« 大いに異議あり | トップページ | この嫌な感じはなんだろう »

その背後に流れるもの

 真宗カウンセリング研究会の月例会。

 それにしても、急に寒くなった。朝、いつもの調子で自転車に乗ったら、ブルブル震えてきた。夜は、真冬並の防寒具で出かけたが、この気候では、夜の会合の參加者は少ないだろうなーとの予想が、うれしいことに初参加を含めて10名の参加があった。

 カウンセラーの態度が終わって、その背後にある哲学と、その成果の客観的検証についての項目。哲学というと難しいけれど、態度を支える理念というか、基本的な人間観のところを読む。担当のゼンゼン君が、苦労しながら、さまざまな引文を載せてくれていたが、要は、人格変化の中核条件としての援助的な態度の背景にあるものは、いま流行りのお手軽なマニュアルやHou to物、または単なるテクニックではないということだ。つまり、その態度の背後には、人間と人間がもつ可能性を大いに尊重する、そういう哲学に支えられていなければ意味がないというのである。「人間はその核心において信頼に値する生活体である」という、人間中心のアプローチがよって立つ基本的な人間観である。

 「人間の生命力・成長力への信頼が深まれば深まるほど、つまりいのちのたくましさとすばらしさに、手放しで感動できるようになればなるほど、小賢しく『カウンセリングをしてやろう』『相手を変えてやろう』といった、尊大な気持ちにはなれなくなるのだ」(『暮らしの中のカウンセリング』)

 どこかで相手を変えてやろう、しかも即効性のある方法を学びたいとなると、マニェアルどうりに操作して、テクニックを覚えていけば、目先のことなら役立つかもしれない。それなお手軽さが求めれている社会であることも、よくよく分かっているし、時に、必要なものもあるだろう。しかし、その本質において、ほんとうに互いがこの人生をかけて、成長しあい、人格変容を遂げていく道には、そんなまやかしは通用しない。

 横道に逸れるが、以下の故村瀬孝雄先生が、ロジャーズの態度を実感をこめた日本語に意訳された言葉に、いま、心引かれている。

 「ひとりひとりのかけがえないの存在を大切にいとおしく思い、相手の身になって気持ちを汲み、率直にあるがままに接していきさえすれば、どんな人でも率直に生き生きとなり、本来の力や希望が湧いてくるものですよ」

 こういう意味のことをロジャーズが述べているときの彼の気持ちを忖度してみると、彼の独り言が聞こえてくるのである。

 「こう言ってしまうとあまりに簡単で当たり前のように聞こえるかもしれないが、もちろん実現はなまやさしくないことで、どうすればいいかなどと具体的に他人に教えることなぞ誰もできないし、そう試みること自体これを個性的に実現する努力を損なう恐れが大きい。結局のところ、一人一人が苦労を重ねながら、その人の智恵をつかむより他に路はないのだよ!」

 たぶん、突き詰めていけば、この考えが正しいだろうということは、昔から気付く人は知っていたはずである。
 『ロジャーズ』~クライエント中心療法の現在~

  まったくもって身も蓋もない言葉だが、たぶん、これが正しいのだとぼくも思っている。

|

« 大いに異議あり | トップページ | この嫌な感じはなんだろう »

カウンセリング・DPA」カテゴリの記事

コメント

 最近というか、ずっと解からない。先日、久しぶりに中村元著『ゴータマ・ブッダ釈尊伝』を読みなおしてみた。行き着いた先は、「あるがまま」これがよく解からん。
 欲を離れる。これも解からん。我を離れる。やっぱり解からん。理解ではないことはどうやら解かったが、やっぱりよう解からん。
 西光先生の『わが信心わが仏道』が、なかなか読めない。苦しい。今年で58。人間なかなか、人間になれそうにもない。嫉み、嫉妬、怨み、強欲が底で蠢いて入りのが、はっきりと自覚できている。
 とても「そのまま」「ありのまま」ではいられそうもない。世間的に生きていくすりをするには、無理をしなければ到底、生きていけそうもない。善人ごっこは、結構しんどい。悪人ごっこも結構しんどい。
 それでも「自分と向き合うことの大切さ」をおっしゃるのか。残念なことに、僕には信心はない。
 かつて敬虔なクリスチャンごっこをしていた時にもついぞ聖霊に導かれたことはない。西光先生と仏教ごっこ、真宗ごっこをしていた時にも不可思議光に包まれたこともない。
 どうやら僕は、全てを知的に論理的に理解しようとしているのだ。行が解からん。
 今回はこれくらいにしておきます。まずは、ご挨拶まで。

投稿: 如修羅 | 2009年1月 2日 (金) 11:01

如修羅さん、

はじめまして。よろしくお願いします。
その前に、新年、初のコメントなので、「あけましておめでとうございます」ですね。

まあ、ぼくも長いあいだ、求道ごっこ、聞法ごっこをしておりました。いまも、僧侶ごっこしているんじゃないかなと思いますね。 阿弥陀様からみたら、凡夫の真剣なんて、所詮、「ごっこ」遊びみたいなもんですからね。

ところで、このブログのタイトルは、「かりものの実践生活」ではなく、「かりもんの実践的真宗法座論」と申します。
どうぞ、こからもよろしくお願いします。

投稿: かりもん | 2009年1月 2日 (金) 23:47

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: その背後に流れるもの:

» 真カ研月例会 11月 [真宗 と カウンセリング ]
今日は真カ研の月例会でした。先月は欠席したので2ヶ月ぶりですか。内容は引き続きロジャース氏の論文の輪読会です。 カウンセラーが「人間に関しての哲学」を持っていないと、「一致・共感・肯定的配慮」といった態度を経験することは難しい…という内容なんですが、「哲学」という言葉で示されると、哲学をかじったことのない私にはどうも遠い話になってしまう。で、先生や他の方々の話を聞いていると、それは「人間観」と置き換えてもいいような感じでしたね。それならば、少しはニュアンスが見えてきます。 そのあと、ロジャース氏... [続きを読む]

受信: 2008年11月21日 (金) 09:37

« 大いに異議あり | トップページ | この嫌な感じはなんだろう »