« 披露宴 | トップページ | 対岸の火事? »

わが身に引き寄せる

Img_4398_2   もう1泊して東京支部法座に臨んだ。
 年間スケジュールの時点ではなかったものが、今回の結婚式に合わせて企画されることになったのだ。おかげで、講師陣も、司会陣も、華光会館の行事並に豪華な顔ぶれとなった。こんなこと、支部法座では、初めてじゃないかな。当然、参加者もいつもの法座よりかなり多くなって、なかなかの盛況ぶり。先月の東京公開講演会の成果が早くも現れて、そこから新たに5名もの参加者があったことが、うれしかった。その中のお一人から、「公開講演会だったので、思い切って参加できた」と話を聞く。きっと、関心を持ちながらも、戸惑ったり、躊躇されている方も多いのだろう。その意味では、少し敷居の低い、あまり詮索されない集いも、大いに意義があるのだ。
 そして、今回は、法話が2回のほかは、3グールプに分かれての分級(ぶんきゅう)座談会が中心となった。
 法話は、「善太郎さん」の法語中心に、聞法の焦点をしぼって、お伝えした。一文不通でありながら、「この善太郎」と、わが身に引き寄せて聴聞し、大胆にもお聖教の中身まで「この善太郎」と読み替え、具体的な生活の中に、地獄の姿を観て、日々の暮らしの隅々に、如来様のご恩徳を仰いでいかれた尊い先達である。

1)具体的に、
2)いま、ここの、
3)私ひとりと
 「聞く」ことがないと、いつまでも遠い遠いおとぎ話で終わってしまう。そして、「後生の一大事」が迫ってからでも、無常や罪悪が実感できてからでもない。まさに、いまここで、この私のままに、具体的なわが心と、如来のお働きに触れていくのである。誰の人も、早く、「後生の一大事を心にかけて」、わが身に引き寄せて、引き寄せてお聞かせに預かるのである。

  ある初参加者の感想にもあったが、これまで、どんなに熱心に、かつ真剣に、何十年もの間、聞法してきたつもりだが、如来様は常に遥か遠くで、わが心の懈怠ぶりはまったく変わらない。その心を「なんとかもっと真剣に」「なんとか、なんとか」「どうすれば、どうすれば」ばかりを求め、わが心の変化を追い、その方法を探ることが、真摯な聞法の中身にすりかわっていて、まったく自分が抜けた甘い聞き方をしてきたというのだ。法話の内容をよく覚えて、聞いた正解を口に出すことは出来ても、一度だって、わが身に取り詰めて、「いま、ここで聞く」、そして「ほんとうに、いま、どう聞いていたのか」と、自らも、また他からも問われることがなかったのだという。その意味では、「後生の一大事」とか「信心獲得」という言葉が単なるスローガンで終わっていたのである。遠方への聴聞で、時間も、金銭も、労力も、そしてピシッと正座をして真剣に聞いてきたと思っていたが、実に安易な、甘い聞法だったということに気付かれたようだ。

 結局、具体的な自己のわが身の浅ましさも聞かず、そのわが身にかかる、如来のご恩徳の高いことも聞かずに、「感動した」とか、「泣けたからよかった」、「居眠りしたり、よそ事だったのでダメだった」とか、つまりは、法話が、わが心の良し、悪しばかりにこだわるための道具になっているだけのことである。だいたいそんな聞法では、教義ばかりの観念的な捉え方で、現実の自分はお留守になる。だから、いつか、どこかで、誰かがと、つまり、完全に「人ごと」としてしか聞いていけないのだ。そうすると、「聞けない」のではなく、そうしか「聞いていない」のである。

 ご聴聞は、その聞き誤りを教えていただくばかりだ。

 法蔵菩薩の兆載永劫(ちょうさい・ようごう)のご修行も、けっして遠くにあるのではない。このいかりとむさぼりの心で荘厳された、懈怠と愚痴一杯の、わが心の底に、飛び込んで、いのちをかけてくださっているのである。いま、ここの、私にである。よそ事や、きれいな、立派なところばかりを求めても、絶対にそのおこころが至り届くことはないだ。

|

« 披露宴 | トップページ | 対岸の火事? »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: わが身に引き寄せる:

« 披露宴 | トップページ | 対岸の火事? »