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輪読法座と、通夜と…(1)

 今日は、華光誌輪読法座。みんなで、声を出して読むというだけでも、ずいぶん、意味あります。普通なら、サアーと読み流してしまいますものね。ぼくにしても、(今回は、M先生のものですが)、「こんな表現使われていたかなー」とか、「なるほどなー、こんな風にはよう言わんなー」とかずいぶん感心させられました。そして、改めて華光のお勧めの要を教えてもらった気がします。たとえば、「仏願生起本末を聞く」わけですか、

「聞く資格などないのです。救われる値打ちがない。なぜ阿弥陀様が立ち上がって下さったのか。仏道修行する能力がないどころか、仏法を聞く気さえない私。聞く耳もたぬ。さとりを求める心は冷たく死んでいる。韋提希以上に箸にも棒にもかからない。真っ暗闇の世界で、目先の食物を求め、取り込み、排泄することを延々と繰り返すだけのミミズと本質的には何も変わらない。それが私の姿です。
 この私の痛々しい姿こそ阿弥陀様にご本願(仏願)を立てさせた。ですから、阿弥陀様の心を聞かせてもらうとは、まず、この仏願の生起について、つまり阿弥陀様がご覧になって泣いてくださったこの私の本当の姿について、心静かに聞かせてもらうということ。この順序は変えられない。これが華光の一つの特色かなと思っています。
 親鸞様は南無阿弥陀仏を聞くとは「仏願の生起・本末を聞く」ことであるとお示しくださいました。阿弥陀様のご本願がなぜ起されたのか(生起)、どのような願を立てられどのような行をどのようになさったのか(本)、その結果どうなられたのか(末)。これだけのことをもらさずに聞く。機縁が熟したならば一分もあれば全部聞き切れるはずですが、機縁が熟したか熟してないかなど、私たちにはわかりようがない。そこでとにかく法座に出て、あるときは生起本末の生起を中心にした法話を、またあるときは本末の本を中心にした法話を聞いていくということになる。けれども、生起を抜かして、いくら本や末についてのありがたい話を聞いても駄目だというのが華光での聞法の基本にあると思うのですね。信前信後に関係なく無常観と罪悪観をすすめるのも、そのためです。

 まず仏願の生起を聞く。この私とはどんな私かを聞かせてもらう。仏様のお答えは、お前は毒のかたまりだ、というものです。かたまりなんです。つまり前から見ても横から見ても、上から見ても下から見ても、たてに割っても横に割っても、毒以外には何も見つけられない。100%毒でできているということ。(後略)」

 なるほどね、現地でご法話を聞いたときも感心したけれど、「この順序は変えられない」なんて、わざわざ意識していたわけではなくて、自然にそう説いていましたが、改めて指摘されると、まったくそうとおりですね。説く方がそうなら、聞く方もそう聞くわけですね。阿弥陀様がご覧になられた私の物柄を聞く。だから、「お救いに手をだしなさんな」というけとになるわけです。

 ところで、今回は、初めての方が3名参加。ひとりは、今回の出版でお世話になるだろう、出版社の社長さん。ご自身も、いろいろと聞法会には参加されているようですが、こんな雰囲気のところは初めてだと仰っていました。まず、車座になって、みんなが自由に話し合うこと。そして、若い人が多いこと(そうですよ、参加者は15、6名でしたが、20代の女性が二人。30代の人も3、4名、あとも40代の人がいて、年配の方でも60代ですから)。そして、皆さんのレベルの高さにも感心されていました。それも、ただ教学の勉強ということではなく、自身の味わいのところで語られる言葉は、深いですよね。「分からん、分からん」という人だって、これが言えるだけでも、すごーいことなんですよね。最後に、「後生助かりたいとはナニぬかす!」の言葉に感心されてました。
 もうあと2人は、先日の高山法座に飛び込みでこられたご夫妻。「阿弥陀様の声がハッキリ聞こえるのですか」と質問された方です。ご縁がつきそうで、うれしいです。どうぞ、たいせつにご聴聞ください。

 ちょっと長くなるので、一旦区切ります。 

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