如来の直説法
三月以来、9ケ月ぶりの高山支部法座。急に冷え込んで寒くなった。途中は雪景色の場所もあったが、雪のない12月の高山法座となった。
先々週の東京支部法座の参加者も多かったが、今回の高山支部法座の方がさらに多くて、総数で50名ものお参りがあった。それでも、なんとか車座に座れたが、この調子なら、法座会場のF家を増築して広げないといけない。「浄財を募らないといけないね」なんて、冗談もとび出すほどだ。高山以外の宿泊者も多くて、初めてお会いする方も数名あった。なんでも、華光大会が終了した2日後にはF家の宿泊が満杯になり、近くのホテルにも分散することになったようだ。
法話は、白骨のご文を中心にした無常観を、いま取り詰めて聞くということ。善太郎同行の歌を中心に、「この善太郎」-この私と、引き寄せて聞くこと。そして、最後に、如来のご恩徳の高きことを沙汰せずに、我も、人も、善し悪しばかりを問題にしている姿を、羽栗先生の親のご恩の一説を基にいただいた。共通しているテーマは、具体的に、具体的に、「いま、ここの私」に引き寄せ、引き寄せて、如来様の願いを聞いていく。下らん頭を、下げ、頭を垂れて、「いま、ここで、聞く」。グズグズしている時間はない。珍しく、演台を叩いてお取り次ぎさせてもらった。
最終日の昼間の座だけ、急遽、ネットからお参りされた方があった。終了後に、一言ご質問にこられた。
「阿弥陀様の声がほんとうに聞こえますか」。
こんな場合、即答するのではなく、「なぜ、この質問がでるか」-質問者の問題の根の部分に焦点を当てることの方が多い。たとえば、「声を聞いてハッキリと救われた確証がほしいのかな?」といった具合に、だんだんと相手の問題の方を明らかするしていくのである。
でも、時間もなかったので、今回はそうはしなかった。それに、なぜ、この質問が出たのか、この方の経歴やネット上のやりとりから、その意図や理由がだいたいわかっているからだ。
結論からいうと、「ハッキリ聞こえている」。ぼくには、たったいまも、ハッキリと聞こえている、といったほうがいいかもしれない。
と、同時に、私の耳に聞こえたり、目で見えたりすることが、なんの証拠にならないことも教えていただいた。まったくそんなことを求めていない、そんな問いに用事がなくなった自分がいるのだ。
でも、分からないときは、確かなものが欲しかった。「目の前に如来様が現れ、ハッキリと見えないか」とか、「声なき声が、ハッキリと聞こえないか」とか。とにかく、このわたしの目や耳ではっきりと確かなものを得たかった。そして、わが心に確かな金剛の信心を求めていたのである。しかしである。それは、それはまったくの方向違いだったのだ。何百年、何万年、頭燃を払うがごとく真剣な聞法をしたとしても、そんなことを求めている間は、何も聞こえてはこないのだ。この泥凡夫の腐った目で見えたり、この耳で聞こえることが、なんの証拠や保証になるわけがない。この無明の我が心でわかったこともまた同様だ。
つまりは、まったく真実のかけらもない、死人(しびと)同様の身であることを教えていただいたのである。地獄一定のほんとうのわたしに出会わせてもらったのである。そして、そのわたしのものは、何一つ用事がなかった。まったく、お差し支えのものもなければ、ご注文もない世界があったのである。
ご法話の最中も、皆さんが口々に、もちろん、ご法座が終わってからは一斉に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の声が、仏間に響き渡っている。そのことが、ハッキリ、クッキリと聞こえている。こんなにハッキリしたことがほかにあろうか。この「南無阿弥陀仏」こそが、三悪道で迷い苦しみ続きけるこの私を、なんとか救わずにおかんと、わたし独りに呼びかけて、この迷いの目を呼び覚まさせ、そして真実の浄土へと呼び返す、阿弥陀様の直々、命懸けの、大悲の呼び聲なのではないのか。
いま、いま、ここで聞こえるままにお聞かせいただくのである。わが胸や聞き方の詮索ではない。この南無阿弥陀仏さまこそが、凡夫往生の支証(証拠)だと、蓮如様もおっしゃているが、この「南無阿弥陀仏」ひとつで、もう大満足の身とならせてもらっているのである。
いまこそ、阿弥陀様のご苦労を遥か遠くにながめないで、いま、ここのわたしのありのままの身の上に、引き寄せて「南無阿弥陀仏」をお聞かせにあずかっていくのである。
「さればかたじけくも、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷えるを、おもひ知らせんがためにて候ひけり。まことに、如来の御恩ということを沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことのみを申しあへり」(歎異抄後序)
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コメント
こんばんわ
はじめて おじゃまします
声が聞こえるのですか?と聞きたいくらい確証が欲しい私です。でも それを求めている限り 獲信はできない
と 言われています
でも はっきりする ということは 何がはっきりすることなんですか?
助かる身にさせられたと感じるのは 声が聞こえるではないとするならば 何がそう感じられるのですか?
感じるなどと それ自体 私をこねくり回しているだけだとしたら はっきりするとは?
どういうことですか?
教えてください
投稿: syo | 2008年12月11日 (木) 23:28
syoさん、はじめまして。
この記事にコメントがついて、反応があったことが、うれしいですね。
で、改めて、読み返してみて、ぼくとしは、充分、言いたいとを書いているなー。この中に、答えはあるんじゃないかなーと言いたい気もします。これでうまく伝わらないのなら、ちょっと難しいかもしれませんが、もう少しだけ丁寧に書くと、
まず、何がハッキリするのかというと、
そう、凡夫が想像している信の世界は、すべてはからいの産物ということですね。それが、すべて木っ端みじんに崩されます。そのことが、まずハッキリする。「ああだろうか、こうだろうか」と考えていたことは、すべて「はからい」で、大間違い。「求道、求道、聞法、聞法」と思ったいことが、すべて「仏敵」(疑い)だった、如来様の邪魔をしていたということが、とてもとてもハッキリします。ズバーッと突きつけられるんですね。
そして、「絶対に、聞けない自分」というか、「信心なんて得られない自分」、つまりは、「地獄真っ逆様の自分」が、言語を超えて、ハッキリ知らされました。そして、そのことで、もう満たされてしまいました。抵抗のすべもなくなりました。
もうこれで止めてもいいけれど、もう一言つけ加えると、
それは、同時の自分の力で分かったのじゃない。そんなことも分からない、死人(しびと)同然の私だったんですからね。すべてすべて、如来様のお働きでないものはない、そのこともハッキリ知らされましたね。生きた南無阿弥陀仏が、逆謗の死骸の私に、先に、飛び込んでくださっていたことが知らされる。その南無阿弥陀仏によって、疑いが晴れていました。(というより、もう問題じゃなくなっていた)
もちろん、生きたお念仏に出会うことは、思いや感情のレベルじゃないですね。いくら計らっても、考えてもダメですわー。南無阿弥陀仏に「撃たれた」というか、「貫かれた」という事実なんですから。
だから、もうほんとうにその道は求めておられるのなら、お救いに手をかけるのではなくて、逆に、自分のほんとうの物柄(値打ち)を聞いていくんことです。信心や獲信なんていうと、「ああじゃ、こうじゃ」と、ただはからいを深めるだけ。それより、いま、ここの、この私が、どんなものなのか、それを具体的に、心を砕いてお聞かせ預かるしかありません。
つまりは、まず、「仏願の生起」を聞くんですね。なぜ、如来様が立ちあがらねばならかったのか。機無のところでね。そんなことを、理屈で聞いて覚えても、意味ないでしょう。スラスラ答えられても、実際の私の、どこをお目当てだったのかを、具体的に現実にそって聞かせていただくところからしか始まりません。
逆に、そこを外して求めても、絶対に触れることのない世界です。
まあ、とりあえずは、こんなところでしょうか。
投稿: かりもん | 2008年12月12日 (金) 00:43
お返事ありがとうございます。
早くのお返事に びっくりしました。ちょっと前のものだったので気がついてもらえるかなと思いながら 長いこと求めていますがなかなかはっきりしないでいたところにとてもぴったりな内容だったので嬉しくて質問をさせていただきました。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏と称えていれば 自然と地獄へ落ちる身 あさましい自分を見せていただいて それにおののいて もう助かるはずなどない私であった。と 想定しながらお念仏を称えています。お念仏さえ称えていれば そういう世界をきっと見せてもらえると思ってお念仏しています。
という ”思って”が 私の方に向いていて ちっとも阿弥陀様の方を向かないということなんですよね。安心したい 阿弥陀様に抱かれたい そんな思いで称えています。その“思い”が捨てものなんですよね。
でも 阿弥陀様の方を向くということがいまひとつわからない。生きたお念仏に撃たれたいです。頭の中であさましい自分 自分のことしか考えていない自分。そんな自分を感じることは多々ありますが ”撃たれた はっきりした” と そこまでいかない。
つい はっきりするまで という目標を持って ただひたすらお念仏を称える毎日です。でもはっきりしない
それは 自分の頭にこうなるはずの概念があるため
それを 捨てるとは・・・???
自分の頭には何度も言って下さっているように なにもない
ただ いただくだけ
・・・・・
ぐるぐるぐるぐる・・・・・
投稿: syo | 2008年12月13日 (土) 08:48
蛇の道はヘビですからね。みんな通ってきた心境なので、お気持ちは、わかる気がします。
でも、仏法は、「求めて、捨て、そして転ぜられる」世界です。もうすでに、「求める」ことは教えていただかれた。後生の一大事の解決という目的をもっておもらる。末法の世にあって、これはたいへんな尊いことですよ。
でも、もし求める方向がズレていたら、どんなに念仏しても、どんなに頑張っても、やっぱり真実に出会うことはありませんね。ネットの検索でも、同じでしょう。「て」と「で」を間違っただけで、ヒットしない。たった「゜」ぐらいじゃないか。だいたいOkというところもあるけれど、それがいちばんの曲者なんじゃないかなー。
なぜなら、間違ってないという気持ちがどこかにありますからね。でも、ほんとうは、「自分」がかかるものすべて大間違いなんです。迷いなんですね。その正しいと思っている「聞法」も、「念仏」も、「体験」も、すべて捨てさせられていく。(しがみついていても、かならず臨終に置いていくんだけど)、そこでしか、如来様の命懸けの叫びは聞こえてこいないです。いまに、臨終を取り詰めて聞くしかない。
「捨てる」ここが、求道のいちばんの難点。グルグル考えても、グルグル回るだけ。「いつか」はない。
「百尺の竿頭に更に一歩を進むべし」の、この一歩の歩み、頭下足上とほんとうに落ちていくところにしか、お念仏に出会うことはない絶対にない。
善太郎さんのうたを最近味わうことがあるので、ここにもいくつかエントリーしているけれど、「南無のこころ」「他力回向のこころ」を歌ったところを、一度、お読みください。
投稿: かりもん | 2008年12月13日 (土) 11:19
ありがとうございます
「南無のこころ」「他力回向のこころ」を歌ったところを、一度
、お読みください
どこにあるのですか?ずっと過去の題で「南無の心」を探していったのですが 9月くらいの 闇の子供たち のあたりで
もう眠くなってしまって・・・
投稿: syo | 2008年12月13日 (土) 23:48
お早うごさいます。
これから、成道会(お釈迦様のお悟りを祝う)行事が始まります。
さて、善太郎さんの、南無のこころを「歌」を紹介したかったのですが、むしろ、南無のこころだけでなく、善太郎さん通じたことなので、次ぎのところがいいと思います。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-a510.html
(コメント欄は、リンクつかないので)、このページの左段の下に、検索の項目があります。
その上段の↓から、「このプログ内で探す」を選び
キーワードを入力してください。
お勧めは、「わが身に引き寄せて」と入力されたら、聞法の要点に関する記事がでてきます。「罪悪観」や、「無常観」と検索してもらっても面白いかもしれませんね。
もしくは、左端のカテゴリーのところで、「法味・随想」「法座・聞法」の欄をクリックしてもらえば、いいと思います。聴聞は具体的にとか、本願招喚の勅命とか、求道の指針になるような記事もあると思います。
要は、自己の罪悪にしても、阿弥陀様のお救いにしても、「いつか、どこかで、誰かが」という腹で聞いていては、届いて来ない。「いま、ここで、私」に、それもきめ細やかに、具体的にお聞かせ預からないと、いつまでも、霞のはるか向こうに霞んだままですね。罪悪観も無常観もしかりです。
投稿: かりもん | 2008年12月14日 (日) 10:20
ありがとうございます。
久しぶりに ピグミンの歌を聞かせてもらいました。
自分の罪悪を聞いていく
ということで 今日一日 見つめてみました
夫がパチンコで勝ったお金をほとんど私に渡してくれます
滅多に行かないのですが たまにいって 勝つと そのお金を私に。
私は とても潤って 美容院に行こうかなとか 服を買おうかなとか わくわくしている。でも 子供がゲームが欲しいというと とたんに もったいないと思ってしまう自分がいた。
夫の稼いできたお金は家のために子供のためにと使うが 自分で稼いだパートのお金は 快く 家族のために使えない。
そんな自分がいる
夫や子供が話しかけてきた
私は あれもやりたいこれもやりたい このホームページをもっと見たいのに コーヒー入れてくれ と 言われて すごくめんどくさい自分がいた
御飯の支度の時間になると めんどくさいあまり イライラしてきて いつもなら切れるキャベツもちょっと鮮度が落ちていたせいもあって 思うように切れない。イライラして あたりちらす自分。子供仕方なく手伝う。
一日とおすと 数え切れないほどの 自分勝手な自分のことしか考えないような言動と行動。
でした。
こういうことを 見ていくということですか?
投稿: syo | 2008年12月15日 (月) 00:41
syoさん、連日の登場ですね。
そうけですか。奥様でしたか。文面だけでと、若い男性の方かなーと勝手に思ってました。もしかして、「奥様はS」会の口かなー。
要は、自分を知ることでしょう。でも、自分では自分が知れないし、人間の智恵で分かっても意味がない。如来様がご覧になって、自分(私)というものを教えてもらうわけですから。どこどこまでも、自分中心の自分を聞いていくしかないですよね。急がば回れで、けっこう自分の罪業を具体的に観ていくと、ほんとに嫌になってくるけれど、そこにしか阿弥陀様の願いはないわけですからね。
源左同行の牛に荷を背負わせている時に、「ふっと」目覚めるというエピソードがありますが、日常生活の中での内観が身についておられたのでしょうね。なにも、説教会場だけに、如来様はおられるのではないし、聴聞している姿で死んでいくんじゃないですものね。むしろ、仏とも、法ともない姿こそが、如来様の目に移っている哀れな姿なんですから、そこを教えてもらわないで、よそ行きの自分を取り繕っても、それゃダメですわ。
ところで、別にここで続けていってもいいですが、コメント欄は読みづらいし、コメントがはいったのもわかりずらいです。
ブログを初めて2年強たちますが、もしこんなケースの場合は、掲示板に場所を移すことを想定して始めていました。
ここのやりとりを、連れ合いが管理人をしている、掲示板の方に場所をうつしませんか。
http://teatime.bbs.coocan.jp/
連れ合いやムラ君が中心ですが、ぼくもかかわっていきます。それに、他にも関わりたい方があると思うので、いろいろな角度からも参加してもらえてていいかなーと思いますね。もちろん、ハンドルでOkです。
もっとも、ネットやメールだけの、やりとりでは限界があるとは、ぼくは感じていますが…、まあ、いま、こんな感じで。
投稿: かりもん | 2008年12月15日 (月) 23:19
ありがとうございます
掲示板へ移らせてもらいます
ところで奥さまはSって?なんですか?
奥さまは魔女?S?M?
牛に荷を負わせる話は読んだばかりです
そのときの源左同行は 地獄へ落ちる身だという思いはあったのでしょうか?
いきなり 軽くなって 自分の罪悪は見れたのかな?と思ってしまいました。
あっ 続きは掲示板ですね
また よろしくお願いします
投稿: syo | 2008年12月16日 (火) 00:45
こんにちは。
先日、常連のメイさんがいらっしゃることを知らず、メイというハンドルネームでコメントしてしまったものです。
先生をはじめ皆様、そして常連のメイさん、ご迷惑を
おかけしました。
これからは、anne(アン)というハンドルネームでコメントさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
私は、syoさんと先生のやりとりが気になって
(syoさんがまるで私の心を代弁してくださっているようなところがあったので)読ませていただいていました。この続きが掲示板に移るということでしたが、見つけることができません。よかったら教えていただけませんか?
投稿: anne | 2009年1月 7日 (水) 14:16
anneさん、どうぞ、よろしく。
別に、二代目メイさんと名乗ってもらってもよかったのになー。だって、初代メイさんは、しばしハンドル変えてますし、というより、最近は、「元」常連という感じで、 最近は、どうしてるのやら? ずいぶんご無沙汰だものなー。
そうですね。ぼくの説明が悪かったようで、新しいスレッド(新規書き込み)は掲示板にたちあがっていないと思います。
そう、せっかくなので、anneさんがご質問なり、ご心境なり書いてくださいなー。そんなツッコミしてもいいかなー。
投稿: かりもん | 2009年1月 8日 (木) 15:45