執着の強いひと
急に、秋が深くなった。山間のPAで、車を止めたら、予想以上の冷気に驚いた。
年に二度、兵庫県豊岡市の日高支部にお世話になる。いまでこそ、豊岡市になっているが、もともとの古いご縁は、豊岡が先で豊岡支部があり、隣接する日高町に駅名をとって、江原支部があった。共に、華光有数の強信な同行を輩出した地。ところが、豊岡支部の方が、早く高齢化が迎え、いまとなっては、生きておられる、華光誌創刊時の67年以上前からの同人がお一人になられた。創刊時からの唯一の生き残りだ。この日高町が合併で豊岡市になったのは平成の大合併で、最近の話。いまだに日高支部のままだ。
でも、ここも激しく高齢化が進んでいる。亡くなられた方も多い。お参りも、一人欠け、二人欠けと、年々寂しくなってくる。夜の法座は、10名程度。その代わり、お宅を直接、訪問して勤行をし、ご法義話もすれば、時に愚痴話の聞き役でもある。7、8軒程度だが、ボチボチ家族の方ともご縁が出来ることはうれしい。若いお嫁さんが、2日目の子供会にお参りくだされたりもする。でも、今回は、突然、地域のお寺さんとの複雑な相談を受けた。いや、これはたいへんだー。まあ、これはここまで。
そして、今回もお宿をしてくださった年老いたお二人と夕食を供にする。滋味深いお味わい。風呂やトイレの掃除のために、デイーサービスを頼まれるのに、いまだにお世話くださる。50年以上続いてる。昨年の東京大会のことを盛んに喜ばれ、華光の世代交代を楽しみにされている。
「支部長さんが、とてもよくして下さる。会館でも若い皆さんに、ご厄介になるばかりで何も出来ませんわ」と言われた。
でも、そんなことない。これまで、どれだけご法のために活躍されてきたことか。「五十数年にわたり、いまだにお宿してくださり、さまざまな求道者のお世話してくださったじゃありませんか」と言うと、
「不思議なご因縁で、先生と50年間に渡って、ご一緒させてもらえたことが、どれだけの幸せかわかりません」と仰る。そして、先生に一日でも長く、ご法を伝えてほしいとの念願を語られる。
ぼくが、「さすがに、最近は、同じ話が多くなりましたよ」と言うと、
「いえいえ、それでいいんです。最初は、これも聞いた話だと思って聞き出すけれと、最後にかならず、涙とお念仏になります」。そうなんだなー。これも知ってる、これも聞いた、この話は…という聞き方は、知識や話題だけを追いかけている。結局、お聞かせ預かるのは、いつもひとつのおこころをでしょう。どんな話題やテーマも、大事なご法が外れたら、意味ないなのね。
その後、お念仏の讃嘆がはじまり、そして亡くなったT同行の話題へ。評していわく、
「あれだけ、仏法に執着の強い人は、もう出ませんなー」。
なるほどね、確かに執念の人だった。強信な人とか、篤信家なんて言葉はあるけれど、仏法に執着の強いとは、Tさんを言いえている。
でも、阿弥陀さんほど、執念深いしつこい人はないよなー。その阿弥陀さんが、「この私が、地獄で泣いていがるを、ひと目この阿弥陀如来が、ご覧あせられたのが、不憫のはじまり」なわけですね。すべて、そこから出発している。
2日目の朝は、子供の報恩講。ご法話は、繰り返し同じテーマでお伝えする。手を合わせてもらえる身となったこと、お念仏にしても、そして食事の言葉にしても、それを教えてもらえたおかげで、犬や猫と違う人間らしく生きられることをお伝えした。そこに、どれだけのご恩徳やお手間がかかっていることだろう。今回は、夏の仏の子供大会に、中学3年生までズッーと参加してくれていた方が、お母さんとなって、子供(ぼくの下の子と同級生だったので、年中さん)さんが、二組も初参加された。彼女は、子供の時の面影を残しつつ、もう立派なお母さんになっていた。20年以上の歳月があって、街ですれ違っても分からなかっただろう。でも、彼女には、「先生のことはわかりましたよ」と言われたが…。
これも、何十年も、ここで子供会をされてきたT同行の執念のたまものだ。
その背後には、ひとりひとりに、「わたしをひとりを救ってみせる」の執念の塊の阿弥陀様がついておられる。
そこを見ずに、そこを聞かずに、表面の言葉や行動だけを追いかけて、一喜一憂していたては、この人生、瞬く間に空しくすぎてゆくばかりだ。
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コメント
お世話になりました。地方法座の進め方も改善できるところはして、一人でもお参りしたい方ができる方法を工夫せねばと思っています。今まで長い時間をかけて築かれたものを変える時は難しいものです。しかし、関わりをもたせていただいて、今ななら理解なりご協力をいただけるのではと感じています。ここで一番大切なことは、誰の問題ではなく私の問題であり取組む姿勢・意思だと思います。釈行然師は正に仏法に執着され、法に染まったお同行さんであったと。また、お世話されるHSさん、私の叔母たちもまた聴かせていただく法の時を“初事”としてお念仏をされています。このような方がたとの座を重ねるにつけ、時が経つにつけ法に生かされて生きる念仏者の法に執着された姿を見せつけられます。このお味わいを気付かされるまでお育てを戴いたことに、素直に感謝してお念仏をさせていただきます。来年の行事予定の具体的な進め方につては、ご相談したいと思います。法への執着もやはり南無阿弥陀仏の大きな働きで、決して私のせこい計らいではない。でも報謝としての意思を感じたこの度の法座でありました。ありがとうございました。南無阿弥陀仏。
投稿: 稜 | 2008年11月11日 (火) 10:57
稜さん、お世話になりました。ありがとう。
ほんとうにそうですね。日頃は、なんとも思わずに暮らしていますが、私の周りは、黄金色に輝く諸仏方に囲まれているんですね。
来年度の予定(3月)は、いましばらくおまちください。広島カウンセリングとの日程調整中です、
投稿: かりもん | 2008年11月11日 (火) 23:11