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大いに異議あり

Img_3581_4 前の記事で、善太郎さんの法語のポスターの写真を掲載したが、この写真ではわからなかったが、クリックして拡大してみると、横に現代語訳がついているのに気付いた。最後の一文に、多いに異議ありだ。尊い法語も、この訳じゃまったく意味がなくなる。せっかく、「この善太郎」と出たのに、「みんな救われている」鷹揚な阿弥陀様に逆戻りしてどうするの。 「この善太郎」こそが思いとられてるんですよね。善太郎さんが、そう阿弥陀様と真向きになられたように、ひとりひとりが、「この○○」として聞かせてもらわないかぎり、お救いはこのわたしに至り届いて来ない。「私ひとり」と聞かせてもらうことが、ご聴聞なのになー。

原文=「おがんで助けてもらうんじゃない。
おがまれて下さる如来さまに
助けられてまいること
こちから思うて
助けてもらうじゃない
むこうから思われて、
思いとられること
この善太郎」

ポスターの訳=「阿弥陀様に対して、普通なら、こちらからお助けいただきたいと思い、願って、お助けいただくのだけれども、そうじゃない。実はそうじゃないんです。向こう、阿弥陀様の方から、わたし善太郎のことを心にかけくたさって、お救いにくださるのです。ほんとうにありがたいこと、この善太郎、そしてみんなが、救いとられるのです。」

 なんともヘタな訳だが、「そしてみんなが、すくいとられているのです」の、みんなって、どこの誰なのだろう? 第一、原文のどこを探しても、そんな文言はない。善太郎さんの胸をえぐるようなお言葉も、結局、「みんなも、救われてるんですよ」なんて程度だったのだろうかと思うと、悲しくもなる。でも、これが典型的な浄土真宗のご聴聞なんでしょうね。

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コメント

南無阿弥陀仏 かりもん師のおっしゃる通りです。「むこうから思われて、思いとられること、この稜」ですね。かりもん師から善太郎さんの御文を知らしていただいてから、自力と他力の際をはっきりさせてもらうことの大事さ、日々聴聞の大事さを深く信知させていただきました。他力は他力で微塵の自力も交わらない。南無阿弥陀仏さまですからね。今生の父母に生まれ、育てて戴き、仏法に遇わせて戴き、四の五の言って頑張ってます、聞きます、念仏しますと、時に大声あげ泣いた事も、時にはそこでお手をあげ降参し、阿弥陀様にお任せしますと言っても、これもみな自力。ほんに不可称、不可説、不可思議な他力(南無阿弥陀仏)さまですね。それもこの稜一人をお目当てにした働きですから。南無阿弥陀仏。。風邪、インフルエンザ流行の兆しの折、お体をご留意下さい。

投稿: 稜 | 2008年11月19日 (水) 15:17

稜さん、いつもありがとう。ずいぶん、寒くなりました。
 ほんとうにそうですね。全部、全部、剥がされていくんですね。でも、そこに「南無阿弥陀仏」ですよ。

投稿: かりもん | 2008年11月20日 (木) 00:20

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