尻に火がつく
いま、高山支部法座の帰路の列車の中だ。
二度とするまいと以前決めていた、ご法座へのノートパソコンを持ち込んでの華光誌の編集作業である。
年内発行のためには、あまり日数がないのだ。この一年、ムラ君に版下作成をお願いするようになって、格段に効率がよくなったので、ついつい計算を間違って油断した。今号は新年号で、年内発行のための印刷所渡しのタイムリミットがはっきりしているうえに、別冊の年賀交換と、年間行事案内がある。
それに、その年賀交換と、年間行事案内だけは、まだぼく自身が版下を造っている。昨年なら、この時期、本体の華光誌の作業は終了していて、年賀交換に専念していたのに、今年は、まだ本体(誌上法話のみをやっと車中で完了させた)は、全貌すら見せてくれない。これゃ、20年ぶりに年内発行は無理か! というほどのピンチであることに、やっと高山法座の前夜に、作業の遅れに気づいて(遅いちゅうの)、突然、焦りだした。別に飛び起きて作業するわけじゃないのだから、そんな夜中に、いくら焦っても意味ないのに…。
というわけで、行き帰りの車中でもキーボード叩くことになった。フルで三座法話をしたあとで、これはなかなかきつい。でも、誰のせいでもない。段取りを間違った、わが身の怠慢である。
ただ、これも年内発行のタイムリミットがあるからの話だ。この締め切りがないと、いつまでも先のばしをしていくのが、わが自性である。
それにだ。所詮、これもこの世の中のこと。まだ、この一週間、華光誌を最優先して、頑張りさえすれば、なんとかなるだろうという計算があるのも事実だ。それでも、万が一の場合は、年賀交換だけを最優先させて、本体は年越しとなっても、同人の皆さんにお詫びをすれば、別に社会的信用や、ましてや命まで失うような一大事の話ではない。この世のことは、なんとでもなるのである。
そう思うと、無常を無常とは実感できず、「後生の一大事」といわれてもピンとこない身で、「早く後生の一大事を取り詰めて聞け」、「いま、しかないんだゾ」といわれても、遠い、遠い先の話になるのは、ごく当たり前の話。一期無常の締め切りは、相変わらず、ぼくの手帳には空白のままになっているものー。それでいて、無常を実感しようというのだから、轉倒しているとしか言いようがない。ほんとうは、これこそが二度と取り返しのつかない一大事なのにね。
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コメント
こんにちは。朝夕の冷え込みの厳しいここ数日です。今回のブログ“人間かりもん”の姿が生々しくでていて、つい師を忘れ“Sちゃん・・・”と声かけてしまいそうな親近感(私にとっては日常茶飯事の出来事につけ)を覚えました。(失礼) しかし、そこは師ですね。「仏さの視点」からしっかり私をご教化くださる。ありがたいことです。実は昨日、旦那寺のこどもの報恩講(おとなが多い)でした。ここでは書けない、お参りして下さった人には言えぬ失態をやらかしました。誰もみてない、助かった思う私。しかし、しっかりと私が背負っていく業種、その業故にいく「後生」を見逃すことなく、知らせ、教え導く如来さまがいてござる。やはり、この私の日々の生活の中に、刻々と過ぎる時のなかに南無阿弥陀仏さまのお働きがありますね。仏さまからみたわたしは、いつも“非常時”ですね。南無阿弥陀仏。
投稿: 稜 | 2008年12月 8日 (月) 12:43
稜さんと続けてコメントしたMANU.さんのブログで、星をながめていたら、「そうだよな、忙しいとか、慌ただしいなんていんてられないな」と、ノンビリしたのが、間違いだったみたい。でも、実のところは、いろいろやりたいから時間がなんですよね。それに、まだブログが書ける間は大丈夫か?
もっともっと、親近感のあるネタを書きたいけれど、最近、家族の皆さんのおゆるしがでないんですね。でも、高山でもご支援いただいたので、なんとかご期待に添いたいんのですがね。
投稿: かりもん | 2008年12月 9日 (火) 00:06