« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月の28件の記事

阿弥陀様を表す漢字一文字は?(結果編)(前半)

 皆さん、今年もたいへんお世話になりました。
 最後に、「阿弥陀様を漢字一文字に表すとしたら?」という初めての企画物も、予想以上のエントリーをありがとう。もっとも、これだけ告知しても、うちの連れ合いのように、いまだに知らない薄情者(シンジラレナィー)もおりますが……。
 単に文字だけでなく、その味わいが有り難く、いちいち納得の内容。中には、予想もしなかったものもあり、「なるほど」と唸るものものもあり、漢字一文字と言っているに、記号だったり、叫びだったり、その自由さがよかったなー。「真」や「親」のように重複もあるけれど、それぞれ味わいもあるので、皆さんのコメントをまとめてみました。
 そして、最後に、ぼくもエントリーします。

(1)「疑」
 その心は、申し訳ありませんが、疑いいっぱいです。(メイ)

(2)「眞」・「然」・「實」
 
「愚」で「懈」で「惰」で「驕」で「慢」……の「屍」である私は、ただただ念仏させていただくのみでございます。南無阿彌陀佛 (はらほろひれはれ)

(3)「暖」・「熱」
 
迷ったけど、この2つかなあ。( ねこ丸)

(4)「願」
 悩んだけどやっぱり「願」にします。「絶対に助からん私」が阿弥陀さまの「どうにか助けてやりたい」という願い「願力」によって、今の私があるから。なんで悩んだかと言うとうちのわんこの名前やから・・・こちらは今度生まれて来る時は人間に生まれさせてもらってね・・・の願いを込めて命名。(蓮華)

(5)「法」・「名」・「光」・「聲」
 阿弥陀様のお働きを表す言葉…これを4人の子どもの名前にいただきましたから、私はこの4つが外せませんね。次の子にはどうしようか…(うそうそ、勘弁してください)(MANU).

(6)大」
 
ある方の言葉に、「大海より壮大な大空、大空より壮大な人心」とありました。善導様も、人は一日八万四千のおもいがあると教えてくれています。日本語で「こころ」をあらわす言葉は3000語以上とも云われ、科学でも人が一分間に発することばは250語だが、その10倍の思いがあるとのこと。何れににしても、この私が意識している、していないを別にして、この稜がおこすこころ(執着成就の凡夫)の働きは、大海よりも大空よりも広く深い。そして、そのことを知らない。この私のおもいの総てに欠くことなく、働いてくださる南無阿弥陀仏さま。この執着の深い稜を、執着の深い阿弥陀仏さましか救うことが出来ぬと知らしして戴く。『教行信証』の大教・大行・大信の「大」は、仏様のことと教えて戴いたことがある。そんなお味わいを通じて「大」としました。 (稜)

(7)「執」
 輪読法座にて。阿弥陀様は、執念の人、執着の強い人だと。阿弥陀様は、嫌になるほどしつこい、どこまでも私に執着しつくしてくださった方りということですね。(京都・Oさん)

(8)「親」
 親なくして今日の私はない。その大切な親も歳を重ね介護が必要になれば、次第にお荷物となり足手まといになってくる。利用するだけ利用して、邪魔になればポイ捨てである。 そんな心しかない私が何を求め、何を語るというのでしょうか。この世の親のご苦労でさえ聞く心のない私がどうして如来大悲のご恩徳を聞くことがデキルのだろうか…。南無阿弥陀仏!(KURO)

(9「信」「真」「誠」「智」「實」「如」「妙」「誓」「陽」「慈」「悲」「熱」
 チョット遅れちゃって、思っていることは全部出てしまった感じ。まだまだ一杯ありますがこの辺で。実は、私にちっとも無いものを思い浮かべました。(ユキちゃん)

(10)「?」 (希死念願)

(11)「憑」
 
如来さまが、たのんでおられる。つきまとうて、つきまとうて、とりついてなさる。こればっかりは、しゃあないですわー。(大阪凡夫)

(12「明」
 最初に「疑」って書いてしまい(1)、皆さんのコメント読んで、何か間違えていることに気づきました。もう一度冷静に考えて「明」。阿弥陀様は、私のあかりです。(メイ)

(13)「ぎゃーっ!」
 
すごいっ!!一文字で、皆さんのお味やいを聞かせていただけて、、、。うれしいです! 私は、「ぎゃー!」です。南無阿弥陀様のお心を聞かせていただくとき、私のこころの奥底は、「ぎゃーっ!」と、叫んでいます。(Tねこ)

(14)「抱」
 
「光」「声」「智」
頭の中でのイメージです。でも体感的には「抱」。包まれてる 抱きしめられてる。
 口に出したことは「やらねば」という律儀なとこもあったりして、初めて書き込みます。(カイババ )

(15)「涙」
 まあ思い当たるのが、みなさんと重なってしまいます。どうしようかなぁ?と考えていたらフッと出てきたのが、「涙」。この私を見て、阿弥陀さんのほうが先に涙を流して下さった・・・そこから阿弥陀さんのご苦労が始まった・・・最近のご縁の中で、そんなことを主に味わっています。(yanke)

(16)「真」
 「大」、「願」、「執」(「念」)、それぞれホンマやーとうなづけますし、そうそう、「涙」もうれしい驚きでしたが、やはり私の場合は、漢字としては平凡ながらも、「真」ですね。字は平凡でも、思えば思うほど、とてつもない驚きの世界が広がって、「大」「願」「念」「涙」も、全部「摂」せられていくってかんじです。もうこれ以外にはありえない!まさに実感!!です。(Moz)

(17)「悟」
 2回目ですが…(5)。前回は子どもの名前にいただいた文字をあげましたが、実はもうひとつあります。ただ、この字だけは自分の子どもにつけるのはもったいない(笑)。誰か書くだろうなと控えていたのですが、不思議と出てこないので。その字は…「悟」であります。(MANU)

(18)「遠」・「添」・「親」
 僕はなんだろう? 
 昔は「遠」。
 今は「添」って感じます。
 あとは「親」も思いつきましたぁ。(ニシオカ)

(19)「力」 (ちから)
 電話でのエントリー。ずばっと一言。「力」(ちから)。本願力、願力の力。生きて働くお力に促されるしかない。(びわ湖のMさん)                           

(長くなったの次へ続く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

阿弥陀様を表す漢字一文字は?(結果編)(後半)

(20)「一」
  ぼくも 学生時代からずっと同じこと考えていました。
  「一」です。自分の迷いや味わいが混ざらないから、一向に私めがけて あきることがなかったから私を救うことに疑いがないから。

(21)「聞」
 あと、「聞」がでてないですね? 自分が聞くでなく、聞きとどけてくださっていたから。やっぱり阿弥陀さん一人のお徳よりも自分に触れてくるところを顕した文字にぐっときます。おまけをいえば、「燈」「楽」「青」などが好きなので、子どもが生まれたら名前に使いたいです。「捨」「即」「宿」「礼」などの心も気になります。(楽邦)

(22)「謝」
 私は「謝」かなー。謝っても謝りきれないけど。(かーぶ)
(23)「仏」
(24)「光」
 父は「仏」。母は「光」ということでした。(かーぷさん父&母)

(25)「死」
 
阿弥陀様に、「死」とはおかしいようだけれど、私に「死」ぬことを教えてくださったので。(京都家庭法座にて。0さん)

(26)「救」
 
なんの条件もない、無条件のお救いでした。私は、この一文字で決まり。(京都家庭法座にて。Mさん)

(27)「親」
  明日のことはわからないを実感した1年。夏頃にはこの経済状況は想像すらできませんでした。「世間虚仮、唯仏是真」。私は世間虚仮の真っ只中で生きています。仏法を聞かていただこうと、私自身が世間虚仮そのものであることに変わりありません。悲しいことです。でも、その私に向かって、唯仏是真と呼んで下さる方がいらっしゃる。もったいないことです。
 阿弥陀仏様をあらわす漢字一文字は、私は「親」です。(こうぜん)

●●●●●

 予想外の「疑」に始まって「親」まで、ほんとうにいろいろ出ましたね。ありがとう。

 さて、ぼくもエントリー。その前に番外編です。最初の例題で出したので、皆さん遠慮されたのが、

(28)「摂」
 逃げるものを追いかけて捨てない。摂取不捨のお働きにです。

 あと、「涙」や「一」などの重複を除いて、ぼくのなかの定番ながら、まったく外れたのが、次ぎの三文字。

(29)「海」
 海は、本願海というように、親鸞様がイメージされた阿弥陀様のお働き。

(30)
「寿」(命)
 寿(命)は、
「光」と並んで、阿弥陀さまそのもの。その命を食らい、その命に帰し、そして無量の命をいただくわけです。

(31)
「満」
 これは、完全に個人的な味わい。実は、子供の名前の候補にも「満ちる」があったんですが、連れ合いにあっさり却下。
 「空」(くう)、真実そのもの阿弥陀さまが、虚仮で、空(むな)しい私のなかに、満ち満ちてくださるとは、勿体ない。そのたった一つで、空しい身が大満足の身にならせてもらう不思議。
 それに、仏様っで、「自覚・覚他・覚行窮
」ですからね。それをいうと、「覚」でも「窮」でもよかったかも…。でも、これは、阿弥陀様に限ったことじゃない、仏様全般ですからね。

 で、そんなこんなで32個(三十二相)目のエントリー。ぼくが選んだ漢字は、

ジャカ、ジャカ、シャカ………。

32)「待」
 
お待たせしました。
 待っていただきました。
 いまも、その成長を待ち続きてくださっています。
 この一文字ですね。

「待ちびとは誰……かと押して尋ねてみれば、このかりもん待っておるとのご意見」

 疑い、逆らい、躊躇し、無視し、自分中心に迷っている私を、十劫もの間、待って、待って、待って、待ち続け、叫び続けどうしでした。

「弥陀は正覚なりてみり
 そなたの来るを待ちたれど
 一劫たてどもまだ見えず
 二劫たてどもまだ見えず
 三劫たてどもまだ見えず
 弥陀成仏のこのかたは、
 いまに十劫をへたまえり
 お立ち迎えのお姿を
 なんと思うてくれるぞや」
(「大悲の呼び聲」より)
 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

『あぁ、結婚生活』+『恋愛上手になるために』(the good night)

Marriedlife_01   『あぁ、結婚生活』 は、大人向けの洒落たラブ・コメディー&後半は殺人計画のミステリーへ。舞台は、40年末、つまり第二次世界大戦が終結した、もっともよき時代のアメリカ。まず、この設定がいい。その白人の、裕福なホワイトカラーが主役。郊外の豪華な屋敷や別荘。自家用車と家電生活。当日の世界中の国が羨望した最先端の生活がここにある。
 夫も、妻も、お互いが、自分なしでは、パートナーは生きられないと信じ合っている。しかし、長年連れ添った、同じベッドで眠る(我が家もそうだけど、布団で眠る日本人には、同じWベッドで寝る欧米人が信じられんなー)パートナーの本心までは、実は分からない。その裏では、互いにパートナーに打ち明けられない秘密をもって、涙ぐましい努力と、ユーモラスな生き違いがあるのだ。

 ただ、コメディーを薄くしたウッディ・アレン風なテイストって感じなので、この設定なら、もっと面白くてもいいのに、その点は残念。最大のよさは、映画の時代設定と、配役の妙。日頃、堅実な脇役をつとめるクリス・クーパーとパトリシア・クラークソンのベテランの二人が、傍目には幸せそうな熟年夫婦を。そこに、『きみに読む読む物語』のレイチェル・マクアダムスが清楚でありながら、若く男性に尽くす未亡人役で。そこに、夫婦の親友で、007のピアース・ブロスナンがプレーボーイ役でからみ、彼の視点で物語は進んでいく。

 ちょっと、ネタばれだけど、右往左往して、結局、もとの鞘に収まる夫婦。あぁ、結婚生活か! なにがいちばん大切って、やっぱ、見て見ぬふりの鈍感力でしょうってか。なんか、身につまされるなー。

Renai  『恋愛上手になるために』(原題:The Good Nighe)は、結婚生活ではないが、長年連れ添った同棲カップルの倦怠期の話。めちゃくちゃ邦題のセンスが最低。原題に意味あるんだもの。まったく男の稚拙な夢想話がメーンだけれれど、なんか)ぐましくなってきます。

  やはり同じベットで眠る前は、「I Love you」 「Me To」とお決まりのことばも、互いに背を向け、不満タラタラの毎日で、完全に醒めきっている。一時の輝きを失い、妥協しながらも、往年の夢が忘れられないミュージシャンと、画廊を営む順調に業績をあげるキャリアの女(グウィネス・パルトロウ)。そして、男が逃げ出したのは、夜見る夢の中。夢で出会った理想の女性(ペネロペ・クリス)との逢瀬に夢中になるのだ。このすばらい夢をコントロールする術を得たい。そのための涙ぐましい努力が始まる。ところが、ある日、その理想の女性が、実在てしいることが分かるのだが…。ほんとどってことないラブコメディーだが、対称的ながら、輝く二人の女性(グウィネス・パルトロウと、ペネロペ・クリス)が魅力的。それに比べて、出てくる男たちの情けなさ度は、かなり高くて、なんか共感しちゃうなー。

『あぁ、結婚生活』には、「知るべきか、知らざるべきか、のぞいてみたい夫婦の事情」なんて見出しついてますが、予告を見るたびに、「隣で寢ているパートナーの気持ちがわかりますか」なんてコメント流れてきて、ゲェー。あなた、そんな知っちゃいけませんよ。どちらの映画も、となりの芝生は青いが、結局は、元の鞘に収まるのが、あなたの幸せよという、欧米版の教訓映画なのだからね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海遊館

Img_4496  1年前を遡るように、子供たちと、お友達の子供2名を預かって、天保山の海遊館へ。ほんと、お前、水族館好きだなと言われるが、須磨、城崎についで、今年3館目。幸い、いつも渋滞する阪神高速は空いていて、道はImg_4510楽だったけれど、水族館は、年末休みに入ったこどせあって、入り口付近から、とてもこ混雑していていた。みんなとはぐれてしまった。どうも、人込みは苦手。

 魚をながめて癒されてきました。

 年末で多忙な皆さんへもおすそ分け。

Img_4525_2 ジンベイザメが2匹になってたり、UFOみたいな写真とれたりしましたImg_4495_2

Img_4533 Img_4545

Img_4553_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大掃除

 年末恒例の大掃除。

 事務の皆さんは、今日から1月5日までの正月休みだ。有名な薄給ですが、週休二日と、長期休暇だけはキッチリ取ってもらってます。今年も、お疲れさまでした。
 それで、掃除のメンバーは、仏青などの若い人達の5名が参加。といっても、ずいぶん顔ぶれは変わった。ほんとうの仏青メンバーはひとりでだけで、あとは、仏青卒業間近組二人と、若い女性が二人というもの。外は肌寒かったが、日頃できない外回りの掃除や、空調、蛍光灯などの高いところに、窓も外から拭いてもらった。ぼくも、途中から駐車場の掃除や外回りの清掃に参戦。そうそう、雑巾を持つ連れ合いみた。たぶん、1年ぶりか。本人もギャグにしていたが、子供まで、「いつも、行事の朝にAちゃんにやってもらっているのに」とビックリ。みんな、天変地異を恐れておりました。

 掃除の合間に、ぼくは、年賀状に一筆書きの続き。1月の法座案内と文化教室に、一言コメントをつける。これは、やっと終わって、あとは個人の分をいまから作業に入る。
 それにしても、今年も、いろいろなことがあったー。特に、ここにきて、将来への方針について、悩んでいますね。

 とりあえず「能ある鷹は爪を隠す」のか、

 それとても、「むしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ」と貫くのか。

 ちょっと意味が違うけれど、どちらにも一長一短あるんでね。単に個人的な問題だけじゃなんので、組織や今後の展望、宗教界のビジョンをもっている人と、じっくり語り合いたいけれどな…。なかなかね……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

68-1号の発送

 今日は、華光誌の発送。京都支部の助っ人をお願いして、6名で作業した。昨年から、個人情報保護の流れで、「年賀交歓」を別冊にして、同人・誌友に限定して配布することにしている。その分、作業は一手間増えるが、これは致し方ない。華光誌に、年賀交歓、そして年間行事表、そして本の紹介のチラシや振替用紙が同封されている。いま、業者が取りにきた。お手許には、29日(月曜日)から随時ということになろうが、年末の繁雑期なので、混乱する可能性もある。郵便局から、メール便に変えて、スムーズにいった試しがない。

 68巻1号

 フッと思った。あと、32年したら、創刊100周年を迎えることになる。あと、32年か。そんなことを考えたことはいままでなかった。なんか、すごく遠い先のことのようで、一方で、夢幻のごとく、一瞬のような気もする。もしそこまで、いのちが長らえたとしたら、まだ70歳代。いまの父よりも若い年齢なので、非現実的な話ではない。でも、ほんとうは、明日どころか、今夜、いや次ぎの一瞬に何が起こるかすら分からない、無常の身を抱えている。起こってほしくないことだって、迷いの業を抱えている以上、受けていかねばならないのに、それが分からないでのが、無明(迷い)の身の哀れさである。ほんとうは、「今」「ここ」のところに、さまざまな縁が催したおかげがあるだけのことである。その縁がつきれば、自分自身も、華光会もどうなるかは分からない。すべて夢・幻なのである。不思議にも、そこのところで、常に大満足の身にさせてもらっているのだが、すぐに忘れてしまうなー。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

一喜一憂の果てに…

Img_4484_2   セルフでガソリンを入れて、支払の段階になって、「あれ、間違って、軽油(ディーゼル)を給油したんじゃないか」と思うほど、ガソリンの価格が急激に安くなった。これは、京都市中心部(烏丸高辻角)のスタンド。(シンのエネルギーなんだから、これはいいネイミングやね)。とうとう、100円切って99円! 思わずシャッターを押した。最高値の半値近くに戻っている。まあ、ここはかなり安くて、わりと近くの本願寺横のスタンドは115円だったが、それでも、あの暫定税率騷動は、なんだったの?という急激な変動だ。もちろん、安いのに越したことはないので、大歓迎。高値の時は、満タンにするのも躊躇し、安いスタンドを探し回った。法座でも、日高町の方が安い(確かに)と聞いたので、京都で給油せずに、帰路に入れたlと、自己防衛していた。それが、短期間にこのありさま。ただし、その分、世界の景気は一気に減速して、日本の経済も危機的な状況になってしまった。株価にしても、為替にしても、あまりにも急激な変化や乱高下に、ほんとうに戸惑うことの多い1年だった。当然、さまざまなものに直接、間接の影響を与えて、昨秋から続く、「値上げ」ラッシュの余波が続いた。中には、値段は据え置きで、内容量や個数を減らした、いわゆる「見えない値上げ」派も多かった。たとえ10円でも、値段に転嫁(←これもすごい熟語やね)されるとすぐわかるが、パッケージが変わり小さくなったり、少なくなったという実質値上げは、なんとなくごまかされたことも多い。直接的でない分、心理的な影響も少なくて、最近は多用されている。だって、ティシュペーパー250枚が200枚になっても、一枚一枚、数えるわけじゃないものね。こうして、なんとなく誤魔化されてきた。

 ところで、今日、インド旅行の代金の請求書が届いた。ただただ楽しみではあるけれど、ここだけはいちばんの苦しみ。これがないのなら、毎年でも行きたいものだが、そんな虫のいい話はないよなー。ちなみにこれは4月に作成されたものが基準となって適応されている。その後、原油の値下がり、ドルの暴落などを考えると、ちょっと今分が悪いのだろうが、これだけは致し方なしだー。

 さて、来年はどうなりますやら。先のことはわからないないが、激動の波瀾の年が続くことだけは、想像に難くない。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お前の一日はロクな日じゃねえーらしいですが…

 インド仏跡巡拜の旅のMLを開設したので、登録手続きに関するメールが頻繁(ひんぱん)にはいてくる。同時に、事務局からもCMのメールが届く。その冒頭…。

「おはようございます!freeml運営事務局です。

かりもん さんの今日の運勢は…
【水瓶座:56点】十二星座中、12位(つまり最下位!)

周囲の理解が得られずブルーな一日になりそうですが…

金運は、大きな下降ライン。ストレスがたまっている人は、衝動買いで金銭感覚が大幅に乱れてしまいそう。恋愛運は、友人から厄介事を押し付けられそう…。仕事運は、ちょっと手を抜くと、運悪く先輩の目に留まりそう…。」

 生年月日を登録したので、この手のメールが来たのだが、まあ、お前の今日の一日はロクな日じゃねえぞ、わざわざご親切にもお知らせしてくださったわけ。

 それにしても、運勢や占いといった、仏教(浄土真宗)からみると、因果の道理を無視した迷信の類が、ますます持て囃されている。やらせや虚偽報道に敏感なマスコミも、まったく無批判。それどころか、視聴率さえとれれば、大々的に放送している。そのほとんどが、軽い遊び感覚なのだろうけれど、一方で、みんなの心の中に、現実の圧迫感や閉塞感と、まったく展望の開けない将来の不安などのネガティブ度はますます増加し、この手のご託宣を強く求めているのも一因にあるだろう。もちろん、正しい信仰、仏教の因果の道理に昬い(くらい)というのが、最大の原因ではある。それに、現実的にみても、呪いや占いをキッパリと否定している仏教は、やはり浄土真宗を置いてしかない。ただし、今日の状況で、頭から否定するだけでなく、そのおこころも正しくお伝えするという意味では、ぼくたちももっともっと工夫や努力が必要になっている。
 それにしても、まったく方向や日にちや、占いなどに惑わされることがない身というのは、幸せですね。やはり、他力回向の信は、「決定」(けっじょう)するわけですからね。定まる世界があれば、もうフラフラとする必要がなくなる。いくら払っても払っても、そこに立たせてもらわない限りは、いつまでも不安は絶えないわけですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今年最後のご法座

Img_4471   京都支部の家庭法座。今年最後のご法座である。

 毎年、12月23日に、西大路七条のM家で開かれている。もう何年になるのだろう。世間は、天皇誕生日の祝日。この日にご法座が開かれるのに、一つ訳がある。ここの奥さん(けっして、奥にはおられんが、他人の家のときの表現がないなー)のお誕生日でもあるからだ。それで、京都支部の忘年会も予て、法座のあと、当家のご好意で、皆さんと会食して、歓談・法談するのが、毎年の恒例となっている。もっとも、お誕生日をお祝いされる方か、細々しく接待され、ご馳走しくださる。これゃImg_4472 、完全に回向のこころやね。

 ご法話は、東海支部でも話した「善太郎さん」。華光大会のときは、取り上げた歌の1/3程度しか紹介できなかったので、11月の大会以降、日高、広島、東京、高山、東海、そして京都と6ケ所で、この話を続けて、少しずつ歌が増えてきた。まあ、遠近各地あるので、聴衆が変わるだろうと思っていたのに、数名、とても熱心の方があって、大会も含めて3回以上聞かれた方が、少なくても7名はありますね。だいだい同じ出身の方。すごいや。たぶん、最高は、滋賀県の同人で、大会、東京、高山、東海、京都と5回も聞いてくださった。ぼくの方から、「もう勘弁してなー。お休みしてよ」というのと、「生々世々の初事」やねという、ネタになるほど。いちおう、法話の冒頭のマクラは、少しずつ変えたりしましたが、こちらが頭さがる思いやね。

 ただ、その支部支部で、「善太郎さんの歌」のどの法語(歌)に感心されるのかが違うところが、おもしろかったなー。今回は、いちばん長い歌がいちばん人気。また、個人でも、どれに感心されるのかで、その方のご心境もわかる気がします。
 今回も、当家の主人(一応)が言われたけれど、「この善太郎さんのところすべてに、自分の名前を入れて読ませていただたら、『もう参りました。何もいうことはありません』と、泣いてお念仏するしかないですわ」と。(もしプリントお持ちの方は、声に出して、わが名を入れて、繰り返して読んでみられたらいい。ヘタな自力の計らいをするより、ずーっと精神衛生的にもいいでしょうね。
 善太郎さんが、「この善太郎」と、「この弥陀」のお救いを自分ひとりでとられたように、「このかりもん」ひとりが、○で○で、○る○る願力の不思議をいただくわけですからね。そのご開山、善知識さまの「ご意見」を、そのまま聞かせていただくしかない。そこに、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」の世界が広がるわけですね。

「阿弥陀如来の、法蔵比丘でありしとき
善太郎、仏にならじは、
われも仏にならじと誓いたまい、
ついにその願、成就したまいた証拠が、
なむあみだぶつに正覚をとりなさりた
なむあみだぶつ、なむあみだつ」

 それにしても、少人数になった食事会はおもしろかったなー。M夫妻の仏教夫婦漫才に、腹を抱えて大笑い。お酒のはいったご主人のストレートの話しのおもしろいこと…。それでいて、求道者、未信者をつかまえては、からだを揺らし、身を乗り出して、法談を続きましたね。ぼくは、時間外勤務はせずに、同人の皆さんにおまかせして、省エネモードで、静かに聞かせていだいてました。それにしても、ここも、この1年で、ずいぶん、顔ぶれがかわったなー。20代の人も2、3名ありましたが、新鮮な顔ぶれ…。

「待ちびとは誰……かと押して尋ねてみれば
この善太郎待っておるとのご意見」

「お待たせしました! 南無阿弥陀仏」

| | コメント (4) | トラックバック (0)

カルマが悪い?

 知らぬまに、インド旅行まで1ケ月ほどになっている。最大定員一杯の25名の申込みに、ぼくが加わり26名。心配したが、中止する人もなく、問合わせしてきた人がひとりあっただけ。それでも、念のため、旅行社にインドの情勢について尋ねると、詳しい説明があった。10、11月と添乗しても、この度の事態は、まったく予想外だったという。明日から年末までは、また添乗。そして、以下のような形で説明を各地でされているそうだ。

「①現時点ではムンバイ近郊へ立ち寄らないように心がけております。
②駅、市場、大都市の政府関連の施設などへは極力近づかないよう心がけています。
③仏教遺跡はムンバイやデリーの街中と異なり、テロを起こしてもその効果がないので、テロは考えられません。
④万一、またこのようなことが起き、旅行催行が危険と判断したら、出発間際であっても旅行は中止致します。
⑤弊社の仏跡巡拝のツアーは予定通りに催行しています。
⑥他の旅行会社のインド旅行はムンバイ方面に行くツアーのみ中止となっており、その他のツアーは催行しています。
⑦この問題の根は深く、今から60年前に起因するカシミールの領土問題が根本原因である。 これまでも何度かこのことが原因で事件が起こっています。解決まで何十年掛かるかわかりません。」

とのこと。でも、もしも不測の事態がおこり、中止や旅行が予定変更なった場合はどうなるのか。以前、インド旅行をしたときに、現地の人にズハッと言われた。

「それは、あなたのカルマ(業)が悪い!」

 まあ、ぼくの腹の中には、ほんとうにろくなものありませんからね。悪業の塊。ちょっと使い方違うんじゃないのという気もするが、そう言われると、もうこれも致し方なしということかなー。

 ところで、参加者限定で、インド・ネパール仏跡巡拜の旅の参加者向けのMLを発足します。参加者同士の情報交換、交流の場としてご利用ください。たった11日間ですが、同じ飛行機になり、バスに乗り、いのちを預け、同じ釜の飯を食らう26名。どうせなら、楽しく、親睦を深めながら、仏跡を巡りましょう。旅が終わったあとも、分かち合いの場となれば最高。こんな趣旨で始めます。参加者で、関心のある方は、華光会までお問い合わせください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明日の「暮らしのカウンセリング」ですが…

 今日は、東海支部。遠近各地からのお参り、ありがとう。忘年会もあって、楽しい法座でした。やっぱり、法座に出ると、元気をもらいますね。
 座談会では、しっかり突っ込める人が多いので、ぼくは逆の方向というか、少しムードを変えることを考えていました。改めて、「聞く」ということを教えてもらって気がしますね。いくら心をながめても、いくら覚えても、聞かんことには話しならないよね。お伝えする方もそうですが、求める方に、お伝えしたいところを、しっかり「聞いて」いただかないと、逆にイライラが募るばかりじゃ、勿体ないものね。

 ところで、明日の予定されていた、「暮らしのカウンセリング」ですが、参加希望・申込者に連絡すみですが、都合により中止となりました。もし、飛び込みで参加しようと思っていた方は、ご注意ください。世俗的な喜びかもしれないけれど、ご法座に出させてもらうというこも、家族のおかげがあってのことですよね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

輪読法座と、通夜と…(2)

  (続き)終了して、夜には、同人の皆さんと一緒に、京都元同人の方のお通夜に列席。この方、昔訪米団で、アメリカを訪れた時のメンバーでした。享年62歳。10年以上の闘病生活の末のご逝去でした。3人の息子さんもみな、日曜学校、仏の子供大会に参加されて、いまも仏青とのご縁あります。

 浄土真宗の勤行。ここが、いちばん、世間のお寺と違うところで、門信徒さんは、それぞれ別のお寺に属しているので、家の宗派は必ずしも浄土真宗とは限らないし、ぼくが導師をすることは稀なかの稀ですね。もうここ何年もありません。それで、お通夜にいったら、いちばん前に座って、一緒に声を出して勤行します。華光の方もそうされます。もちろん、大声でお念仏もします。すると、つられて周りの方もされることがあります。なぜ、お寺さんは、列席の皆さんに、そうお勧めにならないのでしょうか。今日のお家なら、ご家族の方も、ご親戚の方も、『正信偈』ならお勤めできます。もし出来ないお家でも、「南無阿弥陀仏々々」とお念仏は必ず出来るはずです。「ご一緒に、声に出して南無阿弥陀仏々々とお念仏しましょう」と、一言言えばいいのにナー。ただ、葬儀屋の言いなりの進行で、「ご一同!合掌、礼拝」ではね(今夜はこれもなかった)。

 ただし、ご住職は、ご法話をなさいました。このところの浄土真宗の僧侶のは、ご法話をなさいますし、いい加減なことを話されなくなっている傾向は、ありがたいことだと思います。たいへん、キッチリとしたお話でした。ただし、帰りの車の中は、法話の批評大会になっていました。まあ、これを「頭を垂れて聞け」というのも、無理からぬ内容ではあります。なぜなら、「死苦」を、肉親の死別、つまり自分の死ぬことではなく、2人称の死と捉えて、「それが人生のいちばんの苦しみだ」と断言されていました。それは愛別離苦でしょう。自分の死ぬことも、後生の「ご」の字も出てきません。「凡夫の苦しみは絶えないが、阿弥陀様が護ってくださるので、それにおまかせして、安堵して、強く明るく生き抜きましょう」という内容。それでも、この方の名誉のためにいうと、かなりしっかりしたご法話だというのが、残念なことで、いちばん肝心のところがボケる。焦点が定まらないところが、いまの浄土真宗の最大の問題点しょうね。そのおかげで、ぼくはおまんまを食べていくことができる。「華光会隙間産業論」ですね。高いレベルの教学・学問の確立された世界がある。また葬儀に代表される習俗の世界もある。でも、要の真ん中の、私との具体的な接点が、スッポリ抜けている。当然、仏願の有り難いことは話されても、生起-わが機のところは抜け落ちてますわー。

 「この私の後生は?」。ここを、いま聞かせてもらっているわけですね。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

輪読法座と、通夜と…(1)

 今日は、華光誌輪読法座。みんなで、声を出して読むというだけでも、ずいぶん、意味あります。普通なら、サアーと読み流してしまいますものね。ぼくにしても、(今回は、M先生のものですが)、「こんな表現使われていたかなー」とか、「なるほどなー、こんな風にはよう言わんなー」とかずいぶん感心させられました。そして、改めて華光のお勧めの要を教えてもらった気がします。たとえば、「仏願生起本末を聞く」わけですか、

「聞く資格などないのです。救われる値打ちがない。なぜ阿弥陀様が立ち上がって下さったのか。仏道修行する能力がないどころか、仏法を聞く気さえない私。聞く耳もたぬ。さとりを求める心は冷たく死んでいる。韋提希以上に箸にも棒にもかからない。真っ暗闇の世界で、目先の食物を求め、取り込み、排泄することを延々と繰り返すだけのミミズと本質的には何も変わらない。それが私の姿です。
 この私の痛々しい姿こそ阿弥陀様にご本願(仏願)を立てさせた。ですから、阿弥陀様の心を聞かせてもらうとは、まず、この仏願の生起について、つまり阿弥陀様がご覧になって泣いてくださったこの私の本当の姿について、心静かに聞かせてもらうということ。この順序は変えられない。これが華光の一つの特色かなと思っています。
 親鸞様は南無阿弥陀仏を聞くとは「仏願の生起・本末を聞く」ことであるとお示しくださいました。阿弥陀様のご本願がなぜ起されたのか(生起)、どのような願を立てられどのような行をどのようになさったのか(本)、その結果どうなられたのか(末)。これだけのことをもらさずに聞く。機縁が熟したならば一分もあれば全部聞き切れるはずですが、機縁が熟したか熟してないかなど、私たちにはわかりようがない。そこでとにかく法座に出て、あるときは生起本末の生起を中心にした法話を、またあるときは本末の本を中心にした法話を聞いていくということになる。けれども、生起を抜かして、いくら本や末についてのありがたい話を聞いても駄目だというのが華光での聞法の基本にあると思うのですね。信前信後に関係なく無常観と罪悪観をすすめるのも、そのためです。

 まず仏願の生起を聞く。この私とはどんな私かを聞かせてもらう。仏様のお答えは、お前は毒のかたまりだ、というものです。かたまりなんです。つまり前から見ても横から見ても、上から見ても下から見ても、たてに割っても横に割っても、毒以外には何も見つけられない。100%毒でできているということ。(後略)」

 なるほどね、現地でご法話を聞いたときも感心したけれど、「この順序は変えられない」なんて、わざわざ意識していたわけではなくて、自然にそう説いていましたが、改めて指摘されると、まったくそうとおりですね。説く方がそうなら、聞く方もそう聞くわけですね。阿弥陀様がご覧になられた私の物柄を聞く。だから、「お救いに手をだしなさんな」というけとになるわけです。

 ところで、今回は、初めての方が3名参加。ひとりは、今回の出版でお世話になるだろう、出版社の社長さん。ご自身も、いろいろと聞法会には参加されているようですが、こんな雰囲気のところは初めてだと仰っていました。まず、車座になって、みんなが自由に話し合うこと。そして、若い人が多いこと(そうですよ、参加者は15、6名でしたが、20代の女性が二人。30代の人も3、4名、あとも40代の人がいて、年配の方でも60代ですから)。そして、皆さんのレベルの高さにも感心されていました。それも、ただ教学の勉強ということではなく、自身の味わいのところで語られる言葉は、深いですよね。「分からん、分からん」という人だって、これが言えるだけでも、すごーいことなんですよね。最後に、「後生助かりたいとはナニぬかす!」の言葉に感心されてました。
 もうあと2人は、先日の高山法座に飛び込みでこられたご夫妻。「阿弥陀様の声がハッキリ聞こえるのですか」と質問された方です。ご縁がつきそうで、うれしいです。どうぞ、たいせつにご聴聞ください。

 ちょっと長くなるので、一旦区切ります。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阿弥陀様を表す漢字一文字は?

 京都シネマへの道中、五条烏丸の漢検の本部ビルの前を通って、ふと思いついたことがある。
 1週間ほど前、清水寺で、今年の漢字が「」と発表された。最初、地味だった行事が、年を重ねるたびに浸透してきて、どの大手新聞のコラム欄も、この話題に触れている。たった一文字だけれども、その1年の世相を言い表す、漢字の力ってなんか、すごいよね。

 で、ぼくも考えて、もし、阿弥陀様の漢字一文字(梵字は不可)で表すとどうなるのだろうかなって。最初、あんまり思いつかなったけれど、なんかボーと考えている内に、次々とイメージが膨らんできて、けっこういろいろあるなーと。お働きをあらわすものでもいいし、その性格をあらわすものもある。私との接点のところで味わえる字もあるなーと。

 そこで、皆さんにお願い。皆さんの味わいのところでいいので、それぞれの私の阿弥陀様を表す一文字を教えてくださいー。

 このブログは、あんまり参加型ではないけれど、このコメント欄にでも、または小生宛のメールや、直接でもいいです。もし、いろいろ投稿あるのなら、12月31日にまとめて発表したいので、できれば、それまでに。遠慮したり、臆したりせずに、お気軽にどうぞ。

たとえばですが…

「摂」…やっぱり摂取不者でおさめとられるものなー。(京都・かりもん)
とか、
「謎」…私には、さっばりわからんので。(T)
もちろん、オオソドックスに、「光」とか「悲」とかでもいい。人と同じものでもいいですよ。

 「漢字」だけでなく、理由や味わいも教えてください。

 ちょっとした企画物で、今年のブログをしめようかなと思ってますが、どうなりますか?

| | コメント (28) | トラックバック (0)

年内最終の法座案内

 今週は、宿泊法座はなく、わりと近場での法座が続きますが、なんと4日間連続ですね。連れ合いが担当する「暮らしなかのカウンセリング」以外は、ぼくが講師です。法座がつづく人には、たいへん申し訳ないですが、それ以外の方は初めてなので、東海、京都支部は「善太郎さん」のうたを味読しながらの法話にする予定です。いちおう、これでこちらも終了かなー。

1)華光誌輪読法座:12月20日(土)昼1時30分~5時 華光会館

 華光誌66号4号の誌上法話の輪読と、自由な座談会です。脱線するものご愛嬌。でも、最後なので、誌上法話は終了します。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/rindoku2008-11.htm

2)東海支部法座:12月21日(日)昼1時30分~5時 JR勝川駅前、「ルネック」7F

 東海支部にお邪魔するの久しぶりですね。だいたい、蒲郡の法座と、12月はぼくの担当になってます。半年ぶりということか。すると、まだお会いしたことのない方も増えているようなので、楽しみです。ここは、この一年で、ずいぶん、新顔が増えてますね。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/toukai2008-12.htm

3)暮らしのなかのカウンセリング:12月22日(月)朝10時~昼13時 華光会館

 法座ではありませんが、「聞き方、話し方」の体験学習を通じて、信仰座談会での話し方、聞き方の力をつけませんか?

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/kurasi2008-12.htm

)京都支部法座:12月23日(祝)昼1時30分~5時 水谷家家庭法座

これが、一応、今年最後のご法座。法話と座談ですが、法座終了後に、自由な会食の時間になります。これもまた一年一度の楽しみ。どうぞ、奮って、ご参加ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/kyoto2008-12.htm

  これで年内の法座は收めてすが、新年が明けると、1月1日(祝)から「修正会」があって、11日(日)~12(祝)が、報恩講法座と続きます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

華光誌終わった!!

 『華光誌』、やっと印刷所に渡りました。ブログも3日休み、伝道研究会と、昨晩の真宗カウンセリング研究会も、やむなく欠席。今週は、事務所の二人も、休み返上してもらって、連日、深夜までの残業。それでも、3名での仕事をしているので、父と二人、ないしひとりで作業していたころのように、最後は徹夜しないと仕上がらないという心配もなく、「一心不乱、若一日、二日、三日…若十日」ぐらい頑張ったつもりでも、まだ若干の余裕があったかなー。
 今回は、『年賀交歓』と『年間行事表』の作成があるのだけれど、今年は、 合計で78頁分もあって、40頁立の通常号の2倍近く。年賀交換も好評で、4頁分も増えたり、新年号は表紙も変更-「華光」の文字がドドドーンと復活-と、作業も難航したわりには、頑張れました。これで年内には発行されるようですね。

 誌上法話は、昨年の華光大会のぼくの法話で、「聞法の要点」と題して。「本願を信じ、念仏申さば仏になる」という歎異抄第12章を取り上げています。やさしめのわかりやすい内容です。

 巻頭言は、ゆうこで、なかなか実践向き。座談で、質問を受けたときに、その場の空気をよんで、「正解」を答える求道者への対応ですね。確かに、この雰囲気はよくわかる。最近は、なかなか回転のいい、空気も読めるし、頭もよい方が増えてきているけれど、正解を並べても、ご法に近づかないものね。逆、いま、ここでの「その人」がどこにいるかということが、分からなくなる。その意味では、世間の会話とは別物。ある意味、日常的な礼儀も必要だけれども、こと仏法のことになると、先生や周りのご機嫌をとるために、聞法しているわけではないのですからね。実感のない、正解はまったく不要。いま、ここの自分を伝えなきゃ意味はない。

 体験記は、前回の続きで仏青のKさんのもの。なかなかいいね。。最後に、いいところに立ってきますね。ちょっと先攻して紹介すると、

 「……泣きながら、大声でお念仏した。そして少し落ち着いた後に、「私はこういう場に立たされてお念仏している時、『ここでなんとか心境が変わってほしい!なんとか助かりたい!』と思っていたなあ。そして後から、『念仏してもやっぱり何も変わらん。有り難い心境が続かん。後生がはっきりせん。やっぱりまただめだった』と思ったなあ」と思い出していた。では、今は、どんな心境なんだろうかと、我に返った。すると意外にもあっさりと、もうしらけているのだ。たったいま、熱くなって念仏していたのは、一体何だったんだろう。そして、なぜ私の心はこんなにしらけてるのに、私の目からは涙が流れ、ノド、腹、そして口から、お念仏が出るのだろうかか? そう考えると、この涙が阿弥陀様、このお念仏が阿弥陀様だったんだなと思った。
 それを、皆さんの前で話していたら、「今までは、変わると思ってたなー。しらけてる自分が嫌で、いつまでも熱くないとダメだと思っていた。一生懸命、私の心をしらけさせないように必死だったなー」と思えていた。今までだって、しらけている自分から南無阿弥陀仏と何度も出させてもらってきたのに、そこには気付かなかったと思うと、なんとも滑稽で、笑えた。同時に、これまでそんなふうにしか考えていなかったことが、本当に申し訳なくて泣けた。
 その後、先生が、ある方に「後生はどうですか?」と問われていた。その方は「真っ暗です」と答えられた。
 私はどうか。私も「真っ暗だ」と答えるしかない。続けて先生が、「真っ暗のまま、出ていけますか?」と問われた。
 あ!私は、今、そのまま出ていける。不思議だった。」

 ね、前の3回分とあわせて、この話の伏線というか、これまでの流れと合わせて読むと、これはおもしろいですね。高校生の時の仏青大会だったか、ぼくが話たことと、これは符合してくるんですね。凡夫の機情なんておいかけても、そこにどれだけ熱いものを求めても、ダメだものー。ご法のおかげで、一時熱くなっただけ。それより、熱くするもと、変わらない真実をお聞かせ預からないとなー。わかっていても、ここがみんな聞けない。変わるところばかりを求めないで、変わらないもの(法)を聞かなきゃなー。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『成道会』にピクミン「愛のうた」(ナマ歌)

 成道会。座談は仕事して抜けましたが、仏参(法話)、会食、そして最後のImg_4444アトラクションに参加。子供は小さい子が中心で、20名ほど。ちょっと 大人が寂しかったかなー。恒例のおいしいカレーライスをいただきました。

Img_4452  実は、今回は、昨年と同じく女性シンガーにお願いすることにしました。ちょっと不思議を出会いがあって、ぼくが、京都シネマの映画の後で、よく行くCafe(マノアマノというお店)がありまして、そこで、顔見知り程度の女性が、2年近くたってから、ゆうこの友達で、華光会館でも歌も披露し、ここにも泊まったことのある方だとわかったんです。そのときは、ぼくは地方法座で出張中で、すれ違いだったわけ。共通の知人も多いのに、お互い知らないまま、あいさつしてたんですね。それが、ゆうこを連れて、そのお店に入ったら、、お互いビックリというわけです。それで、今年も歌ってもらうことにしました。小さな子供たちがいる超騒がしい中で、申し訳なかったですが、それでも、オリジナルを中心に、とてもやわらかい、なんともいい雰囲気で歌ってもらいました。うまい。大人たちは満足。で、「唯一のヒット曲、『愛のうた』です」と、オリジナル曲を披露。あれどこかで聞いたことあるなーと思いながらも、とても感激して、セミ・ブロというのか、インディーズの世界も奥が深いなーと思って、こんな騒がしいところではなくて、今度は、大人の集まりでも歌ってもらいたいなーと話して、お別れしました。

 ところが、若い先生方がざわめきまして、5、6年前には、シングルCDのヒットチャート1位(オリコンで最高2位、カラオケランキング1位)で、90万枚近い大ヒットした有名曲(CDもってますという人もいた)なんだそうです。ニンテンドーの『ピクミン』というゲームのCM主題歌、『愛のうた』~ピクミンのテーマ~を歌う、ストリベリー・フラワーのボーカルの方で、「こんなところで会えるなんて」と、感激しているー。

 と言われても、最初はチンプンカンプンだったぼくも、「ああ、この歌詞なら、聞いたことある」と、クッキリ思い出しました。上の『愛のうた』でも、聞けるけれど、これが最新のCMのようです。

http://wii.com/jp/movies/wii-cm-soft199/

引っこ抜かれて、あなただけについて行く
今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる

ほったかされて、また会って、投げられて
でも私たちあなたに従い尽くします 

 そろそろ遊んじゃおうかな
 そっと出かけてみようかなーんて
 嗚呼 嗚呼 あの空に
 恋とか、しながら


いろんな生命が生きているこの☆で
今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる

 ねえ、これゃ、みなさんだって、絶対に耳に残っているはず。その年は、今年の「ボニョ、ポニョ」ほどじゃないけど、何度も、CMやらメディヤで流れていました。 

 それにしても、夫婦共々、そんなこととは露ちりほどらも知らず、ほんとうに、「しっつれいしました」

| | コメント (4) | トラックバック (0)

善太郎ブーム

 会計士の先生との相談と、今朝の数時間は除いて、この1週間は、ほとんど、パソコンの前に座っての作業ばかり。昨日から、年賀交換の版下作成作業にはいった。一年一度の作業で、最初だけ少々戸惑うが、年々なれて早くなってくる。皆さんの文面は有り難い。申込みハガキを止めた二年前から「おまかせ」を止めたので(ある支部と、その支部の方を3名は唯除だが)皆さん、工夫し文章を考えてきてくださる。

 なかでも今年は、九州、広島、日高支部と、個人でも数名の方が、善太郎さんのうたを引用されている。聞法旅行で訪問して、法話で取り上げたのが、強く印象に残ったのか、華光内だけで、静かな善太郎ブームが到来だ。彼の法語がパッケージになっている「善太郎餅」の取次ぎでも始めたら、収益部門に貢献できるかも…。でも、不思議とだれの文面もかぶらなくて、よかった。もちろん、才市さんもあるが、これは毎年同じ方。そのなかで、源左同行の言葉を引かれた方もある。案外、ここは盲点。なるほど、これはいいです。どなたも、ただ文章だけでなく、そのあとの一言が、ご自身の味わいがでで、なかなか有り難い。

 なんとか年内(印刷所の最終終了日が、12月26日(金)。その日に完成してもらって、27日(土)中に発送する)に発行の手筈だ。手筈だけは考えても、行動が伴わんとなー。凡夫の聞法と同じだもの。年内にはお手許に届く段取りではあるが…。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

今週の法座予定

 今週は、華光誌編集作業につき、ぼくは出講をお休みです。そのかわり、M先生が大活躍てすね。

1)東京支部法座:12日(金)夜7時・13日(土)朝9時30分~夕5時

 10月、11月と3ヶ月続きでの東京の宿泊法座となりました。今日は夜からは囲む会ですね。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/tokyo2008-12.htm

2)広島支部法座:14日(日)昼1時~5時

これもM先生です。朝10時から囲む会があるようです。今週は大活躍です。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/hirosima2008-12.htm

3)西光寺報恩講:13日(金)昼・夜、14日(土)朝・昼・夜、15日(日)朝の6座。

 兵庫県宍粟市山崎町の西光寺さまの報恩講。増井悟朗先生のみのご法話が続きます。華光会の行事はなく、一般の寺院への出講で、大半がお寺のご門徒さんです。原則的に、座談会はありません。
 おや、これは華光会HPには掲載されてませんね。もし、関心のおありのかたは、華光会館までお問い合わせいただきましょうか。

4)日曜礼拝「成道会」:14日(日)朝11時~夕16時。華光会館

 華光会館では、日曜礼拝と仏青例会の合同です。お釈迦さまの成道(お悟りを開かれた)をお祝いします。恒例のカレーライスをお昼に食べます(会食代300円)。食事に準備がありまので、大人の方もなるべく電話やメールでお申し込みください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/nitirai2008-12.htm

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今夜はお休み…

Img_4039 華光誌、どこをどう間違えたのか、後がなくなって必死です。年内発行の期限が迫っている。この1週間は、映画もお預け。

 華光誌本体の方は、少しはいけそうな気がします。でも、年賀交換の作業はこれから。

 「聖教のこころ」を考えるついでに、素案を記事にするつもりだったけれど、3つ前の『如来の直説法』のエントリーに、質問のコメントがついてました。真面目に求めておられる方のようですね。どこまで伝わるかわからないけれど、一応の返答していますので、本体は半分お休み。求めている方向が違うことに気付いてもらえると、早いんですがね。言葉は正しいだけに、メールだけで伝えるのは、ややこしいところですね。 

 それにしても、ぼくも、丁寧、親切、仕事が早くなったもんやね。

 「先生、昔は、よく切れる剣のようでしたが、いまは、コンニャクですね」と、某東京同人からメールをもらったことがあります。それを、ある人に話したら、「ああ、いい感じになってきたんじゃないー」と、妙におほめいただきました。
 まあ、何がいいのやら、悪いのやら、もう分かりませんわ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

奥が深いぞ

 高山法座の懇親会で、ある方が連れ合いを絶讃してくれた。彼女は、初めての華光会館で、その自由な雰囲気に、押さえていて自分を開放(解放)されつつあるようだが、その雰囲気の象徴として、連れ合いを観ているようである。ぼくのプログで、「何か月ぶりで掃除機を握っている妻を見た」とか、「今年も台所から小バエ発生の季節が来た」という記事を読み返しては、大笑いしているという。まあ、こんなマニアの皆様のおかげで、長続きさせてもらっている。うれしいかぎり。

 で、その彼女が、華光大会の分級座談のおりに、1階の台所で、「干からびた生姜」が、テーブルの上に鎮座しいるのを目撃したそうだ。何日も、冷蔵庫に入れないまま、干からびながらも使われつづける生姜。このおおらかさ、自由さは、なんとすばらしいことなのか! となったようである。
 ほんと、世の中って、何に感心されるのか、ビックリである。 ただし! こんな程度で驚かれているようでは、まだまだゆうこ道のほんの序の口だ。

 日常生活は、まさに凡人には、ワンダーランドのるつぼである。先日も、面白いものを発見した。

 たまたま、昼食のあと洗い物をしていたら、お茶碗やらカップやらが、いくつも流しの窓際に放置されていた。そこに長らく置かれていたのは知っていたが、ついでに洗っておこうと、手にとった。やりだしたら、徹底的にきれいにしないといけない性分だ。茶碗は、何も入っていなかったが、その底には、緑色の丸い模様が2つある。こんな模様の茶碗ではなかった。汚れかなと思って、流しにいれて水を張った。そして次ぎの瞬間。なんと、その模様が立体となって、ユラユラと浮かび上がってくるではないか。ついに、見事なキュウリとなって復活したのだった。
 太陽が温める窓際で、食べ残したのキュウリが水分を失い、腐らずにみごとにドライフラワー化して干からび、模様のように茶碗の底に定着していたのた。それが、再び、水分をえて、もとの姿に戻ったのである。

 もう、カップラメーンの具(フリーズドライなので低温だけど)じゃないっちゅうの。ほんとに恐るべしだなー。

 Hさん、喜んでいただけましたか?

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「奥さんもS(エス)?」

 高山法座が終わり、K、T兄弟と夕食へ。同じ列車になったO君も同席。Kさんの職場の前のイタリアンのお店で、ご馳走になる。
 遠近各地に顔を出しているO君。もともとの参加のきっかけは奥さんが見つけてきた、華光会のHPだという。

T:「ということは、もしかして、奥さんも、S(エス)なの?」
O:「ハイ、そうなんです」
T:「じゃ、夫婦でSやったんか」
 としばし、S談義へとうつる。
S:「まあ、S、Sって、隣の人がへんな顔しているで」
  「それに、O君、ちょっと真面目すぎや。『ぼくは、Sなんですが、妻は、Mなんです』ぐらいはボケんとなー。なんて、イニシャル、SMのぼくが言うのもなんやけど…。」

 確かに、このところ、どの支部法座でも、Sの方が急増中だ。
 でも、広島支部だけは、Hからの人も多くなっている。さすが安芸門徒の土地柄。

 Sの人ほど派手ではないが、Hの人、しかも若手のHのプロの方へも、静かに浸透しているのが、うれしいですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

如来の直説法

  三月以来、9ケ月ぶりの高山支部法座。急に冷え込んで寒くなった。途中は雪景色の場所もあったが、雪のない12月の高山法座となった。

 先々週の東京支部法座の参加者も多かったが、今回の高山支部法座の方がさらに多くて、総数で50名ものお参りがあった。それでも、なんとか車座に座れたが、この調子なら、法座会場のF家を増築して広げないといけない。「浄財を募らないといけないね」なんて、冗談もとび出すほどだ。高山以外の宿泊者も多くて、初めてお会いする方も数名あった。なんでも、華光大会が終了した2日後にはF家の宿泊が満杯になり、近くのホテルにも分散することになったようだ。

 法話は、白骨のご文を中心にした無常観を、いま取り詰めて聞くということ。善太郎同行の歌を中心に、「この善太郎」-この私と、引き寄せて聞くこと。そして、最後に、如来のご恩徳の高きことを沙汰せずに、我も、人も、善し悪しばかりを問題にしている姿を、羽栗先生の親のご恩の一説を基にいただいた。共通しているテーマは、具体的に、具体的に、「いま、ここの私」に引き寄せ、引き寄せて、如来様の願いを聞いていく。下らん頭を、下げ、頭を垂れて、「いま、ここで、聞く」。グズグズしている時間はない。珍しく、演台を叩いてお取り次ぎさせてもらった。

 最終日の昼間の座だけ、急遽、ネットからお参りされた方があった。終了後に、一言ご質問にこられた。

 「阿弥陀様の声がほんとうに聞こえますか」。

 こんな場合、即答するのではなく、「なぜ、この質問がでるか」-質問者の問題の根の部分に焦点を当てることの方が多い。たとえば、「声を聞いてハッキリと救われた確証がほしいのかな?」といった具合に、だんだんと相手の問題の方を明らかするしていくのである。

 でも、時間もなかったので、今回はそうはしなかった。それに、なぜ、この質問が出たのか、この方の経歴やネット上のやりとりから、その意図や理由がだいたいわかっているからだ。

 結論からいうと、「ハッキリ聞こえている」。ぼくには、たったいまも、ハッキリと聞こえている、といったほうがいいかもしれない。
 と、同時に、私の耳に聞こえたり、目で見えたりすることが、なんの証拠にならないことも教えていただいた。まったくそんなことを求めていない、そんな問いに用事がなくなった自分がいるのだ。

 でも、分からないときは、確かなものが欲しかった。「目の前に如来様が現れ、ハッキリと見えないか」とか、「声なき声が、ハッキリと聞こえないか」とか。とにかく、このわたしの目や耳ではっきりと確かなものを得たかった。そして、わが心に確かな金剛の信心を求めていたのである。しかしである。それは、それはまったくの方向違いだったのだ。何百年、何万年、頭燃を払うがごとく真剣な聞法をしたとしても、そんなことを求めている間は、何も聞こえてはこないのだ。この泥凡夫の腐った目で見えたり、この耳で聞こえることが、なんの証拠や保証になるわけがない。この無明の我が心でわかったこともまた同様だ。

 つまりは、まったく真実のかけらもない、死人(しびと)同様の身であることを教えていただいたのである。地獄一定のほんとうのわたしに出会わせてもらったのである。そして、そのわたしのものは、何一つ用事がなかった。まったく、お差し支えのものもなければ、ご注文もない世界があったのである。

 ご法話の最中も、皆さんが口々に、もちろん、ご法座が終わってからは一斉に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の声が、仏間に響き渡っている。そのことが、ハッキリ、クッキリと聞こえている。こんなにハッキリしたことがほかにあろうか。この「南無阿弥陀仏」こそが、三悪道で迷い苦しみ続きけるこの私を、なんとか救わずにおかんと、わたし独りに呼びかけて、この迷いの目を呼び覚まさせ、そして真実の浄土へと呼び返す、阿弥陀様の直々、命懸けの、大悲の呼び聲なのではないのか。

 いま、いま、ここで聞こえるままにお聞かせいただくのである。わが胸や聞き方の詮索ではない。この南無阿弥陀仏さまこそが、凡夫往生の支証(証拠)だと、蓮如様もおっしゃているが、この「南無阿弥陀仏」ひとつで、もう大満足の身とならせてもらっているのである。

 いまこそ、阿弥陀様のご苦労を遥か遠くにながめないで、いま、ここのわたしのありのままの身の上に、引き寄せて「南無阿弥陀仏」をお聞かせにあずかっていくのである。

「さればかたじけくも、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷えるを、おもひ知らせんがためにて候ひけり。まことに、如来の御恩ということを沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことのみを申しあへり」(歎異抄後序)

| | コメント (11) | トラックバック (1)

尻に火がつく

 いま、高山支部法座の帰路の列車の中だ。

 二度とするまいと以前決めていた、ご法座へのノートパソコンを持ち込んでの華光誌の編集作業である。

 年内発行のためには、あまり日数がないのだ。この一年、ムラ君に版下作成をお願いするようになって、格段に効率がよくなったので、ついつい計算を間違って油断した。今号は新年号で、年内発行のための印刷所渡しのタイムリミットがはっきりしているうえに、別冊の年賀交換と、年間行事案内がある。
 それに、その年賀交換と、年間行事案内だけは、まだぼく自身が版下を造っている。昨年なら、この時期、本体の華光誌の作業は終了していて、年賀交換に専念していたのに、今年は、まだ本体(誌上法話のみをやっと車中で完了させた)は、全貌すら見せてくれない。これゃ、20年ぶりに年内発行は無理か! というほどのピンチであることに、やっと高山法座の前夜に、作業の遅れに気づいて(遅いちゅうの)、突然、焦りだした。別に飛び起きて作業するわけじゃないのだから、そんな夜中に、いくら焦っても意味ないのに…。
 というわけで、行き帰りの車中でもキーボード叩くことになった。フルで三座法話をしたあとで、これはなかなかきつい。でも、誰のせいでもない。段取りを間違った、わが身の怠慢である。

 ただ、これも年内発行のタイムリミットがあるからの話だ。この締め切りがないと、いつまでも先のばしをしていくのが、わが自性である。
 それにだ。所詮、これもこの世の中のこと。まだ、この一週間、華光誌を最優先して、頑張りさえすれば、なんとかなるだろうという計算があるのも事実だ。それでも、万が一の場合は、年賀交換だけを最優先させて、本体は年越しとなっても、同人の皆さんにお詫びをすれば、別に社会的信用や、ましてや命まで失うような一大事の話ではない。この世のことは、なんとでもなるのである。

 そう思うと、無常を無常とは実感できず、「後生の一大事」といわれてもピンとこない身で、「早く後生の一大事を取り詰めて聞け」、「いま、しかないんだゾ」といわれても、遠い、遠い先の話になるのは、ごく当たり前の話。一期無常の締め切りは、相変わらず、ぼくの手帳には空白のままになっているものー。それでいて、無常を実感しようというのだから、轉倒しているとしか言いようがない。ほんとうは、これこそが二度と取り返しのつかない一大事なのにね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

週末は、高山法座と聖典講座

 師走というのに、ずいぶん暖かい。きのうも、今日も、厚いコートは止めて、薄手のジャンパーで充分。まだ京都は、紅葉がいけるかもねしれない。でも、明日から 天気が崩れて、週末からは寒くなるとの予想。高山は防寒対策が必要になるのかしら?

 今夜の書道教室は、一足早く年賀状の練習。かなり根をつめて疲れた。毛筆で書くことはなくなったが、練習だけはしているが、実践しないのでだめだなー。

 さて、週末の予定です。

1)高山支部法座 6日(土)夕方4時30分~7日(日)夕4時30分

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/takayama2008-12.htm

恒例の支部報恩講です。正信偈があがり、そのあと、女性陣のもちよりで、おいしいお斎(とき)がでます。昨年だったか、飛び込みで、法話も聞かずに、お斎だけを食べにきた家族がありました。お斎マニア(?)ではないかとのウワサでしたが…。

 今回もF家の宿泊は、定員オーバー。ほかの宿をとっている人も数名おられるし、1日だけ参加の方もあって、これはかなりの人数になりそうです。初顔合わせの方もあるようで、いまから楽しみです。
 ご法話は、いま、華光誌に追われているので、新しい教案はなし。最近の流れで、白骨のご文と、善太郎さんの歌、あと一つは、お念仏のワークにするか、高山なので(羽栗先生のお弟子さんが、ご縁の最初)、羽栗行道先生のもの「ご恩徳」の話にするかは、最終日の雰囲気次第です。

2)聖典講座 7日(日)昼1時30分~5時

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/12/seiten2008-12.htm

華光会館では、悟朗先生の『御文章』(当流勧化章)の詳細な解説があります。

 天気崩れそうですが、奮ってお参りください。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

手紙

 法座が終わると、参加者からのお手紙をいただくことがある。法座の礼状なり、感想や味わいが主なのだか、別に、いまに始まったことではない。ただ、ここにきてちょっとした異変が起きている。

 というのは、昔は年配の方を中心に直筆の手紙ばかりだったのが、メールが普及してからというもの、メールでいただくことが増えて、グーンと直筆手紙が減っていたのだ。

 それが、最近、老若男女をとわず、とてもきれいで、きっちりしたお礼状をいただくことが増えてきた。しかも、封筒も昔ながら白いオーソドックスな封筒で、なにより驚くほど、丁寧な字で綴られいてるのだ。最初は、ただただ感心するばかりだったし、内容も、とても有り難い、うれしいものがばかりだ。ただ、最近は、やはり感心しながらも、「どうして急増したのかな」と考えるようになって、気がついた。

 お手紙をいただいた方々に共通の経歴があるのだ。みな、華光会に出会う前にある会に在籍されている。どうやら、そこでは義務化されていた儀礼のようだったのかもしれない。なかなか麗しい習慣ではあるが、ご苦労さんなたいへんなことですなー。それが証拠に、半年もして、少し華光会になれて来ると、バッタリと手紙が来なくなったりもするし…。まあ、ここは人それぞれですが…。

 メールならだいたいは返信をするぼくだが、手紙は、いたって筆不精だ。ここは父に似てしまった。ただし、すべてきっちり読ませてもらっているし、内容によっては華光誌の誌友通信に掲載したいものばかりた。まあ、法座案内の端っこには、一行だけ触れているので、どうかお許しいただきたい。

 直筆のお手紙をくださった皆様、ありがとうございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

消火器

 キターッ!

 「消火器のヤマトと申します。点検、交換の時期となっております」との電話。 

 ハハーン、例のやつだね。

 実は、その昔、古い会館では、1年ごとに交換が必要な安価な泡式消火器を使っていて、この季節に、「ヤマモト」という個人経営のところに、交換を依頼していた。それで、「ヤマモト」と「ヤマト」を聞き間違えた母が、別会社に交換を依頼してしまったのだ。「いつもの方と違いますね」、「ええ、まあ…」なんてあいまいな会話があって、ご丁寧に、粉末式消火器まで購入してしまった。その1週間後に、いつもの「ヤマモト」さんが来られて、事態が発覚。もっとも、正規の値段で、詰め替えの必要がなくなったので、けっして大損したわけではないのだが、消防署の方も、「注意してくださいネ」という、グレーな話しで終わった。

 その後、華光会館を建て替えてからは、消火器も一掃され、貯水槽と、消防関係の点検と、3年毎の報告が義務づけられているので、毎年、決まったところに点検作業を依頼するようになった。

 それでも、この季節になると、この手の電話がかかってくる。小規模な営業所や事務所を狙った、詐欺まがいの商法。べらぼうに法外な値段を請求れるわけではなくても、ほんらい交換の必要のないものまで交換していく。だいたい、個人でも、自宅の消火器の製造メーカーを把握している人などいないし、交換だといわれると「そうかなー」と思うものだ。ちなみに、ヤマトというのは、消火器製造の大手メーカー。メーカーから直接、電話をかけてセールスすることはない。

 数年前の電話では、「ヤマトは、消火器メーカーでしょう。いまは、ほかの会社の消火器を使ってます。会社の名前を名乗ってください。大阪の○○商会でしょう。以前お宅の…」と詰めると、突然、ガチャンと電話が切られた。

 その後、しばらく電話がなかったが、担当が変わったのか、懲りずに電話が始まった。きっと、名簿に掲載されたままなんだろうなー。商売とはいえ、たいした根性だけど、要注意やね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

またまた、有線放送で…

  カレンダーをめくると、最後の1枚。12月1日ですね。飛ぶように早い1年でした。

 珍しく大手のシネコンまで、街を自転車でブラブラと走りました。

 お化けかぼちゃんが奉納された矢田地蔵尊。代受苦地蔵、「代受苦」の言葉にドキッとしました。(スマセン! うまく写真がでませんわー)  

Img_4415  天気がよくて、西本願寺のいちょうがきれいでしたが、これは夕方に撮ったもの。

 さてさて、またまた、有線放送(有料)で、法話が流されています。

 http://music.usen.com/modules/J/content00022.html (→顔写真の下を文字をクリックしてもらうと、紹介のページへの飛びます)

  この1年間で、3回目になります。どこをどう気に入ってくださったのでしょう? けっして、一般向けとはいえないのと思うのですが、なかなか評判がいいとのことなんですね。かなり不思議な気がしますが、有り難いことですがね。

 今度は、10月の東京の講演会法座の法話の様子。

 このときは、会場で、担当の女性とも初めてお会いできました。笑顔の素敵な、とてもキュートな方でしたね。

 もうひとつ、華光誌友、同人会の皆さん、華光誌の年賀広告の申込みはお済みですか?もう締め切っていますのが、これから作業に入ります。ウッカリ忘れていた方は、早急にお電話ください。もしかすると、駆け込みでお受けできるかれしれませんよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »