦さまは立ち止まり、こうおっしゃったのです。

 「アーナンダよ。お前の足元にある土をすくいあげてごらん」。
 なんのことかなと思いながらも、アーナンダは、右手に一杯に土をすくいあげました。
 「これで、よろしゅうございますか」。
 うなずかれたお釈迦さまは、静かにアーナンダにお尋ねになられました。
 「その右手の平一杯の土と、この大地一杯の土とでは、どちらのほうが多いかね」。
 「申し上げるまでもございません。大地の土のほうが、はるかにおおうございます」
 わかりきったことにもアーナンダはまじめに答えると、お釈迦さまは深くうなずかれ、
 「そのとおりだ、アーナンダよ。この世の中に生きとし生きるものは無数にいるが、その中で人間に生まれるということは、右手の土ほどのわずかなものだけなのだ」、と仰られたのです。

 そして、次にお釈迦さまは、アーナンダに右手の平一杯の土を、左手のツメの先ですくってみようと仰せられました。
 アーナンダは、言われるままにツメの先で救うと、ほんのかぞえるばかりの土が、ツメの先にのこりました。
 すると、お釈迦さまは、
 「アーナンダよ、このツメの先の土と、右手の平一杯の土とは、どちらのほうが多いと思うかな」、とお尋ねになられました。
 「ハイ、申し上げるまでもございませんが、右手の平の土のほうが、ほるかにおおうございます」と、アーナンダは答えました。
 お釈迦さまは、静かにうなずかれ、
 「そうだよ、アーナンダ。同じ人間に生まれながらも、み仏の教えを聞くことができるものは、ほんの爪の先ほどの人だけなのだ。私達は、ほんとうに人間に生まれたことを、そして仏法を聞くになったことを、喜ばねばならないのだよ」と。

 アーナンダは、ためいきをついて、次々と行き交う牛や人々をながめるのでした。

 今日の日曜礼拝で、お聞かせに預かりました。

「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。
 仏法聞き難し、いますでに聞く。
 この身、今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん…」

 受け難い人の命をいただき、聞き難い仏法を聞く身にならせてもらっている。では、私はどこを喜び、何をお聞かせ預かっているのか。ほんとうに尊い尊いご縁を粗略にせずに、大切に、大切に、大切に、ご聴聞に預かるしかないですね。

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プラネタリウム

012  今月の仏青例会は、東福寺の塔頭を借りてのお茶会&信仰座談会。アメリカからの浄土真宗を学ぶために留学生や、初めての学生さんたちなど、少人数ながらユニークな顔ぶれだったと聞いている。指導教授からの依頼で、留学生を世話するために連れ合いが出かけたので、その間、子供二人を連れて、深草(藤森)にあるプラネタリウムに出かけた。

 今年は、ガリレオ・ガリレオが、初めて天体望遠鏡で、宇宙を科学的に観察してから、ちょうど400年にあたり、「世界天文年2009」の記念の年だそうだ(→http://www.astronomy2009.jp/)。いやー、いろいろな行事があるもんやね。それで、フアンタステックな美しい星空をみせるというだけでなく、ガリレオの功績を讃える特別なプログラムがあって、大人がみても興味深く、改めて感心した。010

 まず、教会の権威が揺るぎない天動説だった時代に、自己の科学的検証によって、地動説を支持するガリレオ。いまでは、小さな子供でも、地球が自転しながら、太陽の周りを回っていることを知っている。でも、これは知識や映像として知っているだけであって、どうも個人の日常の実感のレベルでは、(まあ、船や飛行機なんかて移動しない限りは)、やっぱり地面はどこまでも平面であって、太陽や星が動いているという実感しかもてないもの。(天動説でも球体なんだが、それ以下やの感覚ね、われわれの実感って)。それだけ人間の尺度は小さいのだなー。だから、太陽や星の動きをあらわす表現も、あいかわらず地球を中心に考えている。まさに、どこまでも自己中心の、蛸壷はいたしか方なしだ。それに、聖書の解釈による教会の教権や権威が重くのしかかり、世俗の権威以上に、教会権威が至上だった時代に、異端を宣言されることは、この世だけでなく、あの世にも居場所がなくなる恐怖そのもの。これは今日の我々には想像できないことであろう。

 その中で、今から考えるとあまりにも粗末な天体望遠鏡で、恐ろしいまでの観察眼によって天文学の世界に大きな寄与をしている。その粗末な天体望遠鏡によって、

1)それまで滑らかであると信じられていた月が、実はクレーターがあり、山あり谷あり(水はないが海と命名され)の凹凸のある世界であることを観察し、
2)また、月以外にも、金星にも満ち欠けがあり、大きさまでがかわることを発見し、
3)そして、木星を周りを回る4つの惑星(ガリレオ衛生)を発見し、
4)完全無欠と思われていた太陽に、黒点があることも発見などして、
 神が創造した完全無欠・完璧な宇宙を根拠にした天動説に対して、地動説を支持することになったのだそうだ。

 単に天文学に留まらず、数々の科学分野での画期的な手法は高く評価され、教会やアリストテレス哲学の配下にあった科学の独立に寄与し、今日では、「科学の父」と呼ばれることになっている。しかし、当日は、教会の異端審問で地動説を捨てさせられ、軟禁状態に置かれたり、著書は発禁、太陽の観察で失明するなどの失意の生活を余儀なくされている。有名な「それでもそれは(地球)は回っている」と、つぶやいたという伝説もあるが、教会の圧倒的な権威で、神の前で、自ら信念を捨てる宣言をさせれらた時の心境はいかばかりだっただろうか。 

 ちなみに、ブラネタリウムでのレクチャーとは別だけれども、この時の裁判について、正式に謝罪があったのは、350年後の1992年のことだそうだ。ほんのつい最近。しかもその後もゴタゴタがあって、昨年12月のクリスマス前に、世界天文年2009年に合わせて、改めて教皇からの謝罪があったそうだから、その意味では、なかなかとんでもない話だ。

 まあ、洋の東西、時代は変われども、強大な宗教的権威のその体質は、似たりよったりやたなーという実感はありますが……。

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最終講義

005 真宗学教授の退官最終講義を聴講に出かける。少し遅れていく と、満堂の人々々。立ち見になった。「自然法爾の道理について」と題して、親鸞浄土教における自然法爾思想の形成過程から、その現代的な意義、さらには発展的な解釈論など、ご自身の深い思索を講述された。

  終了後、控室にごあいさつにむかう。実は、長年、大学に籍を置いていながら、残念ながらこの教授とはすれ違いで、講演を聞いたことがある程度で、授業も受けたことがなかった。それが連れ合いの関係で、最後に花束を携えてごあいさつをさせてもらえた。ほかにも、久しぶりの先生方に会ったり、なんちゃて女子大生の友人たちを紹介してもらったりと、彼女がキャンパスライフを堪能している様子がよくわかった。

 夕方、久しぶりに大学院時の恩師に電話する。
 お元気そうなお声だ。この世を生きていくことは、いろいろな厄介な制約がある。ほんとうに骨のある先生で、たとえ体制であろうが、権力であろうが、自信のところを歪めず主張し続けておられる歴史がある。簡単に解決する方法などないが、おかげて少し元気をもらった。
不利益を蒙るかもしれないが、もっと大きなスケールで考えたいなー。そんな励ましもいただく。これもまた自然の動きなのだろう。ただし、制限時間一杯まで、ウーンと悩み、考えることにはしょう。

 「蛸壷や はかなき夢を 夏の月」

 伊藤康善先生が愛された芭蕉の句である。

 なーるほどね。これや我が身の姿やなー。所詮は、小さな小さな蛸壷しかしらずに、そこで淡い夢を見ているだけなんだなー。明日には、蛸壷ごと、無常の漁師に釣り上げられるとも知らずにね。

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胎動

 報恩講法座が終わった余波もあってか、ここ3日間は電話やメールをいただく。報恩講の参詣者でないところから、ご示談の申込みや家庭法座開催の要望、御礼や近況報告などに加えて、報恩講参加者からの感想や心境のお知らせいただく。中には、とても有り難いメールをいただき、その心境の鮮やかなかめり目がうれしかった。またそのことにも触れたい。

 また、この3日間は、続けて遠方からの来客があった。それぞれに、ご本山の仕事や勉強会などで上洛されたついでに会館まで足を延ばしてくださった。共通していたのは、皆さん、僧侶やお寺関係の方ということ。もろちん、ひとりひとりの信仰について問うのが華光の第一義だが、華光会という小さな組織や会の名前にとらわれることなく、これまでお聞かせに預かてきた親鸞様の真精神を、いかに共有し、また分かち合い、いまは小さな点にすぎない力を、より有機的で、機能的なネットワークに展開していくのかも、華光の課題ある。これまでの地道な歩みの中での種まきが、徐々に芽をだしていく気配を感じて、とても楽しみになってきた。

 もちろん、あらゆる意味で、人の流れが活性かされていることは有り難いことだが、一方で、華光とあまり関わりの少ない、かじった程度の人が、華光会や伊藤先生の名前をだされた軽率な行動も耳に入ってきて、迷惑なことだとも思っている。

 しかし、これもまた折り込み済み。そんな外の騒音は無視して、ただわが道をしっかりと歩ませていただきたい。そろそろ、勇気をだして何かアクションを起こしてもいいのかもしれないなーと。たとえ小さな一歩でも、その時期は迫っている気がするのだが、そのためにも、しっかりと足元を固めたい。

 

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『ブロークン・イングリッシュ』

 「先生、来週はシュウカツで、実家に帰りますので、欠席します」。
  講義が終わって、学生が話しかけてきた。「シュウカツ?」、思わず聞き返す。「えー、シュウカツです。たいへんなんです」。「ああ、そう。頑張ってね」と、適当に話を合わせた後、頭で「シュウカツ」「シュウカツ」と反復しながら、それが「就活」、つまり「就職活動」のことであることがわかったのは、少しあとになってからのことだった。ぼくの大学時代にはなかった用例。うまく省略するものだと感心したが、それから何年も時が経つと、新聞見出しでも使われる一般に定着することばになっていた。

 それが、最近、「コンカツ」ということばを耳にするようになった。いまや若い女性も、「コンカツ」を熱心にしないといけない時代になたのだそうだ。そう、これは、「婚活」、つまり「結婚活動」の略である。

 以上が、映画紹介のネタふり。 『ラースとその彼女』と続けてみた、『ブロークン・イングリッシュ』-アラフォー(いや、まだアラサァーかも)が、コンカツの末、異文化の地で恋を成就させるロマンス。(コンカツも、アラフォーも、近々死語になる可能性大だね)

Brokenenglish_01  30代独身女性の悩みが、等身大で描かれている。ノラ(パーカー・ポージー)は、NYのホテルで、VIP専門のマネージャーとして活躍する独身のキャリア・ウーマン。若い時はそれなりにもてた。これがけっこう曲者になる。仕事も最初は充実し、それなりの生活もある。ところが、フッと気がつくと、ひとりぼっち。母親(ジーナ・ローランズ)も、「あなたの年齢になって、いい男は残っていないものよ。どうして、あのとき、あの人と…」となんて、うるさい存在になっている。仕事まで、以前のように情熱はもてず、不満一杯、惰性で働いている。それでも、彼女の自然体の美しい姿は、まだまだ男性には魅力的。ならばと、コンカツに熱心になるしかない。ところが、いざとなると、そう上手くいかないのだ。この年になると、お互いにいろいろな事情を抱えて、交際は失敗続きにおわり、仕事まで低調気味になっていく。

 「私を愛してくれる男性なんていやしなんわ」なんて完全に投げやり、あきらめモードに入った彼女の前に、若くて、情熱的なフランス人、ジュリアン(メルヴィル・プポー)が現れる。出会った時から、積極的にアタックする年下の彼だが、どこか軽く見えなくもない…。のぼせて傷つくのはもういやだと度重なる失敗に、どこか腰が引き気味でどうもギクシャクしてしまう。

 映画監督、ジョン・カサヴェテスを父に、名優、ジーナ・ローランズを母に持つ、ゾエ・カサヴェテスの監督デビュー作。この女性からの等身大の視点は、男性のぼくにも、嫌味なくスッキリして好感が持てた。たぶん、監督自身の人生経験も活かされているのだろう。そしてなにより、NYでキャリアもあり、TPOに応じたファッションセンスと、知性や魅力的な会話力をもらながら、彼氏のいない30代独身女性の揺れる心情を、さらりと演じている主演のパーカー・ポージーがうまい。この映画は、その自然体が、魅力的なのだ。

 すったもんだの末、結局、彼女に足りなかったのは、一匙の勇気だと気付くのだが、最後の大勝負?。現状を捨てでも、一歩踏み出す決心をして、彼の待つはずのパリへと向かう……。

 タイトルの“ブロークン・イングリッシュ”は、文法的に正しくない英語という意味だ。いわゆるブロークンというやつね。日本人のぼくには、この言葉の微妙な行き違いは分からないけれど、単に微妙な相違をテーマにしたものではない。
  また、
NYとパリの男女の出会い、映画の題材としては、よくある陳腐なお話。ごく最近なでも、『パリ恋人たちの2日間』とかもあった。しかも、NYの自然体パートから、パリの話が、ちょっとご都合主義で展開が荒くなっていくのは、ちょっとたまにきず。それでも、まあ、出会いなんて、計算されたものではないのだよ、というメッセージと受け取れないこともない。同時に、人と人の出会いなんて、けっして、文法的に正しい言葉のやりとりがなければ、その正しい理解はできないなんて、そんな堅苦しい狭いものじゃないだよ、というメッセージがあるようにも思えた。その意味では、異文化の相互理解のためには、正しい言葉遣いよりも、もっともっと大切なものがあるだろうし、人生を変えるのは、他人ではなく、まぎれもなく自分自身の変化を恐れないで、一歩踏み出す勇気だということなのだろう。

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損「徳」のはかり

 今日の京都は、小雪が舞う寒い一日。報恩講の間も、うっすら雪が積もって寒かったが、華光会館だけは熱かった。先生方やお世話の皆様、お疲れさまでした。

 今回は、法話のトップバッター。夏からチラシとにらめっこし、ネットで検索して、12月31日に驚きの安値で手に入れた一眼レフデジカメの購入顛末記が枕。当然、かなり有力なブログネタだったけれど、鮮度が落ちるので報恩講の法話用に封印していた代物だ。我慢のかいあって、かなり笑いも共感もとれた。カメラでも得し、さらにこちらも受けて、しめしめ「得」したぞのいい気分である。

 この損得は、単に利益の損得だけではない。安くて、いいものを手に入れた「私」って、なんて、なんでも知っていて、賢く、立派なのか。そうじゃないかなー。賢い節約家の私の日々の努力のおかげで、お人好しで、ちょっと抜けているとうちゃんの薄給でも、こんな立派な暮らしができるのよという自惚れ一杯でしょう。絶対に「損」はしたくないし、他の人にも負けたくない。お金も、時間も、労力も…。いかに効率よく、いかに楽して、そして人より少しでも得をするのか。日々、数円、数十円のために涙ぐましい努力し、コツコツ工夫し、ときに、少々いやなもことでも、最終的な「得」のためには苦にならない。それほど、「けなげ」で、「賢く」、「立派」な私なの!という大うぬぼれで、ときに、節約に無神経な連れ合いや子供たちに腹を立て、バカにし、結局、大ゲンカのタネになっていくのである。

 そこには、「得」=「幸せ」との錯覚があるからだ。あなただって、楽して幸せになりたいでしょう。絶対に、貧乏くじなんかいやだ! 負け組もイヤダー。まさに、「鬼は外、福は内」。この攘災招福こそ、私達の一番根深い現世利益信仰そのもの。
 年始の京都ローカルの情報番組に、わが寺の各種お守りがいかに御利益があるのかを、にこやかに、得々と説明している某ちょこっと有名寺院の僧侶が出ていた。中途半端に有名のゆえか、色違いのお守りが、それぞれ何に御利益があるのかをまことしやかに説明してる。なんと「あさしまい」姿かと、思わず恥ずかしくてテレビを切った。

 ここで、浄土真宗の門徒なら言うだろう。「浄土真宗では、そんな現世利益は求めません。お守りやお札にも頼りません」と。でも、その上から目線で自惚れていても、よーく考えてみよう。どんな高尚で、また複雑そうな顔をしていても、所詮は、自分中心の、目の前の損得と、直近の幸不幸の尺度でしか生きていないのが、私の単純な姿じゃないの?それどころか、そんな相対な幸せではなく、後生の一大事を解決して、絶対の幸福を得るのだぞと世迷い言をぬかしている。それのどこが悪いの?と、闇の中。家族や仕事は、所詮今生の迷いの世界。それを犠牲に、真実を求める私って、なんて特別な立派な人なのだと…。あちゃー、これや質(たち)が悪いかもよ。そのためには、貴重なお金だって財施できるし、時間も、労力もかけて聴聞にもかけつけるものね。

 だけど、この損得の物差し、いわば悪の結果である罪を恐れ、善の結果である幸福を求める罪福を信じる心で(要は、最高の信心をという善をもらって、浄土往生という絶対の幸福になりたいわけ)、いくら阿弥陀さまの真実を求めても、けっして聞き届けることなど出来ない。だって、阿弥陀様の物差しは、私達の損得や幸不幸の相対的な物差しなんかじゃないのだ。私達が大大大嫌いな、損の中の損、負けの中の負け、愚かなの中の愚かに身を投げ出し、我が命を投げ出して、果てしのない大昔から、劫を積み「徳」を累ねて、御修行くださっているのだ。いわば、「損徳」の真実のはかりなのてある。そして、その功徳、徳をまるまる、一切のかけもなく、一切の出し惜しみも、裏もなく、すべてを御名に封じ込めて、全徳施名の南無阿弥陀仏として、この迷いの、無明、極重悪人の私ひとりをお目当てに、その功徳をまるまる施そう、回向しようとしてくださるのである。五欲(一杯溜めたい、やりたい、食って呑んで、ほめられて、楽したい)に振り回されて、それを生きるエネルギーにしている迷いの私を救いたいがためなのである。いや、なんという大損。こんな愚かな私のために尊いお命を捨てるなんて、なんて大馬鹿もなのか。ご自分のお徳を全てを、ただのただで、それどころか、「どうか、受けてってださい」と、頭まで下げておられる。大損も大損、バカもバカの如来様。ほんとうに、びっくりするしかないよなー。

 勿体なくも、五欲に狂い、無明の闇に覆われた私めがけて、聞きやすく、称え易く、持ちやすい、如来さまのお命が円満した「南無阿弥陀仏」が、響流十方と響き渡っているのだ。にもかかわらず、損得、幸不幸の尺度しかない私は、その物差しで、あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロ、わが心を探り、聖教やお説教や、華光会館やお念仏の中に幸せになる信心はないかと探し回り、日夜、常に至り響く、命がけの私の南無阿弥陀仏を、他所事のように聞いているのである。

 いま、ここの私にも、響き渡っているじゃないですか、「南無阿弥陀仏」の名乗り声が…。

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喝飲ごとく聴く

 道綽禅師が『安楽集』で、説聴の方規、つまり、法を説くもの、聴くもののこころ構えについて細かく触れておられる。その2番目に、『大智度論』の次ぎの言葉を引用されている

 「聴くものは端視(たんし)して、喝飲(かつおん)のごとくせよ。
 一心に語議のなかに入り、法を聞きて踊躍(ゆやく)し心に悲喜す。
 かくのごとき人にために説くべし」

 「端視(たんし)」は、「ひたすらに心を傾けること」。「喝飲(かつおん)」とは、「のどが渇いた人が水を求めるような思い」。そして、「語議(ごぎ)」は、「言葉の深い意味内容」ということ。(『浄土真宗聖典・七祖篇』参考)

 つまり、聴聞者は、一心に心を傾け、炎天下で喉がカラカラに乾いた者のように、ことば尻ではなく、その深い意味に入り込んで聴聞し、踊躍して喜ぶのである。こういう人のために法を説くべきであると。

 明日から、親鸞聖人の報恩講法要法座が勤まる。ここ数日、冷えてきた。体調を崩したり、天候でキャンセルが続いているのが、残念だ。会場の準備は整った。すでに、高山と福岡の同人が来館されている。

 今回の世話役のリーダーのちょんまげさん始め、みなさんよろしく。

 本年の年頭を飾る大切な法要法座だ。
 2日間と短い法座だが、喝飲(かつおん)のごとく、ご聴聞させてもらいたい。

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「大命将終悔懼交至」

 書初め。今年は、半切の大きなものではなく、色紙。

 頂いたのは、『大無量寿経』下巻の、五悪段の一節のおことば。

017  『大命将 終悔懼 交至』 雁門謹書。

 「大命(だいみょう)まさに終わられんとして、悔懼(けく)こもごも至る

 大命、つまりこの娑婆の命がまさに終わる臨終を迎えて、後悔(悔)と、恐怖(懼)が入れ混じっ起こるということである。「どうして!あの時に聞いておかなかったのか!!!」。

 雁門は、かりもんではなく、「がんもん」であります。

 皆様のものと同じく、報恩講さまでご覧いただけますが、一足早く。

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『ラースとその彼女』

  新春1本目は、年末にパスして楽しみしていた、『ラースと、その彼女』

Lars_01  もし、兄弟や家族に、「インターネットで出会った彼女を紹介する」と現れた相手が、リアルドールだったら、あなたならどうする? 日本も、ハリウッドも、最近は、名作や旧作のリメイクや、ヒットした小説やアニメの原作ものが多い中で、こんなユニークなオリジナルの設定で物語は始まる。でも、けっしてふざけたコメディではない。ユーモアのセンスをもちながら、少数者への暖かい眼差しが、善意あふれる小さな町の人々の姿を通して伝って来る、アカデミー賞オリジナル脚本賞にもノミネートされた佳作だ。

 舞台は、アメリカの北西部の、ごくごく平凡な小さな田舎町。冬には一面の雪景色となる。小さなコミュニティーでこそ成り立つ、温かなヒューマンドラマだ。雪に覆われた景色も、けっして寒々しく、じんわりと、ほのかなぬくものが伝わっていくる。町の中心には、教会がある。信仰の場は、精神的な支柱であり、スモール・タウンの人達の大切なコミニケーションの場だ。

 主人公、ラース(ライアン・ゴズリング)は、若い女性とのコミニケーションが極端に苦手だという以外(別に同性愛者でもない)、仕事も普通にこなし、心優しく、純粋で、町の人達にも暖かく迎えられている独身男性。

 どうやら、彼には母の死と彼の誕生に関わる深い傷を追い、家族との深い葛藤を抱えているのだ。いまは、兄(ポール・シュナイダー)と、その妻カリン(エミリー・モーティマー)が暮らす実家敷地のガレージで、ひっそりひとり暮らし。義姉は彼の閉ざされた態度を開かそうと、親切に関わるが、逆に、彼女のお腹が大きくなればなるほど、ラースの態度は不自然になっていく。そして、職場では、彼に行為を寄せる積極的な女性が現れるが、彼はうまくコミニケーションがとれない。

 そんな日、インターネットで知り合った恋人を夕食に招待するという。喜ぶ兄夫婦の前に現れたのは、等身大のリアルドールと、その人形を生きた女性のように扱い、嬉々として話しかける彼の姿。人形の名は、ブアンカ、ブラジルとデンマークのハーフで、宣教師だという。宗教的に敬虔な彼女とは、結婚するまでは関係を結すばず、ベッドは別にするので、彼女を泊めてほしいと言い出したのだ。とうとう弟は、おかしくなった。衝撃を受ける兄夫婦。ヘタすりゃ、ここからハチャメチャな展開になりがちだけど、逆に、少数者や異質なものが現れることで、平均的なごく普通の人々の寛容力が試されることになる。

 彼にリアルドールのことを教えた同僚は、アニメフィギィアに大金をかけている。隣の女性は、ぬいぐるみが命で、いつもそのことで、ふたりは本気でケンカしている。最初、彼を冒涜する教会の女性は、犬に服を着せ、わが子のように話しかけている…。でもね、リアルな人形を愛するのはちょっとね、変態ということなの? そもそも、「ふつう」ってなんなの?という素朴な疑問も浮かび上がる。

 そして、彼の態度を理解し、寄り添いながら、その心の傷をごく普通に包み込む女医。戸惑いながらも、彼の態度(彼とその彼女)を受け入れていく兄夫婦。隠していた、弟への贖罪に気づき、「いつ、大人になったと思う」という弟の素朴な問いに、真剣に答える兄貴も、自暴自棄に荒れる彼に、かすれ声で本気で諭す義姉も、共にいい味が出ていた。そして、リアルドールを連れ歩く、変人、変質者、きわものを扱う見る態度から、彼とビアンカを受けいれ、逆に彼女に癒され、ほんとうに大切なものは何かを知らぬ間に気付いてく町の人々。 

 物語は、おもわぬ方向に、まさに「ものがたる」べきプロセスを大切に経ながら展開していく。そのおさまり方は、あまりにもうまく行き過ぎなんだけれど、まあ大目に見よう。
 ラストのシーンで、「ラースとその彼女」というタイトルが、グーんと生きていく。原題は、「Lars and the real girl」-なるほどね。ラスト、彼の顔つきがキリッと自信に溢れ、あまりにも違いすぎますぞー。

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今週末は報恩講

  朝から、報恩講の仏具のおみがきとお飾り。

 昔は、婦人会(いまはない)の方の担当だったが、いまは、京都支部の同人が、担当してくださる。やはり、会館の近くの女性方が中心であるが、少し遠くから、いつも2~3名の方がお出でくださる。Img_2005  
 きれいに供物のお飾りがすんだ。当日は、これに打敷に五具足となる。朱蝋燭や
表の看板を準備などもすんで、明日、明後日と掃除がある。昨年から、前夜の一斉の掃除がなくなって、2~3日の間に、有志が、来れる時に掃除する方法にかわった。担当の場所を決めて、少しずつシェアーリングをするのである。あまり効率のよい話ではないが、これも時代の流れなのであろう。

 報恩講の宿泊・食事の申込はすでに〆切っている。やはり新鮮な顔ぶれだ。でも、2泊ではないので、まだ多少は余裕はあるので、お急ぎでお問い合わせしてください。もちろん、宿泊が不要の方は、申込みもいらないので、どうぞ、ご自由にお参りください。ただし、今回から、参加費+志納という受付になっているので、ご協力を! 参加費は、1座=1000円(同人は500円)。

 詳しくは次ぎの案内から。http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/01/hoonkou2009-1.htm

 

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初自力

 今年も、いろいろな方から年賀状をいただいた。

 ぼくに来たのか、連れ合いに来たのかは、名前を見なくてもだいたいすぐわかる。

 ぼくの場合、僧侶の方や真宗学の大学関係の年賀状を頂く。まじめな定型のものか、お聖教の言葉や、黒一色のモノトーンの文字だけのものもあって、総じて地味。カウンセリング関係の方も、至ってまじめな雰囲気。

 華光の関係の人は、文面がかなり濃い、濃い、濃い、池のこい。元旦早々から、地獄やら煩悩具足やら書いてある。たまに、「今年こそ、信心獲得したいです」とあるが、「まあ、そんなことを言っている間は、まだまだ遠いなー」とつっこみ、一方、「今年こそ、地獄一定の身になります」とあったので、別に、無理にそんな身にならなくても、今がまさに、地獄の道中なのになーと、つっこむ。「獲信」というか、「墜地獄」というかの言葉の違いだけで、発想、視点が同じで、所詮、わが身かわいいの自己中心なのことに気がつかない限り、なかなか難しい。

 子供の保育園や学校関係でのお付合いの方は、家族写真が中心。華光の人も、同世代の家庭はそうだ。このごろはパソコソで作ってカラフル。子供が小さいと、家族か子供だけの場合が多い。まあ、わが家もそうである。

 一方、ゆうこの場合は、芸大関係の付き合いが広いから、ほんとうにセンスのよい賀状が多い。画家やデザイン・写真を本職にしている玄人なので、かなり凝っている。

 そうそう、変わったところは、自力整体教室のお友達。「今年も自力のこころを高めていきましょう」とあたり、「昨年は、ボチボチの自力でした。今年こそは…」とあって、苦笑。ボチボチの自力ってなんなのよ(もちろん、ボチボチしか自力教室に通えませんでしたの意だけど)。こちらには、「自力のこころをふり捨てて」と書かれたものがあるのだから、この対比はなんともシュール。もっとも、この「自力」は、自力・他力の自力ではなく、然治癒の自力であり、自己の心身を、他者に依存し、人任せで治療や癒してもらうのではなく、自らの力で、食を整え、心を整えることとセットで、身も整えていくいう意味がある。自らの力といっても、独善的なものではなく、むしろ、他力の精神にだって通じる「自力」なのではある。

013 というわけで、今日は、年末年始の不摂生したからだを、リフレッシュ。教室が、京都駅前に移って、ぼくにはずいぶん便利になった。自然木を床や壁にもはめ込んだ「空」(くう)という場所での初レッスン。床にはめ込んだだけの自然木が微妙に揺れ、すぎやひのきの香りがする、なかなかいい会場だ。

 でも、その夜は、伝道研究会や役員さんたちとの新年会で、さっそく不摂生。ちょっとカロリー多すぎたのと、生野菜や甘いものでからだを冷やして、帰宅したら、さっそく下痢。でも、すぐに反応するのはいい調子で、おかげで、食べたカロリー分は、その日にほとんど排泄し、今日は、朝、昼で調整して、報恩講に備えている。

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タンス株

 1月5日、今日から、株券電子化が始まった。

 実は、わが家にも、父の名義で、少しタンス株があった。もう40年近く前に、アメリカの同行から、東京電力の株をわけてもらって、増資をする程度で、一度も売買することがなかったので、証券会社ともまったくご縁がないまま、ずっーとタンスならぬ金庫に眠っていた。いまでこそ、トラブル続きで株価は下がり気味だが、昔は代表的な優良株。でも、投機目的ではないので、40年近く眠ったままだった。

 それが、3年ほど前から、株券電子化の告知があって、早めに証券会社に口座を開設しないと紙切れになる恐れがありますよと脅されていた。ギリギリでは混雑もするので、早めに手続きに行こうとと思ったのが、1年前。でも、何分慣れないことだし、自分名義でもないので、腰が重い。まあ夏にはと思っていたのが、ズルズルと秋になり、12月になっていた。まあいいや。1月5日までなので、華光誌がすんだら、今度こそ、いちばんに問い合わせをしようと決めていた。それが、ある日、なにげにニュースを見ていたら、電子化は1月5日からだが、証券会社の受付は、12月18日の午前で締め切られますと言っている。エー、1月5日までじゃないのと驚いて、カレンダーをみたのが、12日の金曜日の夜。しかも土曜日、日曜日を挟むので、あと2日と半日しかない。あわててネットで調べたが、もう12日で締め切っている証券会社が大方だ。やっと大手の証券会社を見つけて、問い合わせをする。混雑しているので、確実に入庫するのには、17日中に来いとのこと。父の名義だが、「高齢なので、息子が委任状をもって手続きに行ってもいいか」と尋ねたら、寝たっきりになっていたり、重篤で字が書けないなどの医者の診断書がない限り無理だといわれた。ますます困った。だって、午前中は、寝たっきりなのだから…。しかも16日までは、布教にでている。つまりチャンスは、17日の午後いちばんしかない。暇の時、暇の時と避けていたら、いちばん忙しい時にかち合ってしまった。ほんと、なにやってるのやら…。まるで、凡夫が真剣にやっているつもりの求道のようだ。

 なんとか父を説得して、早めに起きてもらって、午前の最終には証券会社に入れた。混雑はしていたが、特設の会場もあって、効率よく次々窓口を回って、無事終了の運び。名義人本人は、なんのことかさっぱりわからず、「ここに書いて、ここにサインして」と、細々指示しながら、どうやら無事に入庫がすみそうだった。かなり時間もかかった。

 ところが、最後にかなり待たされた。実は、株券が古くて、取得価格が特定できないという。問い合わせているが、混雑していていまは無理だとか。特定口座の対象とするためには、別の会社から株式異動証明書なるものを取得して、再度、父を連れて手続きにいかなければならなくなった。今度は、5月までだ。邪魔臭ーい。また、これも、報恩講がすぎて、インドがすぎて、華光誌がすぎたらと、いつか、いつかで日がすぎるていくのだろうなー。ゲッソリ。

 後で調べたら、1月5日をすぎても、別に紙切れになるわけではなく、何かと売買等に制約される程度で、権利を失うわけではないようだ。まあ、命をとられるわけでも、全財産を失うわけでもないのに、少しでも損をするかと思うと、必死になってやるものだと思った。それにしても、サッパリぼくにもわからないが、これはこれで、はまったらきっとのめりこむ世界やなー。まめに経済や株価をチャックしたり、本気で投機を目的にするのならともかく、その気がないのなら、早めに撤退したほうが楽でよさそうだ。

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但馬国分寺の揮毫

 一昨日、豊岡市日高より珍しい用件での、華光同人の来客があった。

 父に、但馬国分寺の本堂、薬師堂に掲げる額の揮毫(きごう)の依頼があったのだ。

 なぜ、依頼があったのかの経緯は略するが、国分寺とは、聖武天皇741年に国状不安を鎮撫するために、各国(60余州)に、国分寺と,国分尼寺との建立を命じた、歴史ある寺院である。各国に、国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれ、国庁とともに、その国の中心地、最大の建築物であった。そして、大和国の東大寺が、全国の国分寺の、いわば総本山と位置づけられている。(1)

  但馬(兵庫県北部あたり)の地にも、奈良時代(いまから1200年以上前)には、この日高町国分寺が、中心地で、ずいぶんの大寺があったようだ(2)。しかし、その後、度重なる災害や、秀吉の焼き討ちなどの戦火によって、まったく歴史的な大寺の面影はなくなり、明治期から昭和の始めにかけてはさびれて、無住になっていた時期もあったという。それが、戦後、細々と復興されて、最近、やっと檀家や護持する人達も増えてきたという。古来の位置とは少し離れているが、そこは由緒ある但馬国分寺を継承するお寺で、平安や室町の重文の如来も所蔵されているし、歴史的経緯から、寺号の石碑も東大寺の管長(別當?)が揮毫されたものが刻まれている。

  各地の国分寺は、律令体制が崩れ、国家の庇護がなくなり、廃寺になったところも多いが、中世には、本来の性格(国立の政治色の強い鎮護国家の寺)と異なり、さまざまな宗派を選び、今日まで継承されているところもある。ここは、浄土宗のお寺で、阿弥陀如来の他に、薬師如来が安置されている。

Tjidou   それで、依頼の字は、「南無阿弥陀仏」ならぬ、なんと「南無薬師如来」である。宗派も異なり、左の薬師堂に掲げるものなのだから、当然といえば当然だけれども、なんとも妙な感じがする代物。父は、伊藤康善先生の当専寺にも「華光道場」の扁額を書いているが、他宗派の寺院の申し出は初めてだろう。まあ、せっかくの有難いお申し出なので、お受けすることにしたようだ。

  完成後には、日高法座の帰りにでも、拝観に寄せてもらいましょうか。

(1)国分寺についてhttp://www.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/HTML/kokufu_kokubunji.html

(2)但馬国分寺について(遺跡)
http://www.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/HTML/kokubunji_.html

http://inoues.net/club2/tajima_kokubunji.html

(3)但馬国分寺について(お写真も拝借しています)
http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/tajima.htm

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ほんまにちっぽけやなー

Img_4601  修正会のあと、名古屋の姉一家と一緒にお祝いすることになっている。両親の金婚式を共にお祝いして以来、このことろ続いている。今年は、細い路地を入った三条をさがった先斗町(ぼんとちょう)の豆腐料理のお店。夏には川床料理もだしている。元旦で、京都らしく、幼児もOKで、限られた予算内で……いつもお店を探すは一苦労だけれど、今回は、リーズナブルかつナチュラル、しかも寒くない町家で(毎年、町家で肌寒い思いをしているが、床暖房だった)、貸し切りで、落ち着けてよかった。眼下の鴨川もきれいだった。

 2日目にちょっと風変わりな来客があっ002_2たが、電話も少なく、比較的な静かな三カ日。今日はイスラエル人と結婚して、かの地で宗教を学んでいる、ゆうこの芸大時代の友人 が遊びに来た。ぼくと、子供二人は、お年玉がわりの本を買いに京都駅周辺へ。昨年、取りやめた京都タワーに今年は登った。30年ほど前に、東京の人を案内して以来なので、2回目。完全にお上りさん気分。展望台には、「たわわちゃん」もいたので写真を撮ろうとしたら、下の子が泣きだして(ゆるキャラなのにね)残念。あとで、動かない置物とは喜んで撮らせてくれた。

Img_44992 ここの双眼鏡は無料なのがいい。ぐるりとあたりを見渡すと、は るかに比叡山が雲がかかっている。十条駅からは、雪を被った頂きが見えたImg_45012が、いまは雪になっているのだろう。右手前が大文字。茶色のところが「大」の横からの眺めである。前には、美術館や平安神宮の鳥居も見えている。

 真下は、昔の丸物だった、 近鉄デパートの跡地の一部。こうしてみるとかなり広いなー 。なかなかヨドバシカメラができない。

Img_4491  こちらは、ご存じ西本願寺さん。日本を代表する木造巨大建築物。すごい。大屋根の修復がかなってキラキラ。由緒もあり、ほんとに外観だけは、巨大で立派! もとい、「だけ」はいらない。今はまずい、まずい、訂正。「だけは」じゃなくて、外観「」の間違い。

 Img_44902 で、南に転じて、華光会館を探がす。肉眼では分からない。手がかりは、ゴルフ練習場と、テレサホール、十条駅が見えてきた。なかなか分からなかったが、近所のビルを手がかりに、「あった、あった」。隣にビルが建ってわかりずらいけれど、辛うじて3階と、屋上の部分が分かる。まあ! なんとちっぽけなんでしょう。250Mの望遠で撮影し、拡大してもこのありさま。クリックしてもらったら、赤いのところが、そう。豆つぶみたいなもんやなーと、しみじみ。

 でもね。

 ほんまにちっぽけなんはどっちやろう。(←止めなさいって!)

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1月1日に現世利益和讃

Img_4602  1月1日。新年は、修正会法座で始まる。昨年と重複することは、ここをご覧いただくことにしょう。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_4788.html

 ずいぶん、顔ぶれが新鮮だった。初華光会館組も数名あった。お正月なので、逆に、遠方からの参加もあるのだが、今回は、地元の京都・滋賀や大阪だけでなく、福井、石川に、東京や神奈川からの参加も多かったが、なんと沖縄の那覇からも、同人が参詣された。逆に、常連の東海や高山の方がなかった。何十年もの古い地元の同人と、ここ1~2の間でご縁のできた方とが混じり合った法座で、勤行のあと、悟朗先生の我が身をかけた、凡夫の姿を実相をお伝えくださったご法話のあと、一言ずつ座談会というか、今年の味わいや抱負を語りImg_4587 合った。

 ところで、勤行は、お正信偈をお勤めし、そのあと、現世利益和讃を華光節でおあげしている。「南無阿弥陀仏をとなふれば…」という15首の和讃。日頃はあまりいただかないが、お正月だけは、皆さんと唱和させていただく。天地にみちる神々や諸仏方が、「夜、昼、常に護るなり」と、神々の名前が変わるだけで、同じような内容のものが続く。普通にながめていてもそうは感じないが、これを皆さんとご一緒に、新年から声高らかに唱和させていただく、身の幸せを感じさせていただく。まさに、南無阿弥陀仏のお徳、真実信心のお徳をしみじみと味あわせていただくのである。

「南無阿弥陀仏をとなふれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまふなり」

 ぼくもたまに法話で取り上げるが、皆さんに声に出して、その味わいを聞かせてもらっている。ただ、口にだすだけであるが、そこに深い深い如来さまの慈愛のこころが滲み出て来る。喜べん、喜べんと愚痴り、歎く人は、その歎くエネルギーがあるのなら、この和讃を何度も何度も何度も、口に出し、声に出し、お味わしてみればいいのである。

「南無阿弥陀仏をとなふれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまふなり」
南無阿弥陀仏々々

「南無阿弥陀仏をとなふれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまふなり」
南無阿弥陀仏々々

「南無阿弥陀仏をとなふれば
 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して
 よろこびまもりたまふなり」
南無阿弥陀仏々々

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修正会

謹賀新年

旧年中はお世話になりました。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

大晦日は、ラストの映画(今年ちょうど170本目の『未来を写した子供たち』)にでかけ、昼から大掃除の続き、その間に、初めての本派のお寺さんからの出講依頼を受けて、ついでにちょっと現状の問題も聞いてもらたりしました。広がるのはうれしいことごてが、いろいろありますからね。あとは、ひたすら部屋のそうじ。日付が変わって、乾杯しながら、早くも初夫婦ゲンカと、まあ慌ただしい一日でした。別に、大晦日だって、正月だって、人間の営みにはなんの変わりもございませんわ。

さて、明日(というよりもう今日ですが)、華光会館は、修正会です。

日時:1月1日(祝)昼1時30分~4時30分(最大5時まで)

会場:華光会館

内容:皆さんで、声高らかに、正信偈、現世利益和讃のお勤めがあり、増井悟朗先生のご法話、そして、記念撮影をして、新春座談会です。一言ずつ、今年の抱負などを語り合います。

申込みなどは不要ですし、都合のいいところまでご参加くださればいいと思います。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2009/details/01/shushoe2009-1.htm

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